冬用のサイクルジャケットを
しかし、中国や韓国の状況を眺める限り、この感染症の広がりにはピークがあるようだ。
ここまで来ると各国のダメージは免れないが、国によって感染の拡大が緩やかになってきたことは、事態の改善に向けた数少ない希望だろうか。
日本に限った話ではないと思うが、この感染症についてマスメディアは報道姿勢をもっと真剣に考えるべきだった。
一般的なトピックとして報じるにはあまりに大きすぎるテーマであり、努力すればするほど社会を混乱させてしまうというループに陥っている。
一時のパニックから落ち着きを取り戻した多くの国民は、今回の一連の報道姿勢について冷静な批判の目を向けることだろう。
もちろんだが行政の対応にも検証を要する点は多々あるはずだが、感染症に立ち向かっている人たちの足を引っ張ったり、多くの人たちに不安をもたらしたマスコミの責任は重い。
また、デマが飛び交うワイドショーやSNS、マスクを買い占めてオークションで売りさばこうとする転売屋、その他、我が国が抱える問題が浮かび上がってきた。
決して幸せな事態ではないが、非常に分かりやすいリトマス試験紙のようだな。
この数日の私の頭の中は、忙しい毎日の疲れからだろうか、とても深い虚無感のようなものが漂っている。
年が明けてから、趣味のロードバイクの実走に出かけた回数が数えるくらいしかない。
主宰していたロードバイクサークルを昨年末に閉じたが、何れにせよこのような状況になっていたわけだ。
その理由としては、休日出勤が多かったこともあるが、家庭が慌ただしくなってきたこともある。
とりわけ中学受験を控えた上の子供は、成長するにつれて扱いが難しくなってきた。
家事の手伝いや部屋の片付けといった躾よりも、学習塾の宿題や偏差値を重視することに意味があるのか。
とはいえ、妻はすでに中学受験モードで熱くなっている。一時期よりは落ち着いてきたが、テストの度に感情が高まるようだ。
有名進学校から例えば東京大学に合格したところで、そこから先に楽園があるはずもない。
しかし、勉強をする習慣を身に付けるということは正しいのだろう。ただでさえ仕事が忙しいのに、そこまで深く考えている余裕はない。
しかも、新型コロナウイルス感染症対策として、全国の学校が一斉に休校することになった。
共働き世帯への負荷はとても大きい。学校が休校になり、案の定、上の子供は勉強をさぼっていたわけで、妻が朝から怒っている。
その姿を眺めていると、妻に対して性的な魅力を感じなくなってきている私がいる。まあよくある話で、この時期からが人生の伴侶という本当の夫婦の道程なのだろう。
余裕がなくてイライラしている妻を愛おしいと感じるかどうかは人それぞれだし、私には不倫に勤しむような欲も気力もない。
小学生並の感想だが、一線を越える人たちは凄いなと思う。
明らかにバレることが分かっていながら飛び越えていくのだから、自滅的な衝動にも似た何かによるものだろうか。
しかし、人は誰もが深い孤独感を抱えていて、互いに完全には理解し合えないことが分かっていても理解者を求める。
既婚者であっても、その対象が異性に向かった時に一線を越えるのだろうか。それとも、本能に起因するペイズリー柄の煩悩によるものか。
平日の深夜に仕事から帰ってきても家族は眠っていることがほとんどだ。
早めに帰ると妻と上の子が口喧嘩を繰り広げていたり、妻が一方的に叱責していたり。
そのテーマは中学受験。
休日になっても、家庭における私の居場所は、自転車部屋と名付けた小部屋。
感覚過敏のため、家族が横で寝ていると眠りが浅くなる。すでに妻子とは別室で寝ているわけだが、そろそろ自転車部屋にベッドを置いてオールインワンにしたい。
そして相も変わらず、私に断りなく休日に自宅に上がってくる妻の両親。
子育てのサポートをしてくれないのに、休日にアポなし訪問。一体、どのような思考なのだろう。孫の塾の送迎くらいやってくれよと思う。
私は仕事で疲れて眠っているのに、義父母が突撃訪問してくると声が大きくて騒がしいので目が覚める。
私なりに義父母のこの行動を「おさかなアタック」と呼んでいる。
義実家は通販で産地直送の魚介類を購入する習慣がある。どんな魚が届くのかは漁師の都合なのだそうだ。
何も採れなかった時には巨大な貝だけが届くこともある。
しかし、老夫婦だけでは食べきれないということで、発泡スチロール容器に捌いていない魚を取り分けて、義父母が私の自宅にやってくる。
この日は私が魚を食べたいか否かに関わらず魚料理になる。嗅覚過敏な人にとって、自宅で魚を捌く臭いは地獄だ。
我が家は魚を捌いているほど余裕がない。
そもそも、感染症対策として子供たちが学校にも行かずに自宅で待機しているのに、高齢者が出歩いていたら意味がないだろう。
しかも、義実家から魚をもらっているわけではなくて、妻が半分の代金を支払っている。
魚を食べたければ、私は近所のヤオコーに行って好きなものを買うから、義実家のおさかなアタックは遠慮したいと妻に説明しても、善処はない。
ということで、義父母がアポなしで自宅にやってきても、私は自室に入って顔を合わせないことにしている。
子育てをサポートしてくれない義実家に挨拶するつもりもない。今年に入ってから一度も挨拶していない。
それとは別に、上の階の世帯の未就学児が朝から晩まで走り回っていて騒がしい。
この家族は夜10時に子供とは思えないような大きな音を出す時もある。おそらく夫か妻、あるいは両方が激昂して喧嘩しているのだろう。
ああ、落ち着きのない、あまりに落ち着きのない多方向からのストレス。
自宅にいる時くらい静かに休みたい。
やはり、今の仕事を辞めて、単身赴任で地方に転職した方が良かった気がする。私の人生とは耐えることか。何だか虚しい気持ちがやってくる。
同時に、仕事についても思考が虚無感に包まれる。子供の頃から誰かを守るヒーローになりたかったわけだが、守ろうとしていた存在とは何だったのだろう。
自分自身が期待していたからこそ失望が生まれるのか。
コミック版のデビルマンのカタストロフィーがこんな感じだったな。GANTZの終盤もこんな感じだった。
職業人としての矜持は残っているが、人の心の中は絶えず揺れ動き、また人の知性には大きな幅がある。
くだらないデマを信じて慌てる人、思い込みでアジテーションを広める人。騒ぎに乗じて金を儲けようとする人。
組織の論理、果たすべき役目。それらも状況によって波のように変わる。平凡な日常が懐かしい。
いけないな、厭世的になっている。ただ疲れているだけなのだろう。
何だかんだと悩んでいても時間が流れ、次の春が来る。新しい春だ。
最近は実走の機会が少なくて、サイクリングロードを走って菜の花を眺めることも、桜を眺めることもないかもしれない。
しかし、久しぶりにロードバイク用品をポチってみるか。季節が変わる頃にはアウトレット品が格安で売られているはずだ。
子供の私立中学への受験や入学を考えて大きな買い物はできないが、歩くATMにはなりたくないなと思う。
それにしても何だろうな。五十路が見えてきて、重い荷物を背負い、どこまでも続く廃線のレールの上を一人で歩いているような感覚は。
それでも職業人としてのレールが敷かれている間は進むことができる。この先が終点になった時、私は何を思うのだろう。
たまに立ち止まって、レールの脇の草花を眺めるくらいのことがないと息が切れそうだ。
ということで、パールイズミの春秋用のロングスリーブジャージと冬用のジャケットを注文してみた。ここまでディスカウントされているのなら何かの縁だろう。
ロングスリーブジャージの季節はあとわずか。5℃対応のジャケットは今年の年末か来年に着ることになる。
その冬がどんな冬になるかは分からないけれど、もっと穏やかな冬になればいいなと願う。
ロードバイク仲間たちとバックパックを背負い、農家までネギを買いに行って、笑い合いながら走ったライドが懐かしい。
もしもその機会があれば、このジャケットを着て行こう。