すね毛剃りとメガスパッツ
以前なら気楽にライドに行ってラーメンを食べていたが、昨今の状況を考えるとライドに出かける余裕もないし、外出を控えた方がよいのだろう。
毎日3時間もかけて電車通勤で移動しているのにおかしな話だ。ただ、浦安からママチャリで走って大勝軒に行くのではなくて、ロードバイクで思いっきり走って腹を空かせてから大盛りのラーメンを食べたい。
コロナ禍が終息したら、今まで走ってきたロードバイク乗りたちとラーメンを食べに行きたいものだ。
そういえば思い出した。同世代のトレック乗りの友人とロードバイクに乗ってドイツ料理を食べに行こうと約束したのに、その約束を果たせずにいる。
私よりも一回りくらい若いロードバイク乗りと早朝にライドに行って、マクドナルドのハンバーガーを頬張った日のことも懐かしい。元気だろうか。
回想に浸りながら浦安に帰ってくると、マスクもせずに酔っぱらって歩いている高齢者の男性たち。一体、何のつもりなのだろう。
新型コロナウイルスを広めまいと、働き盛りの世代や若者たち、そして子供たちまでが対処しているのに、リスクの高い高齢者が出歩いていたら以下略。
早朝からドラッグストアやスーパーの行列に並んでいる高齢者に対しても以下略。
私なりに気になっているのは、働き盛りや若い世代の人たちの気持ちが切れてしまうのではないかということだ。
たとえ一部であったとしても、高齢者たちの行動は目に余るものがある。
団塊世代は私の親の世代なので慣れてはいるが、若い頃からこのような感じだった。それでも気持ちに余裕がなくなる。
この数カ月間で、団塊世代付近の高齢者に対する私なりの考え方や感じ方が大きく変わった。
ツイッターを器用に使って、事実とは異なるデマゴーグやアジテーションを広める高齢者たち。
プロフィールを確認すると、原発だとか戦争だとか。そのようなマターと今まさに脅威を迎えている感染症への対応との間に直接的な関係があるのだろうか。
高齢者に限らず、明らかに分かりやすい思想の人たちが感染症対応を叩いている。
一次情報の重要性を理解せずに、不確かな情報を信じて検査、検査、検査と主張している。心配しなくてもすでに準備は整っている。
ネットではなくて現実の世界では、マスクもせずにノーガードで人混みに入ったり、ドラッグストアやスーパーの行列に並ぶ高齢者たち。
日の出地区では、休校中に小学生が出歩いていたと小学校に何度もクレームを入れた人がいたらしい。神経質で我が強い人が多い町の雰囲気を反映している。
小学校を休校しても、小学生の行動に制限がなされたわけではない。そのようなクレームを保護者にアナウンスする小学校の対応もおかしい。
そのような勘違いのクレームを何度も通報したのはどの世代なのか。平日の午前中に街中を歩いている市民だ。
小学生よりも自分たちのリスクが高いはずなのに、実際に出歩いていたから通報したのではないか。
「私たちが外出してウイルスに感染しないために、若い人たちや子供は気を遣え、我慢しろ」という気持ちが本音だろう。
高齢者たちは気づいているだろうか。働き盛りの世代や若者たちの心に蓄積し、ハレーションを起こしかねない不満やストレスを。
団塊ジュニア世代以降あるいは20代や中高生の若い人たちが、「もう、いいじゃないか。苦しむのは私たちではないし、老人たちは自由に行動しているじゃないか」となってしまうと深刻だ。
若い人たちの行動を制限するよりも、高齢者の外出を制限した方が被害が少ないかもしれないが、全ての団塊世代が従ってくれたら苦労はない。
団塊世代の多くが退職を迎えてはいるが、社会への影響力は依然として大きい。政治もマスコミも高齢者を強く意識し忖度する。行政も動かざるをえない。その理由を説明するまでもない。
また、正確には団塊世代は70歳近辺ではあるが、彼ら彼女らの影響を受けたであろう60代も多い。
団塊ジュニア世代にも団塊世代と似たところがあったりもする。親と子の世代間だから当然だな。
では、高齢者がどうして社会に対して影響力があるのか。
一義的に彼ら彼女らが悪いわけではないが、その理由の一つとしては、高度成長期以降に彼ら彼女らに至適化させた社会が、高い恒常性を保ちながら続いているからだろう。
私たちを含めたより若い世代が、我が国の社会のことをもっと真剣に考えていたら、このような状況にはなっていない。実際に痛い目に遭っても分からないのだから仕方がない。
それでも、若いリーダーが率いる街の機動力は極めて高く、若い世代の市民の関心も集まっている。
とりわけ団塊ジュニア世代よりも若い世代の人たちは、考え方にバランス感覚があって素敵だなと思う。
我が国が若い人たちの舵取りによって帆を広げて進む日はずっと先のことなのかもしれないが、希望が見える。
私たちのような団塊ジュニア世代は、親の背中を見つめて学び反省し、遠くない将来に「老害」と言われないよう、大人しく若い人たちに社会を任せよう。
さて、夜に帰宅したら、妻が甲高い大声を上げて怒っている。上の子供の学習塾の宿題か何かで気に入らないことがあり、下の子供も言うことを聞かず、妻の感情が爆発したらしい。
私は「ただいま...」と一言の挨拶を残して自室に入り、MOLDEX社製の高機能な耳栓を付け、ハイボールの缶の蓋を開ける。
以前は、父親として家庭のストレスを受け止めねばと積極的にトラブルに介入していたが、その過程で精神を削り過ぎてバーンアウトしかけた。
妻にはもちろんだが言い分があって、個性が強い子供たちの相手はとても疲れ、怒りを覚えることだろう。私には、その負荷を減らすだけの時間も余裕もない。
小学校の休校や春休みの時期に、夫婦ともにフルで働こうとするからストレスが溜まるのだと思う。とはいえ私の仕事のペースを落とすわけにもいかず、妻としてもペースを落としたくないわけで、義実家のサポートもないような核家族状態では、そもそものキャパシティを超過してしまっている。
フルタイムの共働きを続けながら、核家族状態で複数の子供たちを育て、しかも私立中学の受験があるという状況はただでさえ厳しい。
以前は家長として何とかせねばと必死に考えたこともあったが、夫婦の考え方が全く違うことに気付いて、どうしようもなく時が経つことを選択することにした。情けないものだ。「こういった家庭を築きたい!」という気持ち自体が折れ、諦めてしまっている。
「あー、この人生、早く終わらないかな」と感じる時はたまにあって、現在の職場から転職すべきだったかなと感じる時もある。その気持ちは、人生に飽きてしまっている感情、あるいは目標としてきたことをやり切ったという感情の裏返しなのかもしれない。
これはいけないな。何かの変化が必要だ。
ということで、ヒゲ用のトリマーとシェーバーを手に取って、風呂場で足の毛を剃る。
サイクリストでない人たちから見ると、何だその奇行はと訝しがられそうだが、ロードバイク乗りにとっては普通のことだ。
ロードバイクに乗っていて落車して足に擦過傷を受けると、傷口に足の毛が巻き込まれて化膿したり、かさぶたがはがれにくくなったりする。酷い筋肉痛でマッサージをしたい時にも足の毛が邪魔になる。
また、室内トレーニングの時は、特に足の毛の微妙な感触が気になったりもする。
何より、すね毛が茂っているロードバイク乗りの足はダサい。
昨年末から今年にかけて、冬場に実走に出かける機会がほとんどなかったためか、足の毛はすっかり元通りに茂っていて、スピンバイクに乗っている時も気になっていた。
とはいえ、足の毛を剃る程度の作業すら億劫になっていたことも確かで、ようやく一歩を踏み出すことができた。
家族が寝室で寝静まり、私は白飯やおかずを電子レンジで温めて、一人きりの夕食だ。このような生活を送るために私はここまで努力を続け、そして浦安という街で生活を続けたのだろうか。
生きることに疲れたら習慣を大切にし、生きることに飽きたら変化を大切にする。今の私は生きることに飽きてしまっているので、変化を大切にしよう。
そういえば、スピンバイクでトレーニングを続けていると、座骨の痛みや股間の擦れが酷くなってきた。サイクルパンツを確認してみると随分と劣化している。
浦安から都内へのロードバイク通勤を始めた時にパールイズミのサイクルパンツをいくつか買って使っていたが、数年が経ってさすがにヘタってきたようだ。
最近の私はロードバイク乗りというよりもスピンバイク乗りという言葉がふさわしくて、室内トレーニングの場合には重心の移動が少ないからだろうか、座骨や腰に負荷がかかる。
ということで、パールイズミのボトムスの中でもウレタンパッドが厚いメガパッドが付いたサイクルパンツを買おうかと思った。
しかしながら、五十路が見えてきて短パンもアレだなと思い、今回は七分丈のスパッツを購入することにした。七分丈のボトムスにクロモリロードバイクというスタイルは、私がこの趣味を始めた頃の格好だな。
10年以上の時間が経って、再び同じスタイルに戻ってきた。
ヘルメットの上からでも年老いたオッサンだということが分かる年齢になり、ここであえて見栄を張る意味もない。
サイクルスパッツの納品は今週末くらいだろうか。届いたところで実走に出かけられるかどうかも分からないが、商品の到着まで楽しみにして生きよう。