2020/02/16

スピンバイク禅で心を整える

この調子でスピンバイクについての録を記し続けると、スピンバイクのある生活について日本で最も多く論じるブロガーになってしまうかもしれない。


ダイエットやトレーニングを目的としてスピンバイクを購入したとしても、ブログのエントリーで紹介するならば一つか二つの記事で終わりだろう。

①買ってみた、②インプレしてみた、③Zwiftができるか試してみたという感じで。

当然だが、スピンバイクに乗ってどこかに行って、景色を眺めたり食事を楽しむことはない。

黙々とペダルを漕ぐことに飽きてしまって、乗りながらゲームをしようとか、Zwiftをやろうとか、映画を観ようとか。

このパターンはロードバイクのローラー台と変わらない。

私の場合も、当初はロードバイク通勤をやめた分のトレーニング不足を補う目的でスピンバイクを購入した。

景色も変わらないし、ただ黙々とペダルを回していると確かに飽きてくるのではと気になっていた。

しかし、ベルトドライブとフライホイール、マグネット負荷の踏力感が心地よく、ペダリングが楽しい。

まるで空中を走っているかのようだ。騒音も振動もなく、本当に素晴らしい。

さらにトレーニングを重ねているうちに、汗と共にストレスが落ちていく不思議な感覚を覚えた。

ロードバイクでソロの実走に出かけた時も同じような感覚があるが、スピンバイクの場合にはもっと深い。後者は落車や事故を気にする必要がないからだろうか。

スピンバイクがマインドフルネス、つまり私なりの解釈では宗教色を抜いた「禅」に使えることに気づいたので、専らその用途で使用している。

まさに心身の健康維持のためのトレーナーだな。

禅は座って行うというイメージがあって、確かにその通りだ。

しかし、宗教的な意味ではないことを明確にした上で言及すると、この精神状態は禅に近いというか、禅そのものだ。

実家が曹洞宗で子供の頃から座禅を組んでいたのでよく分かる。

座って禅を組むのか、ペダリングを続けながら禅を組むのかという違いはあるが...そうか、だから「座禅」と呼ぶのか。

ということは、私が行っているのは「スピンバイク禅」だな。

確認してみると、マインドフルネスの場合にも運動しながら行う形があるそうで、私はその専門家ではないが、どうやら意図せずに動的なマインドフルネスの環境が整ったようだ。

スピンバイクに乗ることには心肺能力や筋力のトレーニングという意味合いもあるのだが、動的なマインドフルネスがここまで有用だとは予想していなかった。

血行が良くなって首や肩、腰の凝りもほぐれるが、精神的な負荷を減らす上でスピンバイクは欠かせない存在になっている。

最初に購入したハイガーの廉価版のスピンバイクは期待に沿わない品質で、すぐに壊れてゴミになった。

それはとても痛い経験だったが、スピンバイクの良さに気づいた。そこで、今度は15万円以上もするタキザワのパワーマジックを購入した。

パワーマジックは素晴らしい。人生を通じて買って良かったものランキングで間違いなくトップ3に入る。

パワーマジックは、主にヒルクライマーやトライアスリートが高い負荷で身体を鍛えるための室内トレーナーだが、これを使って禅に励んでいるのは私だけかもしれない。

ただ、負荷用のマグネットが2個も装備されたハイパワーモデルのパワーマジックは、私の用途に全く必要なかった。スタンダードの方が安かったな。

平日は30分間程度、休日は1~2時間、パワーマジックに乗って禅を行って心を整えている。個室の中は豆電球が一つ。それと耳栓。

感覚が過敏なので、普段から脳へのインプットが多すぎるのだろう。ただひたすらペダルを回し、頭の中に浮かんでくる思考を流していく。

何かの思考にこだわると、それが心の疲れになる。とにかくペダリングを意識して、ベルトドライブの滑らかな感触を確かめる。

私に限ったことではないが、毎日が慌ただしい。一度に複数のことを行い、頭にたくさんの情報が入ってくる世の中だ。

とりわけネットは精神を疲れさせる。SNSやヤフコメ等を眺めると、メンタルを患っていると思える人たちが珍しくない。働けずに自宅にいる人も多いようだ。

メンタルを痛めると不安や恐怖、孤独感等に襲われ、目に見えない苦しみを感じることだろう。

ネット上であっても誰かとの繋がりを欲したり、匿名であっても自らの存在を誰かに伝えたくなるのだろうか。

仕事やインフラにおいてネットは便利だが、プライベートの使用においてはオーバースペックな技術になってしまったのかもしれない。

ネットを介して流れ込んでくる膨大な情報を人間の脳が処理しきれず、疲労や依存を引き起こしてしまうのではないだろうか。

人は一人で生まれて一人で死んでいく。孤独に耐えるのではなく、孤独を受け入れることも大切だと思う。

ネットという存在は孤独感を減らしてくれるように見えて、それをさらに増大させている気がしてならない。

とはいえ、通勤地獄と共働きの子育てでバーンアウトしかけて、ロードバイクに乗りまくって無理矢理に治した私が偉そうに言える立場ではないな。

ただ、歳を重ねてくると、頭に入ってくる情報を減らし、落ち着いて物事を眺め、現実を受け止めることも大切だと実感するようになった。

「心を整える」とか「心を練る」といった表現があるが、それらは必ずしもスピリチュアルなこと、もしくは宗教的なことではない。

人の頭の中では思考がループすることによって混乱や焦り、悩みや苦しみ、そして怒りや諦めを増大させてしまう。

昔の人たちは、一時的であってもその思考のループを断ち切ることで精神的な負荷を減らしうることに気づいていたのだろう。

現在よりも死がもっと身近だった時代には、心に負荷をかける事象が多かったはずで、その苦しみをどうやって減らすかを真面目に考えた結果だと思う。

禅もその一つかもしれないな。

教育の体制や水準が整っていなかった時代には、その知恵が宗教や言い伝え、ことわざ等と共に広がったようにも感じられる。

思考のループを止める上で、私なりに重要だと考える方法論としては、一時的であったとしても何かに没頭して日常から離れた状態になることだと思う。

私にとっては、その状態がスピンバイクでペダルを回すことだったわけだが、人によって様々だ。絵を描いたり、映画を観たり、温泉に入ったり、釣りをしたり、ジョギングやヨガに励んだり。

これだけ刺激が多い世の中では、刺激を減らし心の中を空にして、落ち着いて物事を眺める時間や空間が必要だな。

それらの取り組みを端的に「趣味」と表現するならば、趣味も人生における大切な要素という理解になる。

さて、昨今、新たな感染症が広がりつつある。

私の職場では恐れている人もパニックを起こしている人も見かけないし、冷静そのものだ。

一ヶ月前からこの状況を正確に言い当てた人がたくさんいる。現状はいくつかある想定の一つに過ぎない。

しかし、テレビやネットでは不確かな情報を息荒げに発信し、結果的に社会の不安を煽っているような内容が目立つ。

分からないことが多すぎるという事情も理解しうるが、ロジックが繋がらなくなると、海外の情報を継ぎ足して主張を展開したりもする。

また、それらに同調して過度に怯えたり、普段から蓄積してきた社会に対する不満や怒りまでネットに投げ込む人たちが認められる。

気持ちや都合は察するが、正しくない情報までが飛び交って、社会全体が浮き足立っている感がある。

このような時は、自らの心を落ち着かせ、正しい情報を見極めることが大切だな。

情報源として頼りになる存在は、不確かな情報を発信すると自らのデメリットになる人たち。

伝える内容に責任がある人たちからの信頼しうる情報はワンテンポ遅れ、内容が簡素であることが多い。それはなぜか。

他者に伝えようとする情報を精査して確かめるステップがあり、エビデンスが不明確な憶測を伝えないからだろう。

災難が訪れた時にケアすべき事象は、脅威そのものに加えて、恐怖や憤りに耐えられなくなった人たちによる社会的なパニックだ。

すぐに結果を求めたい気持ちは分かるが、物事は映画やドラマのようには進まない。

いや、現状のツイッタラーたちのツイートやヤフコメ住人たちのコメントは、GANTZのカタストロフィー編で、言いたいことをネットに投げつけていたネットユーザーの姿に似ている。漫画と同じような社会現象が起こるとは。

自分がネット上で指摘してやったのだから、誰か動けよと。GANTZスーツを身にまとったファイターたちはリアルな場で命を賭して戦っているのに、ああでもないこうでもないと。自らがその場にいたら、恐怖で足がすくんで動けないはずだが。

ネットで怒っても嘆いても煽っても状況はさして変わらない。現状はリアルに進行している。

自分たちを守ってくれる人たちの足を引っ張ると、その影響を自分たちが被ることになりかねない。

大切なのは落ち着くこと、そして考えること。

自らの心を整えた後、この状況の中で自分自身が何をすることができるのかを考える。仕事においても、家庭においても。

さて、仕事に行くか。