通勤地獄とスリップノット
何だか体調が優れない。
主訴は胃痛と吐き気。心拍数は軽度増加。今日は休みたいのだが、外せない仕事がある。駅の自販機でスポーツドリンクを買って飲んで胃痛をごまかす。
私は独身時代から正月明けの仕事始めの時期がとても苦手だ。
正月休みが終わることの悲しみではなくて、芥川龍之介の言葉を借りれば「ぼんやりした不安」がやってくる。
新年を迎えて社会が一斉に動き出す勢いが大きくて、あまりに多くの情報が脳に入って疲れてしまう。
それにしても晩秋から続く多忙な仕事に加えて、保育園児から小学生への子育てのステージの変化、着々と近づいてくる子供の中学受験の準備、妻の仕事の完全フルタイム化、近くに住んでいる義実家への不満、往復3時間以上の私の電車通勤。
書き出しただけで私を取り巻く環境の厳しさを実感する。
年末に高熱と派手な気管支炎を起こして1週間以上寝込んだ。疲れが溜まっていたことも関係するだろうし、五十路を前に老いてきたことも影響しているのだろう。
年明けから復帰して働いているものの、長めに薬を服用したからなのか胃の痛みと吐き気が続いている。
遠近を交互に眺めると視界が揺れることがあるのは病後の疲れなのか、それとも老眼なのか。
夫婦共働きの子育てにも様々な形があって、私の場合には自分の仕事が忙しい上に長時間の電車通勤。そして妻の実家が近いにも関わらず核家族状態。妻の職場があまり遠くないことだけは幸いだが。
嘆いても仕方がない。私の出勤を遅めに、妻の出勤を早めにシフトして対応することになった。
私が深夜に帰宅した時には妻が眠っているし、妻が出勤する時は私が眠っている。
夫婦それぞれの時間で家事を行い、私は長時間の通勤、妻は子供の世話。妻が忙しい時には私が子供の世話。
たまにお互いに起きている時があったりもするが、短い会話を交わすだけ。平日にほとんど夫婦の会話がなく、それが続くと休日も会話が減る。
最近は仕事の遅れを休日出勤で補っていた。こんなに通勤に時間がかかると、1日22時間くらいしかない感じがある。
妻からも気遣いがあって、この年末年始は私が休日出勤しても文句がなくなった。とても有り難いことだ。
家事や子育てで大変な時期なのに、私は夫として父親として至らない。この通勤地獄さえなければ。
浦安が一番住みやすいと主張した人たちは全く責任を取らないわけだ。23区に住んだこともないのに。ただ、この生活を受け入れたのは私自身の判断によるものだ。
一体、私は何のためにこの状況で共働きの子育てを続けているのだろう。引っ越した当時は23区に保育園の空きがなかったので、わずかに空きがあった浦安に住んで助かった。
しかし、子供たちのことを考えると現時点での転校は気の毒だ。
結果、通勤地獄で酷く消耗して、家族と過ごす時間も少なく、夫婦間のテンションが張り、家庭での父親という存在が薄れていく。
この生活の向こう側に幸せがあるのだろうか。経済的には不満がないし、職場も気に入っている。
だが、毎日3時間も通勤で苦痛を受けて顔を歪める生活は幸せとは言いがたい。
仕事に行って生活の糧を確保することは夫であり父親の役目かもしれないが、私にとっての仕事とは必ずしも家庭のためにあるわけではない。
妻や子供たちがその働きについてどれくらい感謝してくれているのか分からないが、私は自分のために仕事をしている。
その対価として受け取った金を妻や子供たちに渡している。誰のお陰で飯を食っているんだとか、昭和の親父たちはよく言っていたな。
そこまで言うつもりはないが、父親をリスペクトすることも大切だと思う。倒れたら分かるけれど。
昨今では様々な父親像が提案されているが、少子化に伴う勤労人口の減少が背景にあることは否定できないわけで、そういった社会情勢が含まれた上でのライフスタイルなのだろう。
しかし、父親としての責任は何かと考えてみると、妻や子供たちを経済的に苦しませないことが最も大切な柱の一つであって、それは昔も今も変わらない。
併せて、私はあまり裕福な家庭の出身ではないが、これといって欲しいもの、あるいは経験してみたいことがあまりなかったりする。
例えば、新築一戸建てやタワーマンションに住みたいとか、高級外車に乗りたいとか、高級レストランで食事をしたいとか、海外旅行でたくさんの国を訪れてみたいとか、そういった欲求がない。
ロードバイクという趣味に金をかけたこともあったが、実際に揃えてみると満足感はしばらくしか続かない。最近では趣味への出費が減って貯金が増える。
パチンコや競馬、競艇といったギャンブル、夜の飲み屋や風俗にも関心がない。浮気や不倫にも興味がない。若い頃はオンラインゲームに熱中したこともあったが、何だか無意味に感じて手を出さなくなった。
共働きの子育てと長時間通勤の影響で仕事のペースは上がらないし、転職して新境地で活躍したいという気持ちも残っていない。
とどのつまり、現在の私は欲というものがなくなって、空っぽになってしまっているのではないか。
幸いにも仕事が忙しくて遣り甲斐があるのでその分を埋め合わせているが、職業人生をリタイアした時には本当に空っぽになるのだろう。
生きる上での欲求とモチベーションは近いところにある気がする。何かを楽しみに生きることは決して間違ってはいない。
いや、ギャンブルとか風俗とか不倫はどうか分からないな。それで家庭に迷惑をかけるのであれば間違っている。
まあとにかく、私なりには若い頃に望んでいたことについてある程度のことをやり切った感がある。もう十分だ。これからも惰性というか慣性で進むことだろう。
リタイアしてから終活を整えて、あまり悩まずに旅立てるくらいのペースで生きよう。そう考えると人生の残りはあと20年も残っていない。早いものだ。
年末年始の忙しさと体調不良もあって、ロードバイクどころかスピンバイクにさえ乗ることができない毎日が続いている。
正月明けは電車や駅の中に殺伐とした空気が漂う。人々の行動や表情から感情を察してしまうのだろうか。
他者が信じてくれるかどうか分からないが、私が電車通勤中に生き辛く感じる日には、かなりの確度で電車の人身事故が起こる。
日本全国ではなくて、住まいがある関東圏内で。今日は何人だろう。
この傾向はスピリチュアルな話ではなくて、感覚が過敏なので人がストレスを感じる気温や湿度、気圧、社会の雰囲気などを感じ取ってしまうらしい。
人が電車に飛び込むなんて、どう考えても正しくないし、人が亡くなったのに罵詈雑言を飛ばすツイッターユーザーの態度も正しくない。
人間の心の中はいくら外面を取り繕ってもエゴの塊で、自分のことを優先する。そして、やさぐれた内面がネットで露呈するのだろう。
しかし、この日の仕事は私の職業人生の中でとても大切な位置にあって、身体が本調子ではないからといって休むわけにはいかない。
いつもの通勤地獄では「人間椅子」という地獄を舞台にした日本のメタルバンドの曲をヘッドホンで聴いて耐えるのだが、さすがに辛い。電車の窓から必死に外を眺める。
私はどうしてこんな苦しい生活を強いられているのだろう。浦安に住んだからこうなった。
目の前には電車のドアにもたれかかってスマホゲームを楽しんでいる中年のサラリーマン。どうして朝から中年男性と30cmの距離で顔を向かい合わせなければならんのだ。頼む、外を向いてくれ。
そんな単純なゲームが楽しいのだろうか。あなたは人生のどれだけの時間をスマホ遊びに費やすのか。
彼のように強く生きることができれば、私の人生はより楽だったことだろう。
このまま自宅に引き返したいところだが、仕事なので仕方がない。
仕方がない。しばらくの間、コリィ・テイラーと仲間たちに助けてもらうことにする。
オーディオプレーヤーの中から「Slipknot」と表示されたフォルダを選択して、周りに迷惑がかからない範囲で音量を上げる。
これが最終手段で、通用しなかったら自宅に帰ろう。
最初の選曲は「The Blister Exists」。よし、テンションが掛かってきた。周りに気づかれない範囲で微妙にヘッドバンギング。
次の曲は「Psychosocial」だな。ああ、来た。
そこから最近の曲で「Nero Forte」に繋げる。ああ、もっと来た。
これで大丈夫だ。折れそうな心が元に戻った。いくつかのアルバムをリピートで聞き流す。
ドアにもたれかかってスマホゲームで頑張っている中年男性が怪訝な顔で私を見る。
皺が多くて艶のない顔、過疎化が進んだ白髪頭、伸びた眉毛、窪んだ眼球から届く視線、生臭い呼気、タバコのヤニをまとったスーツ、踵がすり減ったビジネスシューズ。電車でよく見かける猛者級だな。
ヘッドバンギングを抑えていたのだが、私の動きが少し大きかったようだ。
しかし、私から言わせれば、周りの目も気にせず、たくさんの人たちの方に向かって立って、年甲斐もなく公然の場でスマホゲームに熱中している五十路の中年男性の方が奇妙に見える。
この猛者は、あまり悩まずに人生を送ることができて、実にうらやましい。
それはともかく、スリップノットの曲を聴くと通勤地獄のストレスフルな環境であっても、周りにバリアーが展開されたような感じになるのは私だけではないと思う。
吊革につかまって目を閉じて、考え事をしながら電車の到着を待とう。
混み合った電車では知らない人との接触が気持ち悪いが、スリップノットのライブはこのようなレベルでは済まされない。
押し合い圧し合いで頭の上を観客が飛んで行ったりもするし、海外のライブだと観客同士が殴り合いの喧嘩を始めたりする。
彼らが鮮烈にデビューしたのは1999年頃だったろうか。音楽ショップでCDを見かけた時、とんでもなくヤバいヘヴィメタルバンドが出現したと驚愕してレジに並んでしまったことを覚えている。
スリップノットという単語は、絞首刑で使われる「引き結び」というロープの結び方なのだそうだ。最初、彼らは悪魔の格好をしているのかと思ったが、どうやら映画に出てくる殺人鬼をモチーフにしているらしい。
となると、死や地獄をテーマにしたスラッシュメタル、つまり「デスメタル」のバンドかと思ったのだけれど、格好は派手だがデスメタルではなかったりする。
スリップノットは激しく演奏するだけのメタルではなくて、ニューメタルでもあり、オルタナティブメタルでもあり、ラウドロックでもあり。激しい怒声から透き通ったハイトーンボイスに切り替わったり、演奏にも緩急があって心地よい。
当時、彼らが何を表現したいのかは分からなかったし、そもそも歌詞を聴きとれなかったりもしたが、社会への怒りという単純なことではなくて、自らを取り巻く環境、さらには内面から湧いてくる憤りとか恐怖とか、そういったものかなと思った。
これらはどんな人でも大なり小なり抱えているもので、ぼんやりした不安もその一つなのだろう。それらを同じ波長の音楽として放出して、頭の中でノイズキャンセリングのような形で中和しているような印象がある。
ところで、スリップノットのフロントマンの「コリィ・テイラー」は怖いマスクを付けて歌っているが、実は筋の通った発言が多くて、個人的にはとても素敵な同世代だ。
彼は、正しいことは正しい、正しくないことは正しくないと包み隠さずに意見する人で、若干「ファッ〇ン」という言葉が多い気がするが、これがロックだ。
最近のことだったろうか、彼は薬物中毒や重度の鬱病で苦しんだ過去を公表して、メンタルな疾患に苦しむ人たちへの理解を求める活動にも参加している。
彼自身もオーバードーズで自殺未遂をしているし、その後もアルコール依存症になって建物から飛び降り自殺をしようとして友人から引き止められたという過去がある。
数あるヘヴィメタルバンドの中で随一の歌唱力を持っていて、ライブで迫力のある声を披露しているコリィ・テイラーにそのような過去があったと聞いた時には素直に驚いたが、同時にスリップノットの世界観にも関係するのかなと納得もした。
人が悩み苦しんでいる時に内面から生じてくる恐怖。そういったものに対して耐えたり、戦おうとしているような感じの歌が多い。
最近のスリップノットの公式動画は破滅寸前の状態を表現している作品が増えた気がする。さすがにこれは激しすぎる印象がなくはないが、「とにかく、生きろ!」という強いメッセージを感じたりもする。
乗り換えの駅で胃薬を飲んで耐え、再び電車に乗る。
しばらくの間、通勤地獄が辛い時にはスリップノットを聞きながら耐えるしか手立てがないな。
そういえば、何かのインタビューで、コリィ・テイラーが健康の維持のために「運動」を大切にしていると答えていた。
やはり、運動で汗を流すことが大切だな。そろそろロードバイクに乗ってどこかに行こう。