2020/04/16

あえて鈍感になるための耳栓

HYPSENTのアクセス履歴を眺めてみて気づいたことだが、スマホ表示で録のタイトルだけを見て、録の内容を読むか否かを判断している人が多いようだ。


このようなタイプの人たちは、学生時代に国語の成績があまり良くなかったかもしれない。おそらく知人や友人だと思うのでイジりも兼ねて言及することではあるが。

私が録を記す時、タイトルの選定は実に適当なので、タイトルと文章の中身がほとんど関係ない形になってしまうことがよくある。

昭和の文豪の小説などでは、タイトルだけでは中身が全く想像つかなかったりもするが、私はそのスタイルを好む。

他方、昨今のネット社会では、とにかく面倒なことが敬遠され、手っ取り早く情報を手に入れることが優先されている気がしてならない。

ブログ等では、「ロードバイクで巡航速度を5km上げるためのたった4つのチューンナップ!」とか、「浦安市内で中学受験におすすめの学習塾ランキング!」とか。まあそういった要約に近いタイトルが多い。

さらには、個々のブログにアクセスすることさえ面倒になり、さらには文章を読むことも面倒になり、結果として写真ベースのSNSだとか、文字制限があるSNSだとか、まあそういった方向にネットユーザーの好みが広がってしまったりもする。

さて、相も変わらず新型コロナウイルス感染症について感じたことを記すわけだが、そもそもこのような社会状況において言及しない方が非典型的だと思う。

全く関係のない趣味等についてのブログエントリーを重ね続けている人というのは、おそらく強靭なメンタルを有しているか、あまり物事を深く考えないか、状況を真正面から受け止めていないか...まあとにかく友達にはなれそうにないタイプだな。

2020年4月16日現在で浦安市内において新型コロナウイルスの感染が確認された市民の数は16名。直近では感染経路が不明な人ばかりだ。

しかも、患者の多くは40代から50代の男性が中心となっている。昨今ではキャバクラや風俗といった夜の街で新型コロナウイルスが伝播しているという情報が発信されているが、この人たちが夜の街で感染したとは言い難い。

彼らの行動パターンを細かく分析していけば、どの辺りで感染したのかはある程度推測が付きそうだが、保健所はそこまで調べるだけの余力が残っていないかもしれない。

普段は市民からあまり注視されていないような浦安市のツイッターは、新型コロナウイルス感染者が増える度にリプライを送る人が増えてきた。

昨日だけで一気に4名の感染者が確認され、さすがに市民も脅威に目を覚ましたのかもしれない。

しかし、浦安市のツイッターに意見を送って施策に活かされるとは到底思えないわけで、市役所に電話するなり、メールするなり、市議会議員に相談するなり、トラディショナルな方法はいくらでもある。

普段から行政に関心を持っていたら、匿名のツイートを送ることは無意味だと分かるはずだが、面倒だからなのか、方法を知らないのか、まあとにかく私には分からない。

新型コロナウイルスによる第一波が日本にやってきた時、この国の研究者たちが最前線で対応に当たった。そして彼らは言ったはずだ。「市民の行動変容が大切です」と。

彼らがウイルス感染症の拡大を必死に食い止めて、可能な限り社会の対応が間に合うように時間を稼いでいた時、人々は何をしていたのだろう。

市民は感染症に対して念入りに対応をしていたと言えるのか。スーパーに並んでマスクや日用品を買い占める人たち。マスクもせずに人混みに入って行く高齢者たち。

近い将来に確実に訪れる不況によって就職や収入が厳しくなるわけだが、その時期に社会人になるはずなのに陽気に街を出歩いて楽しんでいる若者たち。

桜が咲いて綺麗だからと人々が密集し、自分は大丈夫だと根拠のない自信をもって夜の街を出歩き、さらには感染が拡大した海外に旅行に行ってウイルスを自ら持ち帰ってくる人たちまでいる。

大型のイベントが開催されたり、明らかに濃厚接触が行われる風俗に通う人たちまでいることには絶句するしかない。

浦安市内だってそうだ。行政が懸命に市民に対して行動変容をアナウンスしているにも関わらず、何ら気にしていない人たちが珍しくない。東京メトロ東西線の浦安駅前で飲み歩いている人たちは、おそらく深く考えていないのだろう。

ここまで感染が広がってしまうと、研究者が中心となって構築したクラスター分析にも限界が生じることだろう。結局のところ、平和に慣れてしまった人たちの心の中まで変えることは科学では難しいのだろう。

欧米のように都市封鎖のような強硬手段に出ない限り、人々の思考は多方向に進み、我や欲を優先する。結果、集団に危機が訪れる。

まあ、私が考えても仕方のないことだな。

私は普段からテレビを全く見ないし、自宅にテレビがない。また、最近ではネットニュース等もあまり見なくなった。この感染症については感染者数をマップで表示するサイトが多くなってきたが、それらもあまり見ていない。

そもそも、PCR検査の結果をもって感染者としてカウントしているのであれば、それらを地図上で表現してもあまり実態に即さない。

最近では日本以外の国々でも同様の対応が執られているケースが増えてきたが、新型コロナウイルスに感染していても症状がない限りPCR検査を実施しない場合がある。

つまり、「浦安市内で16名!」という情報が発信されても、実際にはもっと多くの感染者が市内を歩き、スーパーやコンビニの列に並んだり、飲食店で酒を飲んでいる可能性もあるわけだ。

子供を連れて混み合った公園に行き、ゲホッと咳をした後の手で遊具を触っているかもしれないし、ここまで感染が広がってくれば、市内のどこに新型コロナウイルスがいるのか分からない。

だからこそ、行政は市民に行動変容を要請し、外出を自粛するようにお願いしているわけだ。それでも、アナウンスの意味を理解していないのか適当に解釈しているのか、老若男女問わず出歩く市民が多い。

人の心は低きに流れる。これも世の常なのだろうな。

ここまでくると、研究者が最前線で踏ん張るステージは終わり、長期間の戦いに備えて、ウイルスの性状解析や抗体検査技術の確立、治療薬やワクチン等の開発といったテーマに移行することだろう。

そして、感染の拡大に伴って医療機関での真っ向勝負になってくる。

感染症の収束のために外出自粛といった市民の協力を呼び掛けるステージも変化する。

自分たちがアナウンスに応じなければ、実際にウイルスに感染する蓋然性が高くなってきた。発症してから、「ああ、きちんと対応しておけばよかった...」と嘆いても遅い。

また、国や自治体のレベルでの政治や行政の質が、残酷なまでに表に露出する。いや、すでに露出してしまっている感があるな。

それと、実に範囲が狭いことではあるのだが、医療機関のベッド数に余裕がなくなってきているのに、ソロライドなら大丈夫だとロードバイクに乗っている人がいて驚くのだが、落車による怪我には気を付けた方がよいと思う。

荒川沿いなどで落車して鎖骨を折って病院に運ばれても、すぐに手術をしてもらえるとは限らない状況だ。整形外科だけの待合室がある病院は少ないだろうし、そこには発熱でやってくる人々もいることだろう。

このような事態になっているのだから、まともな考えをもったサイクリストは自宅でローラー台を漕いでいるはずだが。

ところで、共働きの我が家では、新型コロナウイルス対策として夫婦ともに在宅勤務を行う機会が増えてきた。

問題としては、妻が私に相談せずに在宅勤務の日を決めてしまうので、私はその予定に合わせて自宅に居る必要があるということだ。

凄いと思う。妻は自分と会社の都合で話を決めるのだが、私の都合を尋ねようとしない。

小さな子供たちに一日中自宅で留守番をさせるわけにもいかず、妻としては義父母に子供たちを預けるという方針を私に相談せずに決めていた。

おそらくそのパターンだと義父が感染して死ぬぞと思ったのだが、この一族は先を読むことが苦手だな。実際に義父が死にかけたこともあった。

ということで、妻が仕事に出かけている日は、私が在宅で仕事をしたりもするわけだが、共働きの世帯で在宅は厳しいな。

平時であれば上の子供を学習塾、下の子供を学童に放り込めば何とかなるが、それらの施設の利用が困難になっている。

どうしても学童が必要な場合には下の子供を預けることができるのだが、浦安市内のあの状況の学童に子供を預ける気になれない。

浦安市としても休校中の校舎を学童に使用するといった配慮をしてくださっているのだが、市内の感染者数が増大している状況ではリスクがある。

40代よりも若い世代の場合には新型コロナウイルスに感染しても重症化する割合は低いようだが、いざ陽性になった場合には社会的なダメージもあるし、職場での勤務にも影響が生じる。

我が家の場合には基礎疾患のある高齢者の義父母との接触もありうる。私が止めても妻が無視して行動する可能性は十分にある。

ということで、在宅勤務を始めてみたのだが、すでに破綻しかけている。

外出が制限されている状況で、複数の子供たちをワンオペで世話をしつつ、しかも仕事を続けるというのは不可能に近い。

幼児の場合にはさらに気を遣うが、小学生だってなかなか大変だ。何かあればすぐに自室のドアを開けて子供たちが入ってくるし、外出の際には私が連れ添う必要もある。

昼食の用意や後片付け、子供たちが学習をさぼって遊んでいる時には叱り、かといってこの状況なら仕方がないなと気の毒に思い、とはいえ学習をさぼっていると妻がキレる。

何より、集中して仕事をしようとしても、子供たちがうるさくて集中することが難しい。

さらに、妻が職場での勤務を終えて帰ってくると、平時よりも苛立っていて子供たちに怒声を上げたりもする。

在宅勤務で処理しきれなかった仕事を職場でこなそうとして残業をして、結果として家事のスケジュールがタイトになっているのに、子供たちが思ったように学習していないことに腹を立てているのだろう。

平時と同じことを続けることは無理だ。怒鳴っても仕方がない。

可能な限り妻の怒声を抑えようと、私が家事をやったりもするのだが、これでは在宅勤務が全く捗らない。私はホームヘルパーとしてこの家にいるわけではない。

それでも、妻から私への気遣いの言葉があれば納得するのだが、おそらく何も感謝していない。しかめっ面のまま自宅でイライラしている妻を美しいとは思えないし、落ち着いて会話する時間もない。

昨日の夫婦の会話は合計でも数分間だ。

一体、我が家は何のために共働きを維持しているのだろう。経済的な余裕と引き換えに、家庭での心の余裕を失ってしまっている。

私のフラストレーションはいつ破裂するか分からないくらい風船のようになっている。

情報端末には、大変な量の仕事が送られてくる。平時に全力でやっても間に合わないのに、子供たちが自宅で騒いでいて、妻がイラついている自宅において、これらを何とかせねばならないわけだ。

家庭がこの有様で仕事が一向に進まない。家庭が仕事の支障になっていても、私は父親なので耐えねばならない。

おそらくなのだが、日本全国どころか世界中において、在宅勤務を行っている父親たちが大なり小なり感じていることだろう。

奥さんが優しくて思いやりがあって、子供たちが大人しくて真面目で落ち着きがある場合には大丈夫なのだろうか。それはドラマの中だけの話だと私は信じ込んでいる。

とはいえ、嘆いていても始まらない。妻や子供たちに対して不満をぶつけても家庭が荒れるだけだ。

要は、この聴覚過敏を何とかすればいいわけだ。

ということで、箱買いしている耳栓の封を切り、耳に詰める。

聴覚過敏の私が愛用しているのは、モルデックス(MOLDEX)というメーカーの使い捨て耳栓。

外耳道、つまり耳の穴に挿入するタイプの耳栓なので、頭蓋骨を介して伝わってくる音を遮断することはできないのだが、これでもNRR33の遮音性を有している。

NRRとはNoise Reduction Ratingの略で、日本語に訳せば騒音減衰指数という意味になる。これは米国環境保護局EPAが定めた数値で、遮音する音量のデジベル(dB)が基準になっていたと理解している。

NRR33というレベルは耳栓としてはトップクラスの性能で、例えばオープンなオフィスで周りのことを気にせずキーボードを打ちこんで騒音を発する人、いわゆるキーボードクラッシャーの音はほとんど聞こえなくなる。

自宅で妻が甲高い怒声で叫んだ場合にはNRR33でも通過して鼓膜に音が届くが、鼓膜が揺れるほどの衝撃はない。

それと、新浦安の場合には、あまり上品と言えない新聞配達員たちがオートバイの音を響かせながら丑三つ時くらいにマンションの間を走り回っているが、その騒音で目を覚ますこともなくなる。

とはいえ、私の場合には聴覚過敏があるので、NRR33の耳栓を付けていても、普通に家族と会話をすることができたりもする。便利なのか便利ではないのか分からない体質だな。

たまに、自閉症スペクトラム障害(ASD)の人が外耳を覆うようなイヤーマフを付けていたりするが、私もイヤーマフを使っていたことがある。

この歳になって自分がASDだと診断されても仕方がない話だし、ギフテッドにも聴覚過敏があったりもするわけで、私の聴覚過敏はどこから来たのかと真剣に悩んだこともあった。

しかしながら、残りの人生が20年くらいなので、特殊能力だと中二的に開き直って生きていたりもする。

ただし、抜群の遮音性があるモルデックス社製の耳栓だが、この製品に慣れるまでにはとても時間がかかった。気にならなくなったのは使い始めて4年くらいだろうか。

最初に、モルデックス社の耳栓は様々な形や硬さのラインナップがある。Amazonでは、それらをまとめたお試しパックが販売されているが、同じ遮音率でも付け心地が違う。

とりあえず評判の良い「メテオ」を使っていたのだが、夜に付けて眠ると、朝になって外してしまっていることが多かった。

とても柔らかい耳栓ではあるのだが、長時間にわたって使用していると耳の穴が痛くなる。

米軍仕様だと言われている「カモ」はさらに硬くて眠るどころの話ではなかった。

ということで、お試しパックを購入して、1週間以上かけて適した耳栓を探した。「ピューラフィット」という柔らかい耳栓が気に入り、2年くらい使っていたのだが、派手な色なので通勤中や職場のデスクワークでは非常に目立つ。

それ以上に、柔らかいピューラフィットがずっと耳に詰まっていると、違和感を覚えるようになってきた。

ふと、ずっと使わずに引き出しに入れてあったカモを見つけて、耳に入れてみた。

以前は痛くて使うことができなかったのだが、長年にわたって耳栓を使い続けて耳の穴が大きくなったのか、あるいはモルデックス社が仕様を変更したのか、カモの耳栓がとても快適だ。

カラーリングも迷彩色で格好がよい。

早速、Amazonで200個入りのカモを大人買いする。

高性能な耳栓を使い続けているうちに、耳の穴が大きくなってしまったのではないかと心配になったが、締まりが悪くなって困るような穴ではないので気にしないことにした。

聴覚過敏の人には、普通の人たちが聞こえている音がどのような感じなのかは分からないし、逆もまた然りだな。

静かな部屋でシャーペンの芯が落ちる音が聞こえるという世界は、それはそれで面白いが、世の中は普通の聴覚の人たちに合わせてデザインされている。

もちろんだが、聴覚が不自由な人たちのことも考えて列車のアナウンス等を設定する必要もあるわけで、聴覚過敏な人たちにとっては厳しい環境でもある。

ただ、普通の人が聴覚を高めようとしても無理だが、聴覚過敏の人が耳栓を使って聴覚を抑えることはできる。

最近では、自宅で私が耳栓を付けたまま生活していても、妻や子供たちが何も言わなくなった。家族に対しては申し訳ないと思うが、これも私なのだから仕方がないなと開き直ってもらっている。

耳栓を付けずに「うるさい!」と妻や子供たちに注意したり対応を望むよりも、耳栓を付けて鈍感になった方が家庭での不和を減らすことができる。

生きていれば誰だって悩みごとがあって当然で、何も悩むことがない人生なんて、紅ショウガのない焼きそばや、ワサビのない寿司のようなものだと開き直ることにした。

在宅勤務に慣れないとはいえ、労働の対価として金を受け取り生活している職業人としては、何とかして働かねばなるまい。

騒がしい妻と生活することになったのは過去の私の判断の結果で、騒がしい子供たちを育てることになったのは私の遺伝子の発現によるものだろう。

そもそも、家族が騒がしいと感じてしまうのは、私自身の感覚過敏に起因している蓋然性も高いわけで、誰が悪いとか、そういったことを言っていても始まらないな。

そろそろ在宅勤務にも慣れてきた。少しずつペースを上げていこう。