2020/02/09

思考や記憶の一部が外部化した時

「コンピューターの普及が記憶の​外部化を可能にした時、あなたたちはその意味をもっと真剣に考えるべきだった」


私がまだ20代だった頃、「GHOST IN THE SHELL」という映画を観た。その中で登場したキャラクターが言ったこの台詞は、作中で最もインパクトがあった。

そのキャラクターはネット上の情報の海で生まれた「何か」で、自らを生命体だと名乗っていた。

私なりに解釈した範囲では、このキャラクターは自らの情報を伝達し、複製あるいは他と融合しうるコンピュータープログラムのようなもので、人工知能、つまりAIに近い。

しかし、AIと異なって、このキャラクターには「自我」があった。身体もないし、核酸や蛋白質といった生命の構成要素もない。しかし、ネット上では確かに生き物のように存在している。

この場合、その存在は生命体たりうるかという生物学的さらには哲学的な話にもなる。

押井守監督が手がけた作品は世界観がとても深くて難しく、二度三度と繰り返して観ることでようやく意味が分かる。

この映画がリリースされたのは1995年。スマートフォンどころか、インターネットさえ満足に使えなかった頃だ。

その当時にネット上の情報についてここまで言及するとは、凄まじい洞察力だと感じざるをえない。

しかし、このストーリーの骨子は彼のオリジナルではなくて、士郎正宗の「攻殻機動隊」というコミックが原作となっている。

士郎正宗が描く漫画はあまり絵が上手いとは思えないが、とても味わいがある。

しかも漫画の枠外にまで緻密に脚注が記載されていて、1冊を読み終わると強烈な満足感と疲労感がやってくる。

原作が出版されたのは1990年より少し前だったろうか。ネットが普及する前に、ここまでの作品をどうして生み出すことができたのか、私には想像もつかない。

ただ、一部の疾患における医療目的での開発ならともかく、一般の健常人までが脳にマイクロマシンを埋め込み、ネットに接続するという話はSFでしかないと思った。倫理的に許されることではないと。

そして、攻殻機動隊の公開から30年近くが経った。

自らの脳を強化するというマイクロマシニングはさすがに普及しなかったが、その一方でスマートフォンのような小型の携帯端末によって、膨大な数の人たちが広大なネットの情報にアクセスしうる時代になった。

頭の中にコンピューターを埋め込むか、掌の上でコンピューターを操作するかという違いはあっても、場所を問わずネットに接続するというスタイルは似ている。

ネットの黎明期に一部の人たちの楽しみとして開設されていたホームページの素朴な雰囲気は、数々のブログサービスの登場と共になくなってしまった。

すると今度はブログにアフィリエイトの広告を貼って小銭を稼ごうと記事を量産する人たちが増え、ネット検索がカオティックな状況になった。

ブログを更新するのは面倒で、アクセスも集まらないということもあるのだろうか、途中でSNSに利用を切り換えて短文のメッセージや写真を発信する人が多くなった。

しかし、SNSで多くの人たちと繋がっているように見えるだけで、発信したメッセージの多くは他者を素通りし、レスポンスもなく、孤独感をさらに強めている気がしなくもない。

他方、ネット上の情報において人々の関心を集めるテーマは何だろうかと考えてみると、そのほとんどが人間の「欲」に関係しているようだ。

一つは金銭欲。先ほどのアフィリエイトや課金型のブログ、投資や資産運用等、ネットを使って儲けるというテーマには人が集まる。

もう一つは性欲。これについては説明する必要もない。

その他としては食欲。ネット上には胸焼けがするくらいに多くの料理やデザートの写真が並ぶ。

趣味の世界では物欲。他者による商品のレビューが気になるのは、その人のコンテンツ自体に興味があるというよりも、将来的に自らが購入する選択肢としての意味が大きいことだろう。

その逆方向のベクトルとしては、自己顕示欲や承認欲求だろうか。詳しく考察するまでもない。

ネットや端末の技術革新によって、情報の発信や共有は飛躍的に向上し、個人レベルの記憶や思考さえも一部はネットという場において外部化されるようになったと考えても差し支えないように思える。

自分で考える、もしくは覚えるという過程をネット検索でスキップするわけだ。その情報が他者によって提供されたものであっても、ネット上で公開されていれば自らの情報の一部になる。

子育て中に趣味を楽しめないと不満を溜めて追い詰まり、ネットで解決策を調べようとする父親までいる。失笑ものだな。

では、ネットにおける思考や記憶の外部化によって、人々がより高度で知的な生活を送ることができるようになっただろうか。

確かに便利な世の中になったが、同時に人の内面、とりわけ欲やエゴがネット上に放たれるようになった。

自らのメリットになる情報に関心を持ち、その情報の発信者がどのような人なのかは気にしない。正しくない情報に影響を受けてしまう人も珍しくない。

この情報の海の中では、ネットの黎明期なら気軽に見つけることができたユーザーに出会うことは難しく、本当に必要としている情報にたどり着くことも難しい。

それでも多くの人たちは、プラスチックとガラスでできた小さな窓からネットに見入り、人生の多くの時間を費やす。

脳の機能をネットで補完しているようにさえ映る社会ではあるが、多くの人たちがネットに依存し、自ら考えることよりも情報を得ることを優先し、同時に自らの存在を情報の海へ発信する。

結局のところ、いくら技術が進化しても、人の内面が発露するようなシステムの場合には、システムを使う人の内面がベースになる。

自由自在にネットに接続し、情報にアクセスすることが可能になったが、人は自らの欲求に任せて端末を使う。

脳の活動をサポートしてくれるようなシステムであったとしても、その人の頭の中が反映されるわけだ。

当然といえば当然だな。

ということを通勤電車の中で感じたので、スマホを眺めながら考えをまとめて録を記録している。

私だって他人のことをとやかく言えないな。

この車両に乗っている人たちの多くはスマホでSNSやゲーム、動画に熱中している。

黙っていれば分からない他者の内面が、まるで鏡のようにスマホの画面に映し出されている。

加えて、駅の乗り換えで歩きながらスマホを見続けているような人は、重度のスマホ依存あるいはネット依存だと思う。

電車通勤でのストレスを少しでも減らそうという取り組みなのかもしれないが、他者への迷惑を考えることさえできなくなっている。

スマホゾンビと揶揄されることがある状態もその人の内面が外に投影されていると解釈することができるわけで、おそらく他者のことを気にせずに自分の欲に没頭するタイプなのだろう。

頭の中の活動の多くが自分の外の情報に頼ってしまっているように感じるし、その延長線上にあるのはネットの海に飲み込まれた人生の時間そのものかもしれない。

思考や記憶の外部化によって便利な世の中になったのか、頭脳を使わない世の中になったのか。

その意味を真剣に考えたところで、もはや引き返すことができない段階になっていることだけは分かる。