夢と魔法と満員電車
私の祖父たちが若かりし頃はもっと大変だったろうなと思ってはいたが、この社会は昔からあまり変わっていないようだ。過去から何を学んだのだろう。
社会全体が脅威に対して動揺し過ぎているように感じる。とにかく落ち着くことが大切だな。社会に対しても、自分に対しても。
あまりに短期間での対応になっていることは事実だが、情報が集まってくるにつれて、これからの見通しが明確になってくる。
必要以上に慌てても仕方がない。医療や行政に携わる関係者が身を粉にして社会を守る盾になって耐えている。
しかしながら、不確かな情報がテレビやネットに氾濫して、多くの人たちが動揺し、混乱している。さらには自分たちを守ってくれている人たちにさえ批判の矢を向ける。その報いは自分たちに返ってくることが分からないのか。
特にテレビを介したマスコミュニケーションはこのレベルになったのかと残念な気持ちになった。子供の頃、家族団欒の場には常にテレビという存在があったが、我が家のテレビは私が意図的に壊した。
それでも、テレビが大好きなシニア世代はそれが情報共有の手段だと考えているのだろう。私の両親も妻の両親も同じ感じだ。
画面の向こう側がどのようになっているのかを知っている私としては、実家のテレビも壊してやりたくなる。
テレビもそうだが、社会に脅威が迫った時、その社会の現状や問題点がより強く発露すると、何かの本で読んだことがある。また、それを教訓として学ぶ社会と、学ばずに忘れる社会があることも。
情報の混乱の中で私が心配している対象は、子育て世代、とりわけ小さな子供たちを育てているお母さんたち。四六時中テレビを見ている団塊世代のシニアたち。あえて大人に対して反発して行動する若者たち。メンタルを痛めて療養中の人たち。
これだけメディアが煽っているように感じる状態で、精神的な負荷が高まりすぎているのではないかと思う。
私感だが、ツイッターやヤフーコメント、週刊誌ネタまで含まれるニュースサイトの類については、あまり見ない方が精神的な負荷が減ると思う。テレビ番組についても同様。
行政や「本物の」専門家たちから発信された意見や知見が切り取られている感がなくはない。
メディアの人たちが必ずしも現状や専門用語を完全に理解しているとは思えないし、フォローとして番組やコンテンツに登場する専門家(と呼ばれている人たち)が、本当にその道を極めたエキスパートなのかどうかは、一般の視聴者やユーザーには分かりづらいことだろう。
経歴や業績、同じ分野の専門家からの評価など、きちんとしたエビデンスがあるのかどうか。
同業者から認められていない、あるいはそもそも専門家でもない自称専門家がテレビで重宝がられて、根拠が乏しい主張を自信満々で放送したら、多くの人たちがその持論を信じてしまうことだろう。
特にテレビが大好きな団塊世代が間違って信じてしまうかもしれない。ツイッターのデマを信じてしまう20代から40代と同じように。
どの方面でも、プロが見ればその人物が本物か否かは容易に判断しうる。
専門外であっても違和感に気付くことがあるだろう。
本物の専門家であれば状況への対応に必死で、長々とテレビに出ている余裕はないはずだ。
では、どうしてその余裕があるのだろうか。本当に第一線で活躍している専門家なのか、あるいは基本レベルの知識しかなくて同業者から相手にされていない人物なのか。
仮に後者であれば、本物のプロたちの足を引っ張らなければよいのだが。
ネットでの情報発信においてはさらに大変なことになっている。デマ情報が飛び交い、信頼しうる情報源を指定しないと、どれが正しい情報なのかが分からないという状態なのか。
ここまで混乱すると心が疲れてしまう人が多くなるはずだ。
メディアの本質とは何かと私なりに考えてみると、より多くの人たちに正しい情報を伝え導くことだと思う。
伝える側にも都合があるとは思うが、社会を不安にさせたり、パニックを起こすことが職業人としての役割ではない。
もちろんだがメディアも仕事なので、人目を引く内容構成等は必要かもしれないが、このような情報発信を受け続ける多数の人たちの気持ちが分かるのだろうか。
ツイッターやヤフコメでは、間違った内容を信じてしまうだけでなく、あまり関係のない社会への不平不満を投げつけている人が目立つ。特に私と同じ40代くらいの中年男性と思われるユーザーたちの上からな主張が半端ない。まさに団塊ジュニアだな。
苛立つ気持ちは分かるが、その人たちは社会のために何ができるのか。
ネットで文句を投げつけてストレス発散なのか。しかも勘違いで怒っていることが多い。怒る必要がない理由で怒ってネットに意見を投げ込むことは、あまり生産性があるとは思えない。
また、昨今ではツイッターやコメントに意見を書き込んでも、それを参考に世の中を変える個人や団体がいるかどうか。
ネットに張り付くよりも有意義なことはたくさんある。世の中に不満があれば、自分を変えろとまでは言わないが。それも人の多様性なのだろう。
そのように思いながらJR京葉線に乗って職場に出勤する。
感染症にかからないための方法論は病原体の種類によって異なるが、呼吸器系ウイルスの場合にはマスクや手洗い、当然だが感染のリスクがある人混みの中に入らないこと。
マスクについては様々な意見があるが、ウイルスが付着した手で鼻や口を触らないための手段という意味合いもあると思う。
私にとって混み合った電車や駅での乗り換えは普段でも地獄なのに、今回の状況で通勤地獄2.0になった。全く嬉しくないアップグレードだ。在宅で働ける人たちがうらやましい。
うちの職場は年がら年中この調子だが、今回はさすがに落ち着かないな。最近はロードバイクどころかスピンバイクさえ満足に乗ることができない。
それにしても、オフピークで通勤しているのだが、電車の中が混んでいるのはなぜだろう。
どうやら都内に通う千葉県民たちがオフピーク通勤を始めたようで、どの時間帯も満遍なく車内が混むようになった。
それでも、人と人の間隔が広がっていて、望ましいことだと思う。
今回の新型肺炎における浦安市の対応は迅速だと感じた。
浦安市内には保健所がなくて、市川市と共同だったと理解しているが、この調子なら市役所が的確に手配してくれることだろう。
浦安市は早々に対策本部を設置し、市民に確実な情報を伝え、市が主催するイベントを中止して人の集まりを減らそうとしている。
ツイッターを眺めても、浦安市民の中にパニックを起こしている人はほとんどいない。
この安定感こそが現在の浦安の持ち味だったりもする。私たち浦安市民は液状化の窮地を乗り越えてきた。
ライフラインを寸断されても、この地に残った。行政も市民も逆境に強いと実感する。
だが、ここで恩師の教えの通りに考えをひっくり返してみる。
よくよく考えてみると、これだけ高い財政力を持っている街なのに、マスクの備蓄をしていなかったのだろうか。液状化を起こした場合にも細かな砂泥が喉を傷めた。
市役所で身分証明書を提示すればマスクが提供されるようなシステムがあれば、市内のホームセンターや薬局でマスクが売り切れて市民が困るようなことはなかったはずだな。細かい話だが。
市民だけではなくて、観光に来た人たちまでがマスクを買い占めてしまった。お土産としては実用的だが、市民が困っている。
昨今のインバウンドは、良くも悪くも浦安に大きな影響を与えているようだが、この街の行政が対応しうる範囲は限られている。本来ならば千葉県がもう少し以下略。
それ以上に気になるのは、浦安市内のイベントを中止しても、また今後、市内の小中学校を休校にしても、日本全国どころか海外からも観光客がディズニーに向かって集まってくるという現実だ。
そのディズニーがある浦安市としては、オリエンタルランドとどのように今後の対応を調整しているのかが伝わってこない。
春節の時期に多くの中国人が浦安を訪れたが、市としてどのような対応をとったのか。
私が生活している浦安市の新町には、最近になってディズニー客が宿泊するようなホテルが次々にオープンした。
もはや観光エリアと居住域が混ざってしまっている。これによって新町エリアの住み心地はとても悪くなったと私は感じているが、キャリアバッグを転がしている人がここまで多くなるとはと驚いている。
街の人口は17万人程度だったと記憶しているが、観光客を含めると、この街にはそれ以上の人々がいる。液状化だけではなく、水害、さらには感染症。浦安市には様々な危機管理が求められるわけで、行政はとても大変だと思う。
しかし、ディズニー関連の話になると、この街の行政は途端に議論を止めてしまう。誘致した側なので強く言えないということか。市議会にも関係者が何人かいるようだし、実はもっと深い以下略。
では、さらに考えをひっくり返してみる。ネット上の情報を眺めてみると、人が集まるイベントを自粛している状況で、ディズニーに人が集まっているとは何事だという意見が認められる。
これから小中学校を休校にすれば、保護者からの不満は増大するだろうし、休校だからとディズニーに遊びに行く子供たちが増えるかもしれない。それで意味があるのかどうかと。
一見すると筋が通っているように感じる。JR京葉線で通勤していると、確かにネズミや他のカブリものをしている多数の集団を見かける。しかも半数以上がマスクをしていて、私には異様な光景のように感じる。
そこまでして若者たちは遊園地で遊びたいのかと。この若者たちが、我が国の将来を背負うわけだが、まあ若い頃はそういうものかもしれないな。私だって他者のことを言えない。
この状況でもキャリアバッグをガラガラと引きながら、舞浜駅だけではなくて新浦安駅にまで人が押し寄せている。そこから住宅街のすぐ近くの宿泊施設へ。
人の考えは人それぞれで、人の気持ちは集ではなくて個を優先する。そのベースとなっているのは人の欲なのだろう。
しかしながら、混み合った電車に乗って、車内からディズニーに集まる人たちを見つめ、その後で電車の中を眺めてみると、どちらがどちらなのか分からなくなってしまう。
満員の通勤電車の方がアレではないだろうか。体調が悪くても無理するサラリーマンは多い。
斜め前の中年男性はおそらく蘇我あたりから座席に座ってきたのだろう。上を向いて大口を開けて眠っている。
真横に立っているサラリーマン風の中年男性はマスクもせずに咳き込んでいるが、会社を休めないようだ。右手を口に当てて痰が絡んだような音を立てて咳き込んだ後、そのままの手でつり革に掴まった。
私がディズニーについてとやかく言う前に、この通勤電車を何とかせねばと思うわけだが、電車を止めてしまえば都心の活動がストップしてしまうことだろう。
背後で会話している二人組の若い女性たちの会話。「マスクをするとさ、化粧が崩れるから嫌なんだよね。だからマスクなんてしないもん」「そうだよね~」と言いながらつり革から手を離してスマホをいじっている。
そのスマホを触った後、そのまま何かを飲んだり食べたりするのだろうかと思っていたら、一方の女性が電車内で菓子をつまんで食べ始めた。
これも多様性なのかもしれないな。あまり神経質になりすぎることは良くないかもしれないが、全ての人たちが確実な情報に基づいて的確な判断を行うことができるとは限らない。
とにかく落ち着くことが大切だ。