おっぱっぴー小学校に入学
妻や子供たちもストレスを感じてはいるが、想像以上にタフで、この状況にも対応してくれている。非常時には社会や人々の本質が発露するものだ。人生の軌跡で妻や子供たちに出会えたことを有り難く感じる。
世の中ではソーシャルディスタンスという言葉が広がっているが、外出を自粛する家庭においても夫婦および親子の距離が大切だな。
限られた自宅の面積の中で家族同士の物理的な距離を保つことは難しいが、それぞれのスペースをあらかじめ決めておいて、あまりに長時間の空間の共有を避ける。
加えて、妻や子供たちに対して、普段なら口に出してしまう一言を飲み込むことも大切だなと思った。
「ありがとう」とか「私もそう思うよ」といった否定系を避ける言い回しも有用だな。
その一方で、平時から私は通勤と仕事で長時間を要しているので、自宅にいる時間がとても少なく、家庭における存在感がとても希薄になっていた。
また、妻にも仕事があり、子供たちにも塾や習い事があり、家庭全体に余裕がなかった。
感染症の拡大というあまり幸せではない事象ではあるけれど、妻や子供たちとの会話の機会が増えた。家族の存在を確かめたり、思い出を綴るという点でとても重要な機会だな。
日本は、電車やバスの運行が少し遅れただけで人々が苛立つようなところがあって、その真面目さが良い点でもある。即時性のあるテレビを見入ったり、しきりにツイッターで意見を飛ばすといった傾向にも、そのような性格が顕れている気がする。
毎日が速いスピードで過ぎ去り、落ち着いて物事を考える余裕すらもないことがほとんどだ。
だが、五十路まで生きてくると人生の残りが少ない。もっと毎日を味わって生きることも大切だなと感じる。
子育ては長いようで短いという言葉は本当で、子供たちが中学生になれば、父親を構ってくれる機会がさらに減る。そうやって親離れや子離れが進むことは重要なプロセスだ。
けれど、早回しのように流れていく毎日の生活の中で、家族と十分な時間を用意することは難しい。まるで、大きな川を流れる落ち葉や枯れ枝のように海に向かって漂っていく感じだった。
パンデミックという強引なきっかけではあったが、こうやって妻や子供たちと会話することは、人生を振り返ると貴重な時間だったなと感じるはずだな。
今回の新型コロナウイルス感染症においては、状況が週単位で変化するという性質がある一方で、おそらく落ち着くまでには1年から数年かかりそうな長丁場になることだろう。
最初から全力で感染症を封じ込めるというステージは、それが不可能だったという現実によって幕を閉じ、臨機応変に対応するというステージに入ったわけだ。
ウイルスと人類との戦争という表現が世界中で使われていたりするが、物事はゲームやSFのように甘くはない。対応する人員や物資には限りがあり、あまり前のめりになると人も物も枯渇して根性論に発展する。
多くの人たちにとっては、前線の人たちが決死の覚悟で事態の収拾に当たることを望むかもしれないが、前線の人たちの気持ちとしてはどうなのだろう。
彼ら彼女らだって同じ人間だ。もちろん職業人としての矜持がモチベーションを支えているかもしれないが、聖人や兵隊のように扱われることに抵抗があることだろう。労働の対価として給料が増えるわけでもなくて、減るかもしれないのに。
1年から数年に及ぶかもしれない長丁場において、前線が不眠不休で対応していたら心身ともに耐えられない。耐えられなくなれば社会が傾く。
けれど、自らの生活に直接的に関わらないことについて、日本の社会は感謝や労いが少ない。仕事だから当然だと。
自分たちが守られる立場にいながら、守る立場の人たちが消耗することを美徳と勘違いして、とかく色々なことを言う。
一方で、前線で戦う人たちに十分な人員や物資が用意されるのかというと、諸般の都合から見当違いな方向に判断がなされてしまったり、自らの満足や利益を優先して状況をさらに悪化させる大勢の人たちがいる。
昔から基本は変わらないな。
実際に行きつくところまで行きつかないと、この社会は現実を理解することができないのかなと思いはする。いや、行きつくところまで行っても、時間が経つと忘れてしまうかもしれない。
まあとにかく、長丁場で無理を続けることは避けねばならない。今は気が張っているので耐えられるかもしれないが、疲労が一気にやってくる時期があることだろう。
それ以上に心配しているのは、子供たちのことだ。我が子たちに限った話ではなくて、日本中の話。
我が家の場合には、上の子供は進学塾に通っているので、小学校が休校になっていても学習という面ではあまりダメージがない。
高い授業料を払っているだけのことはあって、教材も豊富だし、タブレット端末でオンライン講義を受けることもできる。子供や親から質問があればメールや電話で講師が答えてくれる。
さらに、ZOOMを使ってクラスがネット上で顔を合わせることもできるし、講師から自宅に電話がかかってきて、子供の学習状況を確認してくれたりもする。
下の子供についても、そろそろ学習塾に通う時期だったので、その準備としてのドリル等は妻が用意してくれている。
子供たちも毎日のルーティンとして学習を続けてくれている。
いつも妻や子供たちについて愚痴ばかりため込んでいる私だが、このような非常時になると、家族の有り難さを実感する。ありがとう。
一方、外出自粛という状況において私は何をしているのかというと、オーダーメイドでチタン製のロードバイクを手に入れようと貯めておいたヘソクリ...いや、我が家の財政調整基金を活用して、図書と食材と家電を計上することにした。
感覚過敏を抱えた地獄の中で命を削りながら職場に通い、その対価として得た金を趣味に使うことは、私が生きる気力を維持するために必要なことだが、この状況では家族のために使おう。
当初、最も手っ取り早く子供たちを静かにさせるにはゲーム機だと思ったので、価格が高騰している中古品を構わず購入し、どうぶつの森で遊ばせようかと思った。
しかし、YouTubeなどでこのゲームの実況を眺めてみると、あまり教育において有用とは思えなかったし、依存性もありそうだし、私自身がネットゲームでハイになりかけたこともあったので、ゲームについては採用しないことに決めた。
一方で、子供たちが興味を持った本であれば、小説、漫画、歴史といったジャンルに関わらず、「お父さん、これ、買いすぎじゃない?」と言われるくらいに買っている。
むしろゲームよりも金がかかるかもしれないが、本を読むということはとても大切だと思うわけで、自宅からの外出が制限されるような状況なので、せっかくだから思いっきり本を読めという方針を執ることにした。
それと、このタイミングで食器洗浄乾燥機が壊れたので、ケーズデンキに行ってハイスペックなものを買って設置してみた。これがなかなかの逸品で、想像以上のスピードで食器が綺麗になるので妻が喜んでいる。
妻は食事にこだわりがあるので、これだけストレスが溜まる状況だから気にせず食材を買ったり、テイクアウトをするように伝えた。
だが、家庭内で完結する話ならば何とかなるが、素になって考えると、ここまで外出自粛や休校を続けていて、この社会は大丈夫なのだろうかと不安に感じたりもする。
すでに生活が苦しくなっている世帯はたくさんあることだろう。
それは親が経済的に頑張ってきたか否かという話ではなくて、育った環境や職場の状況にも関係するし、人生の軌跡におけるタイミングにも左右される。
では、この状況下で、自治体のレベルで経済的に困窮した世帯を救うことが可能なのかどうか。千葉県の貯金に該当する財政調整基金は約500億円あったが、昨年の台風での被害に対応するという話になり、そのほとんどを取り崩してしまったと理解している。
それだけの予算を全て使い切ってしまったのか、今でも事業を中止して取り戻すことができるのかは分からない。取り戻すといっても、台風で被害を受けた人たちが困ることだろう。一度下した判断を変えることは難しい。
大型台風がやってきた時の千葉県の対応が十分ではなく、県民が憤っていたことは確かだが、ほとんどの財政調整基金を使っても県民から行政への信頼が回復したとは感じられない。
むしろ判断の遅れで復旧費用がかさんだという印象がある。
そこにパンデミックがやってきて、千葉県の対応が遅いと県民からの指摘は増している。泣きっ面に蜂だな。
千葉県が企業に対して活動の自粛を要請する代わりに補助金を用意しようとしても、あるいは県の取り組みとして市民を助けようと思っても、すでに基金を使い果たしてしまっている。
そうなると、他の事業等の予算を削るか、国に頼るしかなくなる。
東京都に比べて千葉県のアクションが遅いように感じるのは個々の印象や誤解ではなくて、そもそもの金が足りないからだと思う。
幹部たちの判断力、あるいは意志決定の不安定さも関係するかもしれないな。この状態を良しとした、あるいは近い将来のデメリットに気が付かなかったのは、千葉県民だ。
この懐事情では、千葉県が県内の市町村に対して金のかかるサポートを実施することが難しくなる。
市町村としてはより上位の自治体を頼りにしているわけで、千葉県にはもう少し頑張ってほしいところだが。色々と大変なのだろう。
私も千葉県民なのであまり強く言えた立場ではないし、近い将来に東京に戻りたくて仕方がないわけだが、私たちは千葉県が抱える多くの課題についてもっと真剣に向き合う必要があった。
では、浦安市に限った場合、この街の行政が窮状を訴えている中小企業を守ったり、休校中の子供たちにオンラインで十分な学習環境を提供しうるかというと、やはり限界がある。
前者については売り上げの落ち込みに対して焼け石に水くらいの金額、後者については現役の保護者として実感しているが全く足りていない。
「そんなことはない、浦安市の財政力は日本トップクラスだ!」と反論する市民がいるかもしれないが、あと5年くらいすると浦安市の財政は赤字に転落するという試算がなされている。
浦安市だって余裕があればもっと十分な対応ができるはずだが、現実的に考えて厳しい。
この街にも少子高齢化の波がやってくるし、羽振りの良い時に建設してしまった市の施設の維持、老朽化するインフラのオーバーホール等、様々な課題を抱えていたわけだ。
平成30年度末には130億円以上あった浦安市の財政調整基金は、色々と都合があって令和2年度末の見込としては58億円程度。
「なんだ58億円もあるのか。だったら、新型コロナウイルス感染症対策に使えばいいじゃないか」と感じるかもしれないが、平時であっても現在の基金の残高では足りないくらいの財政の赤字が待っている。
その時には、基金がどれくらい残っているだろうか。
老朽化した小中学校の大規模修繕工事は事業が見直されて滞っている。ゴミの焼却施設だって延命化を施すことが優先されて、大きな費用がかかる建て替えの予定が立たない。
財政調整基金が減っているとすれば、市の借金に相当する地方債はどうなのかというと、その残高は増え続けて300億円を超えている。
つまり、一般の家庭に例えると、貯金はどんどん減っているのに、借金が増えているという状況なわけだ。
明らかに財政に余裕がないことが分かっているのに、さらに市の施設を増やそうとしている。これらの施設の維持や管理でさらに金がかかる。これらの工事に関わる人たちを詳しく調べたところ、ああそうかそういう以下略。
浦安市にこのような施設があればいいとか、このようなサービスがあればいいとか、イベントをやりましょう、祭りを開催しましょうと、市民が様々なことを要望し、それを実現し、結果としてこの有様だ。
行政だけの責任ではない。高い財政力があっても、金を使い続ければ足りなくなる。その自覚を市民が持っていなかったというよりも、行政への関心自体が薄かったように感じる。
浦安市が新型コロナウイルス感染症対策として大規模な財政出動が難しい理由は、おそらく将来の見通しを含めた上での限界を感じているからなのだろう。
市内の中小企業や店舗を守ることは大切だ。しかし、その危機を乗り越えたところでインフラが破綻したら、市民の生活を守ることができるかどうか。加えて、大型地震や水害など、この街は様々なリスクを抱えている。
市民の公平性も考慮に入れる必要がある。
市民から見れば浦安市の対応が遅いと感じることはあるかもしれないが、本来ならば千葉県が対応するような問題も含まれている。
また、市民が望んでいる浦安市の対応においては、その根拠となる法律や条例がなかったりもする。
「千葉県や浦安市は子供たちのためにオンライン授業を提供すべきだ」といった主張をしている市民がいたりもするが、財源および教職員のスキルを考えると難しい。
公平性を重視する公教育において、全世帯にネット環境を整えるだけの体力が千葉県や浦安市にあるのか。
では、国の予算か。そうやって国に頼るから以下略。
今まで散々、金がかかる要望を浦安市に主張していた人たちが、今になってさらに金のかかることを要望している姿を見て残念に感じることがある。
この街には、かつてのような馬力が残っていない。そろそろ認めることも大切ではないか。この街の行政に夢や魔法を期待しても仕方がない。
浦安市としてどのような対応を執るのかと眺めていたら、各世帯に地域限定の買物券を配るらしい。和牛券や旅行券の発想と同じベクトルにある気がしてならない。
もとい、社会が混乱した時には、子供たちに大きな負荷がかかる。我慢を学ぶことは大切なことではあるが、それにも限度がある。
経済的に困窮した家庭において、子供たちの食事は維持することができているだろうか。
子供たちの学習環境について世帯間の差が生じてしまっているが、どのように補うのだろうか。
背景や経緯は違うけれど、私自身が借金を抱えた自営業の家庭で育ったので、経済的な厳しさや辛さはよく分かる。
子供たちは親の背中を見て育つ。親が金で苦しんでいる姿を見るのは子供ながらに辛く悲しかった。自分にはどうすることもできず、育ててくれている親への感謝と家庭の不安。それらが混ざったような複雑な気持ちだった。
大人になった時、我が子たちにその苦しみを与えたくなかったので、ループを断ち切ろうと、自分なりに努力してここまで来た。
私の代では無理かもしれないが、我が子の代、さらに孫の代には経済的に安定した生活に繋げられるようにと考えた。
そのために、学生時代は粗食に耐え、競争を生き抜き、故郷も捨てた。苦しくても夫婦共働きを続けている理由だって、最終的には我が子たちのためだ。
人生がある程度の軌道に乗り、子供たちも経済的に不自由なく生活しうる段階で、新型コロナウイルス感染症のパンデミックがやってきた。
私の中に安堵感や優越感がやってくるかというと、全くない。子供の頃の辛い記憶が蘇ってきただけだった。
余り物の食材で作ったカレーの味を思い出したくもないし、当時から社会は残酷だと思った。自分たちが困っていても、その町の人たちどころか、親戚さえ頼りにならなかった。
では、何が自分を助けてくれたのかというと、当時の日本の教育システムだった。
世帯の収入に関わらず、多くの子供たちに教育を授けるという制度はとても大切で、30年以上前は現在のように受験産業が活発ではなかったと記憶している。
都市部では学習塾がたくさんあったと思うが、地方の公立学校でも優れた教師がいてくれれば何とかなったし、国立大学に通うことができれば当時は学費も捻出することができた。
また、無利子の奨学金も整っていたし、大学院レベルになると選抜を勝ち抜けば学術振興会による生活費の補助も受けられた。私だけの努力でここまでたどり着くことは不可能だったし、この国の教育が助けてくれたことに感謝し続けている。
他方、我が子たちが育つ環境を眺めてみると、大学受験というよりも中学受験というかなり早い段階で人生のトラックが方向付られてしまう気がする。
本来ならば世帯の経済状況があまり影響しないはずの小学生というステージにおいて差が生じるということは、受け取り方によっては親を含めた競争社会という印象があるし、さらに残酷な状況になっている。
国立大学は財政が厳しくなり、授業料も値上げし、奨学金も有利子が増え、大学院においては博士課程まで進む日本人が減ったという話を聞く。
教育に力を入れない国家はやがて衰退する。次世代を担う人たちを育てずに国家が成り立つはずがない。まあ私が心配しても仕方のない話だが。
現在の公立小学校での教育においてはICTを活用した授業の重要性が指摘され、その取り組みが始まろうとしていた。しかし、その取り組みは試行段階だったわけだ。
教育関係者たちの本心としては、ICTは補助的なものであって、通常の授業で事が足りると思っていたかもしれない。
ところが、日本全国の小学校が一斉に休校し、ICTを用いて授業を行うという実戦がやってきた。
浦安市内の公立小学校の場合、子供が学校を休む時でもメールを使うことができず、連絡帳を同級生に渡して伝えるようなクラシックなスタイルだ。
大手の学習塾のように情報端末を用意してオンラインで授業を行うことは難しいことだろう。全ての世帯において端末やネット環境が整っているわけではないし、教師の先生たちのスキルや経験も足りない。
最近では、浦安市の公立小中学校の先生方が、Wixという無料のホームページサービスを使って、YouTubeに短い動画を投稿してくださっているが、これで子供たちの学習を支えることができるのかというと、おそらく無理だろう。
スマホでの表示が遅いWixを使ってしまったのはどうしてだろう。Jimdoの方が明らかに使いやすいし、そもそも無料サービスを使う必要もない。
浦安市の情報政策課は何をやっているのだろう。
お世話になっている小学校の先生の動画を拝見したが、登場しているのは小学校の中でもエース級の先生だ。学習参観では非常に上手な授業を行っていて感心したが、その先生をもってしても、オンラインの授業では難儀していると思った。
小学校の先生方は、クラスの子供たちの反応を見ながら授業を進めていく。その子供たちが目の前にいない状況では、どうやって授業をやればいいのか勝手が掴めないことだろう。
味見をしないで料理をするとか、暗闇の中で裁縫をするとか、そのような難しさを感じているのではないだろうか。
では、国や自治体が大手の学習塾と契約して、オンライン授業に慣れた講師が動画を用意し、日本全国に発信したとする。そのような取り組みで学習の不足を補うことができるだろうか。
おそらく、それも難しいことだろう。塾の先生方としては、様々な到達度にいる子供たちに対して等しく授業を行うことが難しいかもしれない。
公立小学校の先生方は常にクラス全体を考えて授業をするわけで、一つの授業においても理解度の基準をどこに置くのかという調整を行っていたりもする。
あまりに難しいオンライン授業だと勉強が苦手な子供たちを置いていってしまうかもしれないし、かといって簡単すぎる授業だと塾通いをしている子供たちが飽きてしまう。
つまり、小学校の学級における授業をオンライン化するというよりも、オンラインにおける授業というコンテンツ自体を立ち上げる必要があるということか。
これは大変だ。学習指導要領は、そのほとんどが学級での授業を想定している。オンラインで機能するかどうか。
結果、浦安市内の小学校ではオンライン授業はほとんど進んでいなくて、オンライン教材のサイトへのリンクを保護者に配り、小学校としては子供たちへの課題として印刷物を配布するというオフライン教材が中心になっている。
小学校の先生方としてはとても辛いことだろう。保護者も辛い。これらの課題だけで学習として十分であるはずもないし、夏休みや冬休みを削ったところで、学習指導要領に記載された内容を終えられるとも思えない。
また、公立小学校は、学習塾のように勉強だけを教える場ではなくて、集団での生活や道徳を学ぶ場でもある。小学校の先生たちの焦りは分かるし、とんでもない状況になったと悩んでおられることだろう。
その中で、学校の開始を4月ではなくて、9月にしようという話が持ち上がっていて、私も妻も「なるほど、その手があったか」と納得した。
わざわざインフルエンザが流行する寒い時期に受験をする必要もないし、今なら先生方も9月始まりの準備をすることができるかもしれない。
法律や条例の改正など、文部科学省や教育委員会が全力で行く必要があるかもしれないが、子供たちの教育は大切だ。
ついでに飛び級も始めてみてはどうかと思うのだが、おそらく教職員が反対することだろう。
ただ、一つだけ腑に落ちないことがある。
公立小学校のレベルで、より多くの子供たちにオンラインで授業を行うことは、本当に不可能なのだろうか。
YouTubeでは、小学校の先生たちがオンライン用の授業を公開してくださっていたりもするが、我が子たちは全く関心を持ってくれない。大変恐縮だが、親がその動画を眺めても集中が続かない。
学習塾のオンライン教材の場合にはテンポよく授業が進んでいくのだが、現役の小学校の先生の場合、本来の授業において用いられる「間」を大切にしてしまうからだろうか、子供たちの集中が途切れてしまう。
小学生に対してパワーポイントのスライドはタブーに近い。手書きの板書と教師の動きがないと情報が頭に入らないと思う。
放送大学の小学校版をやっても、子供たちにとっては、学習というよりも精神修行になってしまいかねない。
すると、YouTube側がリストの中で不思議な動画を提案してきた。何だか見慣れたコメディアンが水泳パンツの姿で授業をやっている。
小島よしおさんが学習塾とタイアップして、「おっぱっぴー小学校」という小学生向けの算数の授業をオンラインで行っているようだ。
彼の授業は凄まじく分かりやすくて、何より楽しい。
ノートパソコンでその動画を見ていると、呼んでもいないのに我が子たちが寄ってきた。ついでに妻も寄ってきた。
家族全員でおっぱっぴー小学校に入学することになった。
その授業の巧みさと丁寧さに私は妻と顔を見合わせてしまった。明らかに授業が上手い。
たった10分間にも満たないそれぞれの動画だが、その中で教えたいことのテーマがはっきりしている。
この動画のシリーズを一通り眺めた後で、浦安市の先生たちが公開している教材を見ると最後まで再生することができないくらいに居たたまれない気持ちになるが、小島よしおさんと比べてしまうこと自体が良くないのだろう。
彼が今でも子供たちの間で「そんなの関係ねぇ、おっぱっぴー!」を披露していて、子供たちにウケていることを初めて知った。
彼は元々、教育学部の出身で、小学校の教師になりたかったらしい。
画面の向こう側に子供たちがいたとしても、どのようなリアクションがあるのかをイメージすることができたり、話が単調になってきたところで楽しいネタを持ってくるところなどは、コメディアンだからこその嗅覚なのだろうか。
それにしても彼は授業が上手い。オンラインではなくて実際に教室で授業をやっても、現役の小学校の教師の先生方に劣らないどころか、むしろ上手だと思う。
おっぱっぴー小学校の動画を眺めている我が子たちの目がキラキラしていて、何度も繰り返して動画を見ている。
暗い話題ばかりが広がって、子供たちにも大きなストレスがかかっている。勉強というテーマだけではなくて、大声で笑うことも大切だなと思った。
しかし、保護者の中には色々な人がいるようで、小島よしおさんの授業を受けさせたいが、乳首は見せたくないというクレームが入ったようで、途中からTシャツを着て授業を行うことになった。
何だかなと思いはするが、下は相変わらずビキニパンツだったので安心した。
「あのさ、もう、算数だけじゃなくて、国語も、理科も、社会も、全教科、おっぱっぴー小学校で動画を用意して、日本中に発信したらいいじゃないの」と妻が本気で言っている。
「理科は、さかなクンがいいな。脚本と編集込みで1教科1億円の予算をかけても10億円もかからない。それで日本全国の小学校のオンライン授業ができるなら、保護者からは文句どころか賞賛の嵐だと思うよ。ネット環境が整っていなければ、ローカルなテレビ放送や録画装置を使うこともできそうだな」と私も答える。
だが、行政にそのような機転が利けば苦労はしないな。学校教育が関係すると、教育委員会を通す形になるのでさらに話が難しくなる。
かといって、小中学校の教師の先生たちが発信する授業動画は実用に耐えられるのかどうか。
先生方におかれては子供たちのことを考えて尽力してくださっているし、感謝申し上げたいところだが、このやり方で教科書を網羅することは困難だ。結局、課題を印刷物として配布して、オフラインで子供たちが頑張るという形になる。
それぞれの自治体の公立小中学校が個別に対応する形になると、時間も手間もかかり、子供たちの学習が満足に行われなくなる。
学校教育現場というのは、PTAもそうだが恒常性が非常に強く、変化を望まない。その特徴がとても強く顕れている。
一方で、大手学習塾に子供が通うことができる世帯では、塾にもよるが遠隔でも実施しうる充実した教材が用意される。
これが現時点での公教育の限界なのだろう。自分たちの子供の教育については、それぞれの親が考えて対処せざるをえない世の中だなと実感する。