燃え尽きかけて解けた鎖
「バーンアウトした」という表現ではなくて、「バーンアウトしかけた」という表現を使っているが、今から振り返ると明かなバーンアウトであり、うつ病も併発していたように思うことがある。
このカテゴリーに録を残しているのだが、通勤地獄を耐え、個性豊かな子供たちを育てる苦労を耐え、当時は毎日怒鳴り続けた妻からのハードヒットを耐えているうちに、睡眠さえ浅くなり、頭の中で何かのギアが外れたかのように心も体も動かなくなった。
何をもって「普通」と定義するのかについては難しいところがあるが、頑張れば普通の生活をこなすことができるレベルだった。家族やロードバイク仲間は気づかなかったことだろうけれど、本人は必死だった。
ところが、私の職場は普通の生活のレベルでは出力が足りない。今までなら問題なかったはずの作業でさえ、集中力が途切れて何も考えられないような状態になった。
気が付くと周りの時間だけが猛烈な勢いで進み、自分だけが取り残されていた。その当時の記憶があまり残っていないが、毎日書き続けた数行の日記の内容は凄まじかった。
それ以上に恐怖を感じたのは、生きること自体へのモチベーションが薄れていくことだった。
暗い井戸に落ちて手足が動かないような状況は、今までに経験したことがない苦痛と苛立ち、絶望、そして虚無感を私にもたらした。
今から思い出すと、2016年くらいからその兆候が生じ始めていた。電車通勤の地獄に耐え続けていたら、突然の胸痛に襲われて駅のホームで倒れた。
偏頭痛を伴う閃輝暗点が始まったのもこの頃だ。両目の視界が歪み、ギザギザした光が全体を覆った後、激しい頭痛がやってくる。
芥川龍之介の作品には「歯車」というタイトルの小説があって、内容は本人の実話に基づいている。
そのストーリーの中で主人公が恐れた少しずつ大きくなって視野全体を覆う歯車の正体は、閃輝暗点の症状そのものだ。今では医学的な知見があるが、昔は原因不明の現象だったことだろう。
執筆活動以外の場での様々なトラブルに巻き込まれ、生きることに疲れ果てていた芥川龍之介は、その作品を遺して自らの命を絶った。
しかし、夫婦共働きの我が家では、妻に状況を話しても大して心配もされない。
当時は、子育てだけでなくて、私の家事や育児の分担が少ないとストレスを溜めた妻が毎日のように怒っていた。私に向かって物が飛んでくることもあった。
感覚過敏を有している人に対して怒鳴ると、普通の人よりも大きな苦痛がやってくる。
当時と比べると、現在の妻は穏やかで優しい。子供たちも成長してくれて意思疎通も楽になり子育てが楽しい。当社比なんとかの話だが。
しかし、当時の私は自宅にいると心拍数が上がるような状態で、半ば帰宅恐怖症のようになっていた。
妻の性格が荒くなったのは、出産後のホルモンバランスの変化、ならびに私が家庭であまり役に立たないことへの不満が関係しているはずだ。
共働きで子供を育てている家庭ならば、大なり小なり生じうることだろう。
一方、四十路の中盤になって、どうしてここまでストレスが私の心身に蓄積したのかは分からない。
男性ホルモンの減少に伴うミドルエイジクライシスの可能性も否定できない。少し早い男性の更年期だろうか。
若い頃は更年期とか老眼なんてずっと先のことだと思っていたが、着実に死に向かっている。
そういえば、それ以前は意見が合わない中ボスとの対立で苦労していて、やっと中ボスの管理を受けないポジションになった。苦労から解放されて気持ちが弛んだということも関係したのだろうか。
あまり悠長な状態ではなかったので、2017年と2018年の2年間はロードバイクに乗って自宅と職場を往復するという荒療治を行った。
共働きの子育てで苦労するのは当然といえば当然だ。急には解決しようがない。
一方、私が生きている中での最大のストレスは往復3時間を超える長時間の電車通勤であることは明白だ。
ストレスの原因が目の前にあるのに内科的治療が必要とは思えなかった。それを取り去ればいいというロジックだ。
しかも、心と体が動かなくなったのだから、まずはロードバイクに乗りまくって体を動かそうとした。これを専門用語でヤケクソと呼ぶのだろう。
千葉も埼玉も同じようなものだが、感覚過敏を有する私から見ると、都内の職場等を往復する千葉県民たちの電車内での道徳は往々にして破綻している。
再び出会うことが少ない匿名の集団の中で、周りに配慮せずに自分の我や欲を優先する人がなんと多いことか。
日本は恥の文化だというが、満員の通勤電車では恥を知らない人たちに囲まれる。働いている限り毎日だ。
その状況がどうして生じるのか。千葉県民のモラルが低いというよりも、満員電車というストレスフルな環境下で、多くの人たちが怒りや苦しみを抱えているからだろう。
朝の電車は眠気や出勤時間や修学旅行生、夜は酒や残業やネズミ柄のビニールバッグを持ったハイテンションな人たちといった要素が加わって、人は利己的かつ残酷になるというわけか。
通勤で乗っている電車を休日に使えば分かる。誰もが穏やかな表情だ。
そもそも私は千葉県に住みたくなかったのに、子育てが始まって妻の故郷の浦安市に引っ越すことになり、いわゆる千葉都民になった。
このような人生を送りたくなかった。私は東京都民として職場の近くで生活したかった。
感覚過敏を有する人が、この激務かつ夫婦共働きで往復3時間以上の通勤なんて、最初から無理だったわけだ。これで仕事のペースが上がるはずがない。
自宅近くに住む妻の実家は浦安推しが強大だが、この街にはそういったタイプが多い。私は言いたい。その街が住み良いかどうかは人それぞれが判断することだ。
住み心地が悪いと感じる人にとっては、そのような主張は意味をなさず、むしろ騙された気分になる。
義実家からの干渉と相反した子育てのサポートの薄さについて、私は何度も憤慨した。
義父母は妻の両親なのでブチ切れるのは良くないと思うが、この程度の仲であれば浦安市内に住む意義はなかったと思う。
私にとって、浦安は騒がしくて落ち着きがなくストレスが溜まる街だ。引っ越してから10年近く経ったのに、私の中で浦安市民としての帰属意識が生まれない。義実家との関係もあるのだろうけれど。
子供たちが私立中学校に入学したら、さっさと引っ越すつもりでいる。しかし、浦安が好きな人たちにとっては活気のある街と感じることだろう。
ディズニー客にもまれながら新浦安駅を利用していると、情けなくて涙が出そうになる。我が人生、どうしてこうなったのかと。
ということで、ロードバイクに乗りまくることにした。2年間で総走行距離は2万km。地球を半周した計算になる。
そのきっかけは些細なことで、趣味でロードバイクに乗っているとストレスが減って考え事にふけることができる。
この苦しみを生じている要因は外的な環境だけでなく、私自身の中にあるはずだ。それが何なのかを見定めたかった。
浦安から都内への自転車通勤は、ロードバイクのライドとしては快適とは言い難く、むしろ過酷だった。混み合った道路を走ることの危険性もフラストレーションもあった。しかし、ストレスが渦巻く電車通勤よりはずっと楽だった。
電車通勤を続けている期間も、私と妻との間では頻繁に意見の衝突があり、子供たちの前で怒鳴り合いの夫婦喧嘩を繰り広げた。
交際や新婚の時期とは別人のようになった妻の言動は、私の精神をさらに削っていった。
今から思えば、お互いによく我慢したと思う。小さな子供を育てている夫婦に離婚が多い理由も分かった。
体調が悪くてもロードバイクに乗って出勤し、深夜に仕事が終わればロードバイクに乗って帰宅。電車通勤よりも時間がかかるような状態で、仕事のパフォーマンスが上がるはずもない。
帰宅時に葛西橋を越える時には、このまま荒川にダイブしたら苦しみから解放されるのかなと感じることもあった。当時はかなり深刻な状態だったのだろう。
東京大学大学院でトップクラスの成績を収めた者に授与される飛び級での博士号や、父親同士のマウンティングでは負けたことがない仕事。
しかし、プライベートの疲労でこの有様だ。現況はくたびれた中年親父に過ぎない。プライドは砕け、今までの人生の選択を悔やんだ。
職業人として競争相手だと思っていた人たちは遙か先に行ってしまった。もはや背中も見えない。
キャリアアップにおいて最も重要な働き盛りの時期だ。私は焦った。
途中から焦りを越えて、もはや自己顕示欲や虚栄心どころか、自信やプライドさえ失っていた。
10年前、浦安に引っ越していなければ、このような苦しみはなかったはずだ。いや、家庭的ではない私が所帯持ちになったこと自体が間違いだったのかと。
しかし、葛西橋を越えて河川敷からスカイツリーを眺めて考え事にふける時間は、私にとって貴重だった。
心の中に漂うのは哲学的な疑問。「私はなぜ生きるのか」とか「私はなぜ子を育てるのか」とか。
同時に、今までの価値観が崩れて、別の考え方が生まれつつあった。しかしそれが何なのか自分自身で説明できずにいた。
ロードバイク通勤がちょうど2年目を迎えた頃、今までで最も激しい夫婦喧嘩が起きた。
どちらかが切り出せば離婚するくらいの状況だった。
夫婦喧嘩といっても、当時の私の感情は枯渇していて、怒鳴る妻と戦う気力は残っていない。論理的に反論していたら、妻の怒りはさらに燃え上がった。
喧嘩の場には私たち以外に下の子供がいて、我が子がどうしていいのか分からず泣き叫んでいた。親としては最低の状態だな。
それでも構わず感情を爆発させる妻の姿を、私は冷たい眼差しで眺めた。
その数日後のロードバイク通勤で、私は交通事故に遭った。家庭での不和をどうしたらいいのかと考えていて周りが見えていなかった。
打ち所が悪ければ重傷を負うか死んでいたと思う。警察官に来てもらって、状況説明。通行人たちの視線が痛い。
私は一体、何をやっているんだ。
現状を耐えるために自分なりに足掻き、這いつくばり、それでも生き続けようとした結果がこれだ。
大きな耳鳴りがして、もう全てを捨てたくなった。
ただ、その時に吹っ切れたというか、もはや万事休すであることを達観したというか、私の中で新しい価値観が生まれていることを知った。
なんだ、こんなに単純なことだったのか。
それは、他者を心の拠り所にせずに、「孤独に生きる」ということ。
今までの私の価値観は、この方向と逆だったことに気づいた。つまり、他者を意識しすぎたり、他者に期待することが多すぎて、自らの思考を鎖のように縛りつけていた。
孤独に生きるといっても、家族と別居して一人暮らしするとか、一人で山に入って生活するとか、そのような意味ではない。
人が生きていく時、他者の存在がないと生きること自体が難しい。集団を形成するからこそ、人はこれまで生き抜いてきた。
そして、人が自らの存在を確かめる時にも、多くの場合、他者の存在を必要とするようになった。
学歴や職歴、収入や資産の高低、その他の共通の基準を社会が生み出し、その基準を超えていれば優越感を覚え、基準を下回れば劣等感を覚えることが多い。
人が生きる上で自分を高めたいと思うことは間違っていなくて、それがモチベーションとなりうる。
いかし、その基準が普遍のものだと信じ込み、ネットでもリアルな場でも、中身以上に自分をアピールする人は珍しくない。とりわけネット上では自らを偽ることが容易なので、その傾向が顕著だ。
加えて、人は多くのことを望んで生きるが、その際には他者の存在を要することが多い。
人は他者を完全には理解することはできないわけで、期待が失望に変わることも多い。それでも人は他者と繋がることで安堵を覚える。この感覚は理屈ではなくて生存本能の一つなのかもしれない。
だからこそ、人は他者との関係や距離、集団での立場や地位を気にして、孤独を恐れるというわけか。
それが大きな力を生み出すこともあれば、苦悩に繋がることもある。
他者が考える基準なんて気にせずに、他者に期待せずに、自らが納得しうる生き方を心掛けようと思った。
その考え方にたどり着くと、公私ともに見栄を張る必要がなくなった。バーンアウトした時に承認欲求も消えてしまったので、そのままにしておくことにした。
また、人生を通じて付き合える友人を探そうとして立ち上げたロードバイクサークルを閉じることにした。
仲間がいてくれる状況は素晴らしいことだが、人が集まれば諍いや苦悩も増える。人間関係が煩わしくなったので、孤独に走ることにした。
家族に対して期待することも、依存することも、私の意見を要求する気持ちも減った。
自分を理解してくれなくても、心遣いがなくても、まあそんなもんだと気にしないことにした。
家族であっても分かり合えないことがあって当然で、ある程度の距離感があってもいいじゃないかと。
すると、以前よりも家庭が落ち着いて、逆に妻や子供たちからの心遣いが増えた。夫婦喧嘩もなくなった。
子育ては延々と続くように感じるが、実際には子供たちが日々成長し、家庭の形は変わっていく。より良い夫や父親を演じるくらいがちょうど良いのかもしれない。
夫婦関係においては、互いに理解し合えると信じて結婚し、互いに理解し合えないと感じて対立し、互いに距離をとって諦め、そこからが本当の夫婦の生き方が始まるのだなと。
通勤地獄については何ら改善がないので辛いままだが、浦安から引っ越すことは決まっている。あと少しの我慢だ。