2020/04/14

在宅勤務とセピア色の追憶

不思議な夢を見た後で目を覚ました。今となってはまさにセピア色になった高校生時代の記憶が流れて、懐かしい夢だったなと感じながらリビングに行くと、優しい妻や聞き分けの良い子供たちから「おはよう!」という声を浴び、私は笑顔で挨拶を返して朝食の食卓に加わった。


妻はいつもながら長身かつスレンダーな容姿で台所に立ってくれていて、母親になっても魅力は失せない。

いつも笑顔で相談に乗ってくれる良き理解者だ。

子供たちはゲームなどにうつつを抜かさず学習に励んでくれる。

しかし、何だか様子が違う。この家族、誰なんだ?

妻も子供たちも別人じゃないか。

しかも何だ、この心拍数の上昇は。まさか...

けたたましい高周波の怒声が聞こえてきて、一瞬で正気になった。

新型コロナの感染拡大によって、日本に緊急事態宣言が発令された。不要不急の外出の自粛が全土に求められ、多くの職業人たちが在宅勤務にシフトした。

電車や駅は人の流れがなくなり、ディズニー客も浦安にやって来ない。確かに緊急事態だな。

ということで、在宅勤務を開始した妻が朝から子供たちにキレて大声を上げている。

同様の外出自粛で学校が一斉休校になった子供たちは、妻の怒りなんて馬耳東風で大声で騒いでいる。この家族はとにかく喧しい。義母に似たのだろう。

その段階で、私はまだ布団の中にいることに気付いた。激しい動悸と吐き気を我慢しながら、状況を把握する。

夢から覚めたと思ったら、まだ夢の中だったという夢オチ。気分が上がってから落ちるので生きる気力が萎える。

前日に在宅勤務をしようと思ったが、どう考えても無理な状況で前日も通常通りに働き深夜に帰宅した私は、目を覚ましてもしばらく起き上がれずにいた。

気が付くと両目の縁にうっすらと涙が流れた跡がある。そうか、夢の中で現実から逃避したくて疑似的な環境を脳内で作っていたというわけか。健気だな。

モルデックス社製の米軍仕様の耳栓を付けて寝ているのだが、片方が外れてしまったらしい。

最近は世の中が荒れていて、長丁場の苦労の中でさすがに疲れてきた。

うちの家族の凄さは、私に対する労いや励まし、そして感謝がほとんどないことだ。

「何言ってんだ、偉そうに!」と言われるかもしれないが、まさか自分が歩くATMのように扱われることになろうとは、結婚式の良き日には想像もしていなかった。

ダイニングに行くと、妻がテーブルにノートパソコンを置いて、鬼の形相で画面を見つめながら在宅の仕事を始めていた。

その隣で、子供たちが相変わらず無駄口ばかり続けながら、いつになったら終わるのかと思うペースで朝食をとっている。

私の朝食は、どこを探しても見当たらない。

私は特に怒ることもなく妻子に朝の挨拶を伝え、そのままのペースで、ロードバイクとスピンバイク、そして在宅勤務用だという体で揃えたチャブ台を置いた物置部屋に入り、愛用しているモルデックス社製の耳栓を取り付ける。

前日までに買い置きしておいたカロリーメイトを2本ほどかじり、ジャスミン緑茶のペットボトルを半分ほど一気に飲み干して吐き気を抑えた後、古びた座椅子に座って心拍数の低下を待つ。

仕事で消耗して倒れるのなら本望だが、私は家庭で消耗している。

今に限った話ではなくて、5年くらい前からだ。数年前はバーンアウトしかけて本当に危うい状態だった。

その時、妻や子供たちが私を支えてくれたのかと言うと逆で、むしろ追い込まれた感があった。

激高した妻から物が飛んできたり、大して痛くはないが蹴られたこともあった。

言葉による罵倒もよくあった。

一時は子供たちが朝の挨拶すらしないことがあった。妻は子供たちが父親に挨拶をしなくても全く気にしない。

そのことを私が咎めると、再び妻が激高して私が至らないと指摘し続けた。

長時間の電車通勤でも大きなストレスを感じて途中で降りて吐くような日々だったので、それはそれは厳しい毎日だった。

これでは仕事に支障が出るし、家庭に起因する適応障害を発症した疑いもあったので、情けないことだが職場のボスにも涙ながらに相談し、同僚を含めて多大な配慮を頂いた。

転職話がやってきてより高い年収が提示されても今の職場を離れないのは、職業人としての矜持に加えて、当時の支援を有り難く感じたから。

まだ受けた恩を返し終わっていないし、職場の良さは年収だけではない。

とはいえ、いつまでも職場で不甲斐ない働きをしているわけにもいかず、当時は本当にどうすればいいのかと焦り、苦悩した。

別に私が浮気をしたわけでも、家庭が経済的に苦しんだわけでもない。共働きの父親として至らないところは多々あるのだろうけれど、感覚過敏を持っている人を満員電車で3時間も通勤させて、その後で家庭のことまでこなすのは難しい。

他方、妻は理想とする家庭の形になっていないと不満を溜め、頻繁に感情を爆発させていた。彼女は子育てや家庭においてこだわりが強く、私はそのこだわりを理解することができず、ストレスとして受け止めていた。

夫婦間において、どうして妻がマウントを取らないといけないのかと疑問に感じることがあって、それは義母のやり方なのだろう。

夫婦の間で数えきれないくらいの衝突を繰り返しても義父母が仲裁することは一切なく、むしろ妻に加勢しているような状況だった。

そして、最後は離婚話にまで発展した。私としては憤りのステージはすでに終わり、すでにバーンアウトによって体調を崩しているような状態だったので、話がまとまらないのであれば離婚するつもりだった。

この状態が幸せとか不幸せという次元を超えていることは分かっていたし、そこまで喧嘩を続けながら生活を続けても、私が倒れて家計が傾くだけの話だ。

妻はそこまでの悲劇を予想しているとは到底思えなかったし、予想していないからこのような言動に走るのだろうと思った。

しかし、実際に悲劇が訪れてから子供たちが悲しむことは避けたかった。

夫婦の間でお互いを理解することは不可能だが、子供たちの将来を考えて夫婦という形は続けて行くという方針を私は妻に提示し、今に至っている。

仮面夫婦という言葉があるが、夫婦という関係は戸籍あるいは制度上の存在だ。籍を入れている限りは仮面でもなんでもなくて、正式な夫婦という私なりの解釈になる。

他方、夫婦でなくても仲の良い男女は多々あるし、夫婦であっても仲の悪い男女も多々ある。

妻が母親になって言動が変わるということはよくあって、夫としての受け取り方は様々なのだろう。

①キレた妻に対してキレ返す元気なステージ、②どうしてこうなったのかと悩み苦しむステージ、③自分が何に悩んでいるのか無様に感じておかしく感じるステージ、④全てについて無常を感じて諦観するステージ ← 今ここ、という感じだろうか。

人は他者を完全に理解することは難しい。自分自身のことでさえ理解に苦しむ時はある。

昨今ではコロナ離婚というパワーワードがネット上に広がっているが、確かにこのストレスフルな状況下は、夫婦の相性や繋がり、距離感など、様々なことが試される機会になっていると思う。

交際時や新婚時代の妻はこのような状態ではなかったのだが、現在の妻は自分の主張やペースが守られないと感情を高まらせて爆発させる。

この性格は出産後のホルモンバランス等の要因というよりも、妻の両親、私にとっての義父母の性格を遺伝学的に引き継いだものであって、結婚を考えた私がその性格に気付くことができなかったというだけの話だ。

さらに踏み込めば、私が妻に対してとやかく言えるほど立派な男ではないし、夫として、父親として足りないことばかりだ。

ただ、私も五十路が見えてきて、現状に満足することができずに人生のレースを切り替える段階は過ぎてしまったと実感する。

とても弱っていた昔の私が妻を必要としていたことは確かで、妻がいてくれたからこそ今がある。その分の人生の借金を今になって返済していると思えばよいわけだ。

残りの20年くらいの人生の中で少しでも幸せを感じられるように、毎日を大切にしたいと願う。

妻としても、これ以上の衝突が続けば夫婦関係が破綻することを察してくれたのか、以前よりもずっと優しくなり、気を遣ってくれているのだろう。以前の苦しみに比べればずっと穏やかだ。たまに情けなくて泣きたくなることはあるが。

では、冒頭の不思議な夢は何だったのだろうかと振り返ってみると、睡眠時の無意識下で、祖母が亡くなる少し前に実父と会話した短い電話でのやりとりを思い出したのかもしれない。

家庭の都合で、幼少期の私は祖父母の家に預けられて生活していた。祖母は私の母親代わりだった。彼女が老いて要介護の状態になり、意識障害を起こして思考が定まらなくなった時、私は故郷に帰省することを躊躇するようになった。

実父は私の感覚過敏を理解しているのかどうか分からないが、私が幼少期から世話になっただけに、祖母の現状をあえて見ない方がいいと忠告してくれた。

その状況を妻にも伝えたが、私の祖母の話なんて全くの他人事のように無関心だった。この人はこのような性格なのだと、当時の私はさらに心を痛めた。

祖母と私の母との確執は、私が子供の頃から続いていて、母が積極的に祖母を介護するつもりはなかったようだ。

若き日の母は、知り合いが誰もいない土地に嫁ぎ、私の祖父母、つまり母にとっての義父母との関係で苦労し続けた。

当時は気づかなかったけれど、今の私はその逆のパターンだ。妻の両親、つまり私にとっての義父母との関係で苦労し続けているわけで、この人たちが要介護の状態になったとして、積極的に介護するつもりはない。

ということで、寝たきりになった祖母の介護や身の回りの世話は実父が行っていた。解剖学的にはゴリラに近い屈強な実父にとっても、実の母親が弱っていく姿はとても辛かったようだ。

子育ての苦しみはその先に成長があるが、介護の苦しみはその先に死がある。

介護において、実父は孤独だった。

心身共に疲れ切っていた祖母の家で、実父が毎日の介護を行っていたところ、一人の看護師さんが訪問看護に来てくださった。

その看護師さんは、とても丁寧に祖母の世話をしてくれて、実父に休む時間を用意したり、励ましの言葉をくれたそうだ。

偶然ではあったのだが、その女性は私の高校時代の一つ下の後輩で、確か卓球部だったと記憶している。いつも同じ列車に乗って通学していて、礼儀正しくて穏やかな性格だった。

彼女は170cm近い長身で、とても真面目で明るく、優しい性格だった。介護に来てくださった時の表情も、入浴させてもらって喜んでいる祖母の姿も、疲れてしまってわずかな癒しをもらった実父の姿も想像することができる。

電話の向こう側の実父の声が、久しぶりに明るかったので、たぶんそうなのだろう。

看護師さんとしても、私の後輩だということは紹介してくれたそうで、実父はとても驚いていたようだ。

しかし、電話の向こう側の実父の会話からは、故郷を離れた、いや故郷を捨てた私への恨み節というか、実父としては今になって言っても仕方がない感情がにじみ出ていたように私は察した。

両親としては、私が故郷に残ってくれることを望んでいたわけだ。私がその人生の軌跡を進んで故郷で生活し、訪問看護に来てくださった私の後輩のような人が妻だったら、何と素晴らしき生活だったろうかと。

うん、たぶんそうだ。そうに違いない。あの電話越しの上がって落ちるテンションはたぶんそうだ。

五十路近くのオッサンが今になって言っても懐かしい昔話でしかないが、高校生の頃、私はその女性から交際を望まれたことがあって、無下に断ってしまった。

当時、有り難くも交際を希望されたのに、どうして断ってしまったのかを思い出すことさえできないし、セピア色の遠い想い出だな。

そのことだけは、若き日の話であっても実父に紹介することができなかった。

人生がここまで進むと、私はかなり早い段階で理解者であり将来の伴侶となりうる人物と出会っていたということか。

あまり気にしていないまま時が経ったのだが、人生を振り返り反省せざるをえない地点がそこにあった。

例えば、私が大学卒業後に都心から地方の田舎に戻り、そこで生活するという生き方を選択していたとする。高校時代の同級生の中にはその生き方を選択した人たちがいたりもする。

私は性格がアレで感覚過敏も持っていたので、小中学校では酷いイジメにもあったわけで、両親との確執もあって故郷を捨てることにした。このような田舎で世帯を持っても希望はないと。

高校は進学校だったので、とりわけ苦労はなかったが、やはり故郷に帰るつもりは全くなかった。そもそも産業らしき産業もなく、どうやって生活するのかと思った。

一方、オッサンになってからしみじみと考えてみると、例えば私が故郷に戻って小さなクリニックを営む開業医になったり、小中学校の教師になったり、まあどう考えてもありえないが市役所に勤めるという人生のトラックを進んだとする。

それらは不可能でもなんでもなかったし、私が選択すれば可能だったわけだ。

故郷に戻って先の看護師の後輩と再会し、過去を悔い改めて夫婦となり、家族として生活していたら、私の人生はどのような展開になっていたのだろう。

今頃は、子供たちを連れて野山や海に行き、キャンプを楽しみ、とてもリラックスした毎日を送っていたのだろうか。

今のように仕事で精神を擦り減らすこともなく、通勤電車で途中下車して吐くこともなく、妻や子供たちの怒声で目を覚ますこともなかったのだろうか。

おそらく、冒頭の夢は、そのような思考が合わさって生まれたのかもしれない。現実逃避というわけではなくて、いや、何だろう。

五十路になって人生を振り返っても仕方がないな。職業人をリタイアすれば、人生を振り返る時間は十分にある。今は、空想の世界から現実の世界に戻ることにしよう。

実際に在宅勤務を始めて初日だが、私の勤務状態としてはすでに破綻している。

妻は在宅であっても平時の勤務モードを崩そうとしない。子供たちの世話をしたくもないようだ。なのでキレる。キレ続けている。

複数の子供たちが家にいる状態で、大人しく読書したり、真面目に勉強するというイメージは妄想でしかない。不満を溜めてゴネている。

そこに、緊急事態だと言っているのに自宅に遊びに来る子供の同級生。

私は、妻に対して子供同士の遊びを禁止すると要求したが、当を得ていない様子だ。

家庭のことについて、私が妻に何かを提案しても、9割9分は否定形で返ってくる。この夫婦間のマウンティングの理由が知りたい。

そこまで私に対して否定を続けるのなら、最初から結婚しなければ良かったじゃないか。私は家畜でも奴隷でもない。

子供は友達と遊べないと、拗ねていじけている。一体、何のための休校なのか理解しているのだろうか。

浦安市内の小学校の教師たちも、浦安市の教育委員会も、今が緊急事態だということを理解しているのか。

この状況で、あえて子供たちが密集する危険性のある短時間の校庭開放とか、登校日だとか、一体、何を考えているんだ。

そのようなクラシックな対応ではなくて、休校中にネット上のオンライン、あるいは、浦安のご当地テレビ番組で遠隔授業をやろうという発想にならないことが不思議でならない。

他の自治体ではすでにネット上で授業を始めた地域があるのに、浦安市や千葉県の教育委員会は何をやっているのだろうか。

全てが嫌になって、いい加減にしろと私の感情は高まった。

平時の家族の連帯はともかく、このような国難の時期では、世帯主である私の意見を聞けと。

サラリーマンの父親なら話は別かもしれないが、お前たちよりも私は状況を知っている。どうして話を聞こうとしないのだと。

私は在宅勤務をしている。これは休日ではない、仕事だ。可能な限り家庭のことを考えてはいるが、この状況はあんまりだ。

私の仕事の邪魔をするなと怒鳴りたくなった。

なんて横柄で前時代的な男だと批判されるかもしれないが、各々が欲を出したらこの状況は収まらないし、毎日必死に働いて家族を支えているのに、このような苦難で家族がまとまらないことに苛立ちを感じた。

あと少しのスイッチが入れば、私は家族から離れて別居するつもりでいる。

「婚姻費用は支払うから、その金額だけで生活すればいいじゃないか。中学受験? 誰が金を用意するのさ」という後ろ向きな私と、「父親がそんなこと言ってちゃ駄目だよ、もっと頑張ろうよ」という前向きな私が葛藤を続けている。

そもそも、日本の社会ではテレワークやリモートワークという働き方が浸透しておらず、検討はしているがまあそのうち何とかします的な状態で新型コロナウイルスがやってきた。

当然だが子育て中の世帯についての配慮なんて整っているはずもなく、この状況でまともに仕事ができると考えている偉い人たちに対して、幹部たちがガツンと物申す必要があるはずだ。

しかし、高度成長期を終えて成熟という名の停滞期に入った我が国の社会では、職種を問わず物申さないイエスマンの方が出世する傾向があって、旧態依然とした働き方を想定している御大に対して何も言えず、部下に対してもイエスマンであることを望む傾向があると思う。

そして、イエスマンが舵取りをすると、周りから見て明後日の方向に判断がなされ、往々にして道を間違い、現場が無理に対応する。

現場がノーといってもイエスマンの保身が優り、しかし誰もその責任を取ろうとしない。

人と人との接触を遮断すれば、新型コロナウイルス感染症なんて1ヵ月もあれば収束するはずだ。

だが、職場や経済、それらに加えて市民が「欲」を出せば、結果として何ヵ月も事態が変わらず、かえってダメージが増大する。

自分の家庭さえまとめられない私が、天下国家のことまで論じるのはおこがましいことだし、妻が働く会社にも都合があるのかもしれないが、このまま日本の経済が落ち込んだら、企業を含めて沈むことが分からないのか。

それ以前の話として、妻のように教科書通りに在宅勤務をしようとすれば、家庭が破綻する。

何だか馬鹿らしくなってきた。

在宅勤務の初日で、すでに私の仕事は全く進まない。このままでは、家族が寝静まってから夜中に仕事をすることになる。

在宅勤務で残業があるなんて、想像もしなかったな。

とはいえ、時間は進み続ける。残りの時間も限られている。

後ろ向きになった気持ちをとりあえず録に残し、前を向いて生きるしかないな。