2020/02/06

コナン vs 江戸川乱歩

仕事があまりに忙しいので、眠る直前のリラックスタイムくらいは他のことを考えて気持ちを解そう。


さて、我が家では子供たちにテレビを見せないという方針を続けている。

その代わり書籍については寛容で、子供たちが興味を示したらジャンルを問わず私の小遣いの範囲で買い与えている。

子供たちがテレビを見ていないからといって、小学校の友達同士で話題に付いていけず孤立するのかというと、そうでもないようだ。

私のような団塊ジュニア世代が小学生だった頃は、プロ野球とかドリフターズとか北斗の拳とか、そういったテレビ番組を見ていないと話が合わなかったりもした。地域にもよるのだろうけれど。

当時は個人レベルで使用できるネット環境や携帯端末なんてものは普及していなくて、テレビの存在感は非常に大きかった。

私たちの親、つまり団塊世代のシニアの多くは、昔も今もテレビを付けっぱなしにしていたりもする。まさにテレビが情報の窓もしくは生活の一部のようになっている。

高度成長期でテレビが普及し始めた時の感動は大きかったことだろう。私たちの世代でネットが普及し始めた時のことを思い出すと、ある程度は想像することができる。

現在の40代から50代はテレビを否定しネットを肯定する人が多いように感じて、その気持ちも分かる。

他方、今の子供たちにとってはテレビもネットも生まれた時から存在していて、YouTubeが娯楽になっていたりもする。

携帯端末を使ったゲームやコミュニケーションツールも飛躍的に進化していて、子供たちを取り巻く環境は随分と変わったな。

この状況で我が子たちをどのように育てていけばいいのか思案する余裕もなく、妻に任せてしまっていたりもする。

加えて、親としてはテレビやネットだけでなく学校教育、とりわけ中学校についても考えることは多い。

公立の小学校から中高一貫の私立に通わせる世帯が全く珍しくない世の中になり、私の家族もその潮流に乗っている。

高学歴が必ずしも人生の幸せに繋がらないことは承知しているが、我が子たちが自分の人生を自分で考えて努力し、進む感じは素敵だなと思う。

「父親の経済力と母親の狂気」というフレーズが受験漫画で登場したりもするが、その意味も分かる。

子供たちが通う小学校の学区は、6年生の半数くらいが私立中学校を受験するようなエリアだ。

私立中学を受験する場合、多くの子供たちは4年生頃から本格的に塾に通い、夜まで勉強する。塾の授業がない曜日には山のような宿題がある。

真面目に塾に通っていたら、小学校での休み時間でテレビ番組について盛り上がるような余裕はないことだろう。

さらに、ネットやゲーム、スポーツや習い事など、子供たちの間で共有するテーマが細分化しているだろうし、これはこれで多様性がある状態だな。

大手の学習塾ではすでにクラウドを活用した暗記や計算のe-ラーニングのようなシステムが採用されている。

このオンライン教材は、大人が通勤電車で時間を浪費しているような単純なゲームや動画、SNSよりも知的で面白い。

また、遊びではないので頑張れば頑張るほどに学習の成果として目に見える。

公教育でこのシステムがあれば、習熟度に合わせた学習だけでなく、教師の負荷も減ると思う。教育委員会や地方行政が動くかどうかは分からない。

また、大手学習塾では各種試験の成績等もオンラインで表示される。競争相手は学校の外、全国レベルの同学年の中で自分の位置が分かる。

人にもよるだろうが、なかなか便利だ。親が狂気を発動することも納得する。

その一方で、公立志向の保護者によっては子供の学力を数値化したり、順位を付けるなんてと顔をしかめることがあるかもしれない。

その意見は間違っていないが、矛盾がある。運動やスポーツについては子供たちに順位を付けている。あれと同じことだ。

しかし、公立小学校で定期的に共通テストを実施して詳しい結果を配布したら問題になることだろう。それも分かる。

学力は運動能力よりも親の影響が生じやすい。地頭だけではなくて塾通い等で世帯の経済的な差が生じてしまう可能性があると、学校現場や行政も動くことを躊躇するかもしれない。

そもそも公立小学校は勉強を教えるためだけの存在なのかというとそうでもない。

社会性や道徳を学ぶことも大切だし、集団で生きることの大変さ、時に残酷さについても学ぶ場だ。というロジックなのだろうか。確かにそれも分かる。

まあとにかく、家庭でテレビを見ていないからといって、子供たちが仲間外れにされることはないようだ。

保護者にも様々な教育方針があるわけで、その選択は子供の個性にも依るのだろう。

写真や動画、音声等の多面的なメディアがある世の中だが、家庭においてはあえて文章を中心とした生活の中で子供たちを育てようと思う。

学校の試験問題は文章で記載されている。社会人になってからもメールでの連絡や打ち合わせは文章がベースだ。

また、テレビ画面の向こう側にある世界の思惑を知っている私としては、日常のルーティンとして子供たちがテレビを見ることを歓迎しない。

もちろんだがテレビ画面の向こう側にも都合や事情があって仕方がないことも承知している。あくまで個人レベルの意見に過ぎない。

それ以上に、私には聴覚過敏があるので、テンションの高い人たちの声がテレビから部屋中に流れると疲れる。

ということで、我が家ではかなり前からテレビが信号を受信できない状態にした。

妻にはいつでも戻すことができると説明したが、実際には回路の一部が不可逆的に外されたので戻らない。

もはやテレビの形をしたオブジェだ。テレビを捨てると妻が新しいテレビを買ってくるかもしれないので、オブジェのまま自宅に放置している。

その代わり、書籍については寛大になろうと思い、子供たちを本屋に連れて行って、小説でも文学書でも、さらには漫画であっても気にせずに子供たちに買い与えている。

この購入のペースは子供たちさえ唖然とするくらいに早くて、私の小遣いで支出するのだから妻には文句を言わせない。

そして、上の子供はすでに一般向けの書籍を読んでいて、妻が図書館で小説の単行本を借りて回し読みしていたりもする。塾で漢字を習っている影響もあるのだろうか。

上の子供はHYPSENTの録くらいなら普通に読んでしまうので、自宅ではPCで録を残さないことにしている。

下の子は文系でも理系でもなく芸術系のような感じで、本や漫画に没頭する性質がある。この集中力はかなりのもので、ベクトルが勉強に向かえば面白い人生になることだろう。

そして、下の子供を連れて本屋を訪れた時のことだった。

たくさんの子供たちが立ち読みをしているスペースがあって、我が子もその場所に集まっていく。

そこには漫画ベースの学習本というか、まあそういった書籍が並んでいた。昔はオリジナルの漫画が主体だった気がするが、最近ではよく知れたキャラクターが登場することが多いようだ。

我が子が気に入っているのは「日本史探偵コナン」というシリーズだ。内容は想像しうる。

ところが、棚に並んだ日本史探偵コナンのシリーズを眺めていたら、「大正浪漫 コナンVS江戸川乱歩」というタイトルの本が目に留まり、私は驚いた。

江戸川乱歩!?

いや、そういえば我が家にもこの本がすでにあった気がする。

子供たちは、江戸川乱歩がどのような作家なのかを知った上で「大正浪漫 コナンVS江戸川乱歩」を読んでいるのだろうか。

コナンのフルネームは「江戸川コナン」で、江戸川という名前は江戸川乱歩のオマージュなのだろう。

江戸川乱歩というペンネームも米国の小説家の「エドガー・アラン・ポー」に由来しているので、ここまでの筋は分かる。

そして、コナンと友達が「少年探偵団」を名乗って、毎週のように殺人事件が発生するというタフな状況で頑張っている。

また、この物語では、警察の対応としてもありえない点が多々ある。

毎回、毎回、即効性の麻酔薬で眠らされる毛利小五郎の心身へのダメージも気になる。

加えて、この「少年探偵団」というキーワードは江戸川乱歩の明智小五郎シリーズに由来するのだろう。毛利小五郎の名前からも分かりやすいオマージュだなと感じる。

コナンシリーズは他にも突っ込みどころが満載な作品ではあるが、確かにあの漫画やアニメは面白い。

しかし、平成生まれどころか昭和生まれの保護者であっても、江戸川乱歩がどのような作家なのかを理解している人は少数派かもしれない。

彼の推理系の作品も有名だが、それは彼の一面でしかない。他の多くの作品は怪奇系、もっと踏み込めばエログロが主体になっている。

あまりに深淵すぎて変態という格付けさえ甘く感じるくらいの思考が文章として放たれている。

かつて「江戸川乱歩全集」というものが世に出る際に、作者である江戸川乱歩自身が悩んだことがあった。

それは、彼が書き綴った作品はエログロが多いのだが、それらを含めないと全集が成り立たないということだ。

その原稿を江戸川乱歩が実際に読み返して、作者自らが吐き気をもよおして削除した文章さえあった。

一例として江戸川乱歩の「人間椅子」という作品を挙げると、オッサンが自らソファの中に入り込んで、そこに座る女性の感触を味わうという計り知れない境地のストーリーが展開されている。

どうしてその方向に行くのか? 明らかに方向が違う。

一体、江戸川乱歩の頭の中ではどのような思考が繰り広げられていたのだろか。

「地獄風景」の狂った世界観も凄まじい。一応は推理系なのだが、途中からグロに向かって突っ走っている。

「芋虫」や「盲獣」に至っては言及を差し控えたい。

しかし、人の思考をはるかに飛び越えた奇怪なストーリーは江戸川乱歩の作品の面白さでもあったりする。

私としては彼の作品を嫌ってはいないし、突っ込みどころが多くて楽しめる。

コナンの少年探偵団が明智小五郎シリーズの少年探偵団を模しているとすれば、阿笠博士とコナンの関係はどうなのだろうと訝しんでしまったりもする。

突っ込みどころの多いコナンのストーリーは、確かに江戸川乱歩の作風にも似ている気がする。

ということで、江戸川乱歩の作品を一通り読んだことがある私としては、彼がどのような作家なのかを妻に説明しておかねばと思った。

あまり具体的に表現すると角が立つので、かなり暈した表現で説明したつもりだったが、上の子供が何かを察したらしい。

その瞬間、まずいなこれはと思った。

そうか、上の子供はかなり成長してきているのだなと。

図書館で江戸川乱歩全集を借りてきて読んだら、その理解しがたい世界を目の当たりにしてゾッとするかもしれない。私は子供の頃にゾッとした。

そういえば、中学生もしくは高校生くらいの教科書では、芥川龍之介に並ぶ巨峰として谷崎潤一郎の名前が挙がるかもしれない。

しかし、実際に彼の作品を読んでみれば分かることだが、かなり特殊な性癖が織り込まれていたりもする。

谷崎潤一郎にしても、江戸川乱歩にしても、あまりに深淵な嗜好の持ち主だったのかもしれないが、その世界観を含めて文章を書いて立派になった。

すなわち、彼らにとっては特殊とも言える感性さえ「生きる力」となりえたわけだ。それらを文学の域まで高められる才能があったからこその話だが。

そういえば、最近になってうちの妻が川端康成や三島由紀夫といった文豪の小説を読むようになったが、谷崎潤一郎の作品は難しいと言っていた。

確かに理解することは難しいことだろう。

「ああ、それだったら、江戸川乱歩はどうだい?」と、江戸川乱歩全集を妻に勧めておいた。

私立中学入試の国語の文章題では絶対に登場しないと思うが。