逆に考えるとどうなるんだ?
中学、高校、大学、大学院。学校という集団生活が苦手だったが、数々の恩師の先生方に出会ったことは、将来への生き方において大きな財産になっている。
とりわけ、大学院時代の指導教官(私が通っていた当時、国立大学は法人化する前で、教員は国家公務員だった)は破天荒で面白い先生だった。
彼は東京大学を卒業後、若き日に渡米して数十年を米国や英国で過ごし、日本に戻ってこられた。ご家族は米国に在住で単身赴任。彼のお子さんはハーバード大学を卒業後、ボストンで子育てをされているとお聞きした。
恩師は海外生活が長かったので、日本人というか、外国人というか、私なりには日本語を話すことができる外国人という感じだった。
講義もセミナーも英語。教官との議論(ディスカッション)は日本語だったが、語彙が英語ばかりだった。
一方、学部時代の教官は純日本人という感じで面白かった。いつか記そう。
大学院時代の教官は、仕事だけでなくプライベートでの楽しみ方もたくさんご存じで、当時から文化や芸術、グルメ、スポーツ等、本当に人生を楽しんでおられた。
しかし、今でこそ人生を達観したかのようになっている私だが、この状態はバーンアウトを起こしかけた4年くらい前からのことだ。
それまでの私は、落ち着きがなくて、鼻っ柱が強くて、競争心や承認欲求も旺盛で、プライドが高くて、自信家だった。新浦安でよく見かける父親のタイプかもしれないが。
20代の頃はさらに気性が荒くて、いつも周りと対立することが多く、自分の力を見せつけて黙らせようという感じ。ああ、記している本人から見ても嫌な男だな。
バーンアウトは辛かったが、性格が変わったのは良かったと思う。かつての気性はこのまま灰にしておこう。
それでも、恩師は気難しくて面倒で不安定な私を受け入れてくださり、まさに親身になって指導してくださった。
大学院生たちを食事に連れて行くと、全ての代金を恩師が支払ってくださった。
締め切りが近くて徹夜で研究する時には、教授室の鍵を開けてソファで仮眠をとることもあった。恩師ではなくて弟子たちが。
米国では、私くらいの変わった人ならたくさんいて、学校での飛び級なんて普通のことだと、博士課程の短縮修了まで後押ししてくださった。
ギフテッド教育の本場の米国で、大学での教育と子育てという公私の経験を重ねてこられた恩師の言葉は重みがあった。
私は幸運だった。目で会話する日本風な教官の下についていたら、とっくに潰されていたことだろう。
彼は私の就職先を全く紹介してくださらなくて焦ったが、当時、東京大学の飛び級博士は各研究科で毎年1人いるかいないか、全国の大学でも珍しかった。
その後の就職活動は順調に進み、1ヶ月くらいでいくつも内定が出てしまって、断るのが大変だった。
飛び級のためには、筆頭著者として査読付きの英文論文を5つ発表することが目安になっていた。大学院生の前に指導教官が予備審査を受けるという厳しさだった。
本審査では5~6人の東大教授たちから数時間にわたって質問責めを受けるという百人空手のような苦行が待っていた。
大学院を修了した人なら、これがいかに正気とは思えない無謀なチャレンジなのかが分かることだろう。
朝も夜も大学に通って、本当に辛くもあり、楽しくもあった。
ただ、今から思えば、この軌跡は私だけの力ではなくて、恩師や先輩たちの支えがあったからこその成果だった。当時の私は高飛車になっていたが。
そうか、もう20年近く前の話なのか。
恩師は担当の講義で「大学院とは自ら研究に励む場であって、先生から授業を受ける場ではない」と言い切ってしまい、自分の研究室の大学院生と義理堅い数人しか講義に出席しなくなった。出席しなくても単位が出るといういい加減な講義でもあった。
恩師からの研究面でのアドバイスは少なくて、私たちが立てた計画や考えについて厳しく指摘することが多かった。米国人と一緒に仕事をした人なら分かると思うが、「Criticism」、つまり他者を批判するという考え方がベースにあって、攻撃力が半端ない。
それは相手の人格を否定するとかそういった話ではなくて、誰かがプランを立てたとして、それに対してロジックの逸脱がないかとか、アウトカムを達成することができるのかとか、結果の解釈が間違っていないかとか、まあとにかく執拗に突いてくる。
「やあ、ボブ、機嫌はどうだい?」「やあ、スティーブ、妻以外は上機嫌さ。今朝は愛犬が挨拶してくれたよ」といったドライでフレンドリーな関係はビジネスシーンでは通用しない。日本人特有の察しと思いやりの精神なんて微塵もないくらい。
しかし、恩師曰く、「何も指摘しないような奴は、馬鹿か居眠りしているだけだ」と、それが礼儀だと言わんばかりに滅多打ちに近い批判を大学院生に投げつけた。
どうやら米国では小学生くらいからCriticismを学ぶらしい。日本で同じことをやったら、いじめアンケートの記載が増えて、保護者が職員室にやってくる回数が増えるかもしれない。
しかし、日本人は余計な忖度をするから世界で苦労するんだと、恩師は思ったことを堂々と口に出した。普通なら敵が増えそうなものだが、裏表のない性格は一部を除いて受け入れられた。
研究の場では教官も学生も対等だという考えの持ち主で、議論になると互いに白熱した。まるで武道の掛かり稽古のようだった。
とある日の恩師との議論で、「こんな無意味なことにこだわる君は馬鹿だ!」と言われて、血気盛んな私は「このような重要なことに気付かない先生こそ馬鹿ですよ!」と言い合った。普通なら退学ルートだ。しかし、何もなかったように翌日から議論が再開された。
このような育ち方をしたので、就職してからが大変だったが。
議論が終盤に向かうと、お互いに知恵を出し合うステージになる。しかし、目の前の課題について答えが分かっている学部時代と比べて、大学院では課題について答え自体がない。往々にして考えが行き詰って沈黙が訪れる。
そのような時、恩師は「うーん、まてよ...これを逆に考えてみたらどうなんだ?」と、それまでのロジックの要素を一つずつひっくり返すことが多かった。
さらには前提条件がそもそも間違っていたと仮定して最初から思考をひっくり返してみたり。
現段階での結論をあえて否定して、ロジックを遡って考えることもあった。
物事を多面的に考えるという言葉はよく聞くが、それは容易なことではない。人の思考は一方向に流れたり、何かにこだわることが多い。
私としては、日本に居ながらにして米国に留学しているような環境だったわけで、とても刺激的だった。
四十路の半ばから私はバーンアウトなのかミドルエイジクライシスなのか、非常に強い燃え尽きと諦観を過ごした。
人生の全てが引き出しの中に収まってしまっているように感じ、深い虚無感の淵にいた。
回復した現在は、「えっと、これはどこにあったかな?」と引き出しを開け、価値観をリセットして残りの人生を歩もうとしている。
引き出しを開けて、今になって価値を発見したこともあり、これからは使わないこともたくさんある。
この時期を思秋期と呼ぶのであれば、人生の中で終わらない冬、つまり寿命に向けて自らの生き方を振り返ったり、残り時間を大切に過ごすための準備なのかもしれないな。少し寂しい気もするが。
残りの生涯で大切だと思える考え方や経験、教訓などは再び引き出しから出して使い、残りはそのまま出さずに生きたいと願う。
気性の荒さや虚栄心なんて、最初からなかった方が良かったな。
恩師から教わったひっくり返す考え方は、きちんと引き出しから出して使おう。年相応に多面的に考える思考を大切にしたい。