職業人生の岐路と家族の道標
職場からの呼び出しではなくて、お世話になっている年上の同業者からの電話だった。
5分にも充たない短い通話時間だったが、とても大きな意味のある会話が続いた。
私としては、ようやくこの機会が訪れたのかと嬉しく感じた。同時に、数日間でこれからの生き方を決めなくてはならないことを覚悟した。
しかも、いつも以上に仕事が慌ただしい。夏の訪れをここまで心待ちにする一年は珍しく、また職業人としての意義を感じる一年も珍しい。
この状況でも決めるときは決めねばなるまい。
うちの職場で働く人たちには、五十路に入る前に一つの「選択」がやってくることが多い。
選択の機会は全員に与えられるものではなくて、仕事で大きな成果を挙げたとか、長年にわたって地道に働いたとか、そのような評価によるものだ。
しかも、その評価は職場の中での評価ではなくて、職場の外の人たちからの評価だ。機会を得るためには本人の人脈や信用も関係する。
私の場合は、共働きの子育てと長時間の電車通勤で四苦八苦しているくらいなので、華々しい成果は挙げられていない。それでも就職してから20年近くの間、コツコツと仕事を積み重ねてきた。
その「選択」とは何かというと、まあどこの職場でもよくある転職話だ。私がたまに読んだり見たりしているGANTZシリーズの物語で例えれば、「100点メニュー」というものに似ている気がする。
① このまま定年まで現在の職場で働き続けるという選択。
② 他の職場からの声かけをもらって転職するという選択。
選択肢はたったの二つだが、どちらに進むかによって職業人生は大きく変わる。
繰り返しになるが、全ての人たちに選択の機会が訪れるわけではないし、いつ訪れるのかも分からない。ただし、その機会は職業人生で1回きり、あるいは運が良ければ数回に限られる。
せっかく訪れた機会を無碍に断ると、それ以降は声かけがなくなることも多い。
うちの職場はどちらかというと忙しく、責任も重かったりするわけで、働く人たちには大きな重圧やストレスがかかる。
とりわけ部下を使って働くジェネラリストと比べると、私のように自ら前線で働くスペシャリストの場合には、加齢による心身の衰えの影響も考慮する必要がある。
心肺機能や筋力の衰えよりも、両目の衰えが厳しい。老眼がこれほどまでに辛いとは想像していなかった。
五十路を越えても職場に残る人たちは、目つきは鋭いが髪の毛や身体は枯れ木のように消耗し、職業人生の最後まで全力疾走している感がある。
そのすぐ先に人生そのものの終焉が近づきつつあったりもするわけだが、まさに生涯現役で若者たちと並んで働く姿も、それはそれで格好が良いと思う。
一方、外の職場から声かけがあって転職する人たちの行き先は、場所こそ違うが職種はよく似ている。
消耗が続く前線のスペシャリストとしての職を離れて、ジェネラリストとして後進の指導や育成を続け、総じて余裕のある働き方が待っている。
五十路の前に早期退職をすると退職金が上乗せになったりもして、転職先で定年まで働けば再び退職金を受け取ることができる。金銭面を考えると辞め時ということもあることだろう。
GANTZのストーリーではないが、このオプションを選択した人たちは重い責任と苛烈な労働から解放される。常に頭の上に振りかかるストレスやプレッシャーが減り、残業も減る。
相応の職位になるので人間関係、とりわけ上司との軋轢に悩まされることも少なくなる。
転職によって新天地に向かう人たちは、退職の間際に「これでやっと自由になれる」と言わんばかりに晴れ晴れしい表情を見せる。私は多くの人たちの背中を見送ってきた。
しかしながら、このトラックを選択した場合には、余程の好条件でない限り、長年にわたって仕事で積み重ねてきた知識や経験、人脈、さらには職業人としての矜持さえリセットされる。
転職先でもこれまでの背景を活かして働くわけだが、前線に戻ることは難しい場合が多い。
実際に離職した人たちに話を聞くとどうかというと、話を聞くまでもなく何歳も若返った表情を見れば分かる。
「こんなに楽しいのなら、もっと早く辞めれば良かったよ!」と笑い声を上げる人たちまでいる。
今回は他人事ではなくて、私自身に「選択」の時がやってきた。どちらに進むかという判断は、速やかに提示しないと次の人に機会がまわる。その猶予は長くて数日。
私個人にとって、この条件はあまり悪くない。通勤地獄からも解放され、首都圏の混み合った生活環境からも解放される。
その職場は、妻と私の実家のちょうど中間付近の地方都市にある。これからの親の面倒を考えても適している。
浦安市の場合には、立地条件が合わさっているからこそマンションにしても戸建にしても高価だが、地方であればこの程度の物件はもっと安い。退職金の一部で住居を買って、より快適な環境で住むことができる。
今のようにマンションの上の階に引っ越してきた世帯の子供が走り回る騒音に悩まされることもない。新居には私の書斎も作ろう。
晴れた日はロードバイクで、雨の日はマイカーで通勤。現在のように往復3時間も顔をしかめ、吐き気を我慢しながら満員電車に耐えることもなくなる。
そういえばスズキのジムニーが気に入っていたので、一台買ってカスタムをしよう。
経済面においてもメリットがあって、私一人だけで働いていても現在の夫婦共働きの世帯収入より高額になる。妻が無理をして働かなくてもいいとは言わないが、子供たちの教育を考えると先立つものは大切だ。
地方といってもかなり大きいので、子供たちの塾や習い事、進学先も大丈夫そうだ。
私自身の趣味も充実する。休日は空いた道を走ってサイクリング。荒川や江戸川の河川敷で混み合った通行者やサイクリストにイライラすることもない。
私はフィッシングも好きだが、浦安の海岸で釣った魚を食べる気になれないので中止していた。今度は気兼ねなく釣りに出かけることができる。
一方で、この選択をとった私は、これまで20年近く積み重ねてきた職業人としての財産の多くを封印することになる。
スペシャリストとしてのスキルや経験を直接的に活かす場面は減り、人脈も意味をなさなくなるかもしれない。
何をもって幸せな人生と考えるかは人それぞれだが、職業人としての矜持までリセットされた時、私は生きることの意義を感じることができるのだろうか。
しかし、結論を出すまでの時間は限られている。二者択一の選択、さあどうするか。
とにかく家族には相談をせねば。
うちの妻や子供たちは腹が減ると気が立ち、美味しいものを食べると落ち着く。旨い寿司屋に家族で入り、適当に寿司を注文する。
家族が寿司をつまんでいる間、私は中ジョッキを注文し、これからどうやって家族に選択について話そうかと思案した。
そして、そろそろ大丈夫そうだというタイミングで、職業人生の選択について話を切り出す。
妻も子供たちも私のワークライフバランスについて真剣に考えていてくれたようで、今回の転職の話に快く耳を傾けてくれた。
そして、大切な父親の生き方なのだから、妻としても子供たちとしても多少の苦労は我慢して、私について来てくれることになった...
...という展開になるはずもなかった。
まず、スマホが大好きな妻は、早速、転職先の情報をネットで検索して顔をしかめた。
ネット検索は万能ではなくて、その職場の年収はネットでは公開されていない。
しかし、職場のステータス自体は何段も下がる。義実家としてもとやかく言ってくるに違いない。
上の子供は私の職業人としての生き方を参考に将来を考えていたこともあって、いきなりの転職話で狐につままれたような表情だ。
そして、地方都市に引っ越すことになると、今まで見学してきた私立中学の候補も、受験勉強での対策も、全てが大きく変わってしまうということに気づいて反対。それでは志望校に行けなくなるではないかと。
下の子供は友だちと別れることが辛いと嘆いて反対。
私は職業人としてだけでなく父親として生きている。今回の選択においても家族の意見を大切にする必要があるし、家族が望まないのであれば強行はしない。
この場合、私だけが単身赴任で勤務地に引っ越すという形もあるのだが、子供たちが首都圏の中高一貫に通学し、私が定年まで離れて暮らすということになると、今回の選択によって家族の姿が大きく変わってしまう。
妻としては、義実家からのサポートがあまりない状態でまさにワンオペの子育てになる。義実家からの干渉も大幅に増えることだろう。
妻も子供たちも、私の単身赴任については反対。
うちの家族は、このような声かけ自体が職業人生でまたとない話だということを分かっていない。私の気持ちを尋ねてくることもなく、話は終わった的な雰囲気になり、再び寿司をつまみ始めた。
私は無表情のままメニューを眺め、店員を呼んで冷酒を頼んだ。
この人生の大きな選択で、うちの家族はこの状態だ。父親への関心もリスペクトも少ない。情けなくて涙が出そうだ。
妻も子供たちも、経済的には何ら苦労のない生活を続けている。私のように実家が大きな借金を抱えて苦しんだこともない。この状態がありがたいことではなく、普通のことだと感じてしまっている。
その家庭において父親がどのような存在なのかは様々だが、私の場合には仕事が忙しくて家庭を大切にすることができずにいる。
その結果として、妻や子供たちと気持ちの共有ができていないことを実感する。
その労働によって家族が不自由なく生活できていると考えることは容易だが、家族から私への感謝や労いが少ないことは否めない。
それがなぜなのかと考えてみれば、家庭における夫や父親としての私の存在の希薄さによるものだと思う。
まあそれも私が選択して生きてきた結果で、結婚した時も、子供が生まれた時も、このような展開は想像していなかった。
人は大なり小なり希望を持って生きる。しかし、望むことと生きることは違う。人生には楽園なんてものは存在しないし、人は一人で生まれて一人で死んでいく。諦めも肝心だ。
では、家族のことを除外して、私自身はこの選択についてどのように考えているのか。
子供の頃の夢はヒーローになることで、今もその姿を夢見ていたりする。
生と死の狭間で苦悩して困難に立ち向かうという状況は、自分の生き甲斐に繋がっている。だからこそ、仕事の割には安い...以下略。
このままスペシャリストとして生き、年下や同年齢の上司にガツンと物申し、言った分は働き、若手からは老害と言われないように謙虚に過ごし、最後は枯れ木のように消耗し、退職してから数年で死ぬという人生で構わないと思っている。
しかし、日々の老いを実感する毎日の中で、もう疲れた、休みたい、安らぎのある生き方をしたいという気持ちが心のどこかにあるのだろう。
人生は一度きりだ。「あの時、別の道に進んでいればよかったのに」と後悔しても遅い。
私は組織において歯車の一つでしかないが、毎日が忙しいということは少しは役に立っているのだろう。
特定の分野のスペシャリストの育成には時間と金がかかる。希望者はたくさんいて頭数を補充することは可能だが、引き継ぎに十分な時間をかけられる余裕はなさそうだ。
それ以上に考えるべきことがある。
子供の頃から人と違った生き辛さを感じて生きることさえ嫌になった時、たくさんの人たちが手を伸ばして引っ張ってくださった。
現在の私の職業観を支えているのは、お世話になった人たちへの恩返しの気持ちが大きい。そして、20年近く働いたが、その人たちからの恩に報いることはできたのだろうか。
彼ら、彼女らは、私が五十路になって余裕のあるライフスタイルを謳歌することを望んで助けてくださったのだろうか。
結論として、私は現在の職業人生を歩むことにした。
せっかくの選択の機会を与えてくださった方々には心からお詫び申し上げた。
この条件なら希望者は殺到することだろうし、私は一人の候補者でしかない。今後、このような機会は訪れないことも承知している。
そして、新しい朝が来た。
上の階の部屋ではすでにどこかの2歳児が走り回っている。この状態で放置する若い夫婦の感性が分からないが、将来はマラソンランナーとして活躍するかもしれない。
面積の割に人が多すぎる浦安を脱出し、相変わらずの通勤地獄を耐え、職場にたどり着いただけで疲労困憊。
そして、再び通勤地獄に耐える。この忙しさの中で命を削る長時間の通勤は不毛でしかないし、仕事にも影響する。
さすがに厳しい時には職場のデスクに突っ伏して眠るか、近辺のホテルに泊まることに決めているが、どうしてここまで苦労して浦安で生活し続けなくてはならないのか。
しかし、子供たちが都内の私立中学に入学すれば、我が家は浦安市から転出する。これでストレスフルな浦安ライフからは解放される。
最近では浦安という単語を見るだけで気分が悪くなり、街中を歩くだけで心拍数が高くなりそうな状況だが、あと少しの我慢だ。
だが、その状況を選択したのは私自身だ。妻が何と言おうと、義父母が何と言おうと、私は浦安に引っ越すべきではなかった。こんなに苦しい毎日を10年近く続けている。
「あの時、こうしていれば」という結果は、実際に進んでみないと分からないことが多い。このような生活スタイルを選択した自分自身を恨むしかない。
しかしながら、現在の職場に就職してから折り返しを過ぎ、今まで歩いた道を振り返ってみると、たくさんの苦労もあったが、相応の価値があった。
このまま進めばその延長になるはずだ。退職後に職業人生全体を見渡した時には、十分な達成感があることだろう。
家族だって自分たちが望むように生きることができる。
安全策といえば安全策だが、それも私なりの生き方だな。