2024/03/31

カットバック歩行で通勤時の人混みを避ける

過去の録を確認してみると、昨年(2023年)だけでなく一昨年(2022年)の春先にも調子を崩していたことが分かる。自律神経の不調に加えて、地獄のようなストレスを伴う新浦安での生活、そして義母の突撃によって引き起こされる夫婦の不和などが疲れの原因になっている。そして、ゴールデンウィーク付近で復調している。毎年のことだと思えば少しは気が楽になる。

ただ、今年の不調においては、思春期を迎えた上の子供との軋轢、ならびに勉強をサボってしまう下の子供の中学受験の徒労感が私のストレスに加わっている。そして、強い目眩や吐気といった適応障害の症状だけでなく、30代の前半に発症して寛解した強迫性障害が再発した点も今年の特徴だ。ストレスが限界を突破したようだ。若い頃は強迫性障害をこじらせて薬漬けになったことがあったけれど、今回はオッサンの経験則によってコントロールしている。何事も経験だ。


世の中は薄情なものだ。自分のことにはこだわるが、他人の生き方がどうなろうと知ったことではない。私のようなオッサンが苦しんでいても、本人以外は何ら意味がない。

そのように残酷な状況でも生き抜くのかと悶えるステージは過ぎつつある。日々の生活が確実に時を刻み、自分が老い、人生の終焉が近づいている。ストレスのほとんどは結婚後の生活に起因しているけれど、家庭の姿も時の流れと共に変わる。

まあそれにしても、私は仕事で多くの人たちの命を助けているはずなのだが、私が苦しんでいたところで誰も助けてくれない。助けてくれる人がいるとするならば、それが仕事という職業人たちだろう。

若い頃は自分の仕事に対する使命感があったりもしたが、最近では仕事だと割り切って惰性で人を助けているような気がする。人は自分が困っている時には必死に助けを求める。

しかし、助けてもらってしばらくすると感謝の気持ちを忘れ、他者が困っていても気にしない。善意で他者を助けることに意義はあるのだろうか。

まさに地を這うような今春の不調において最も苦しんだのは、ディズニーを目的として国内外から押し寄せてくる人たちによるストレスだ。新浦安の街中、駅構内、そして電車の中。木の芽時には思考がおかしな人に遭遇してストレスを受ける機会が増えるのだが、ディズニー客がストレスを何倍にも増幅させる。

妻の実家がある新浦安に引っ張りこまれたことは、私の人生で最大の失敗だった。私は20年近く住環境が地獄という不幸を背負うことになった。

コロナ明けのインバウンドの増加については、まるで最初から脚本があったかのように円安ドル高が進んで歯止めがかからず、大変な状況になってしまっている。米ドル/円は150円台まで上昇し、円の実質実効為替レートは1970年時の値を下回った。

そして、ここぞとばかりに世界中から観光客が日本を訪れ、当然のごとくディズニーにやってくる。その他の観光地でもオーバーツーリズムを起こし、地域住民が苦しんでいる。新浦安が住みやすいとネットで発信する市民を見かけなくなった。街中を歩く人たちの多くが住民ではなく観光客という状況には違和感を覚える。

もとい、円安によって潤っている日本人たちも少なからず存在し、政治に対して影響力を有していることは否定しえない。また、多くの人々が社会情勢についてのリテラシーを無視して平和に浸っていると日本が大変なことになるという警鐘は、数十年前からすでに鳴らされていた。それらを無視した結果が今に至っている。

そして、外国人たちがと嬉々として日本に殺到し、実質賃金のマイナスが2年近くも続いている日本人には手が出せない高額な商品や料理、サービスなどを堪能している。かつての日本人は東南アジアに旅行に行き現地の物価が安いと喜んでいたが、現在は逆の立場になった。ジャパンアズ何とかの時代から随分と落ちぶれたものだ。とはいえ、コロナによって日本の観光業は大打撃を受けたので、現状を無碍に批判することもできない。

他方、全国から押し寄せる日本人のディズニー客においては、物価高や実質賃金といった社会的なマターはあまり関心がないようだ。春休みが明けたはずの平日であってもキャリーバッグを引きずりながら膨大な数の若い人たちが新浦安に足を運び、派手な買い物袋にたくさんの土産物を入れ、多幸感あふれる表情で去って行く。深く考えることを嫌い、楽しいことを好む人たちなのだろう。道徳心が控えめだったりもする。地域住民に迷惑をかけても何ら気にしない。

このような人たちを含めて社会が構成されているわけだから、その行先を倦むことが虚しく感じる。この国が傾こうと、世界が混沌を極めようと深く考えず、自分の保身や利益を優先して生きた方が良いのだろう。そのような達観とディズニー客の思考原理との間に大きな隔たりはない。

厭世的な気持ちに支配されながら出勤し、都内での電車の乗り換えで混み合う駅構内を通行していたところ、ひとりの老年男性が突っ込んできた。邪魔だどけという勢いで、もはや避けられるタイミングではない。そして、その老年男性と私の肩がぶつかった。通勤時には思考がおかしい人とぶつかることがある。責任はお互い様だ。自分で突進して謝らないとは無礼な年寄だなと思ったが、相手にするだけ面倒なので、私はスルーした。

すると、その老年男性が激高して突っかかってきた。怒鳴り散らしながら車両の中に入ってきて私の腕を掴み、車外に引っ張り出してきた。この老人は駅構内にて大声でまくし立てながら自分の正当性を主張している。私人逮捕のつもりだろうか。明らかな暴行だ。

その老人は見るからに団塊世代の70代。白髪頭は灰色を通り越して真っ白。コロナが気になるのか相変わらずマスクを装着し、くぐもった怒声を私に浴びせ続けている。それにしても、明らかに思考がおかしくなっている人を前にすると、私はその人を患者として認識してしまうらしい。怒ることなく冷静になり、過密な仕事のスケジュールが気になった。こんなところで時間を浪費している場合ではない。

近年では鉄道で暴行を起こして逮捕される人の年齢層として、60代や70代といった老人の割合が最も高いそうだ。

老人たちが世の中で迷惑をかけている現状には、仕事をリタイアして社会的な箍(タガ)が外れたり、加齢によって脳が衰えて感情の制御が難しくなったりという背景があるらしい。「キレる老人」とか「老害」といった揶揄がネット上に広がっている。

そういえば、私が子供の頃は「お年寄りを大切にしましょう」 という考えが一般的だったが、最近ではそのフレーズを見聞きしない。プライドが高い団塊世代の人たちが「年寄り扱いするな!」とクレームを撒き散らしたのだろうか。我こそは正義だと突撃する人がとても多い。

とはいえ、正当防衛という言葉は歪んで理解されている。私がその老人から暴行を受けた時点で反撃し、壁に打ち付けたり、殴り倒したりすると、当然だが私が捕まる。過剰防衛という話というよりも、正当防衛が認められる範囲がとても狭いからだ。

仕方がないので、「ラチが開かないので駅員のところに行こう」とその老年男性に伝えて移動すると、今度は彼が駅員に対して大声で突っかかり始めた。自分で他者に恫喝や暴行を加えておきながら、駅員に苦情を言ってどうするのか。この人物は店舗や役所など、至る所でクレームを投げつけていることだろう。

その老人は怒っていても矢継ぎ早に言葉が出て、とても弁が立つ。現役時代にそれなりの地位にいたのだろう。しかし、現時点では狂った老人という解釈になる。

彼の格好はヨレヨレのブルゾンと綿パン、ランニングシューズ、そしてリュックサック。タバコのヤニ臭さが全身から漂っている。遅くとも10年後には鼻にチューブを取り付けて呼吸に苦しむことだろう。

そして、その老年男性が駅員に対してクレームを浴びせ続け、可哀想な若い駅員が説明を続けている中で、トラブルの契機となった通行中の接触は不可抗力であり、私が法に抵触するような行為をしたわけではないことが明白になった。加えて、駅員の話によると電車の中の乗客を引っ張り出した老人の行為は暴行に該当するので、警察を呼んでも構わないという意見だった。

その時、老人の表情が一瞬で青ざめて、急に温和しくなった。この老人は感情の制御が壊れているが、決して愚かでも間抜けでもなく、頭の回転は速い。当時は大学進学率が低くてインテリ層であったはずなのに、構内でバリケードを張って研究教育活動を妨害し、機動隊に向かって火炎瓶を投げつけていた全共闘の若者たちの面影を感じた。本人なりの歪んだ正義。それが崩れた時は脆い。

この老人は自分の法的責任を察し、警察を呼ばれると自分が逮捕されると考えたのだろう。警察という言葉に対して異様なまでに反応している。急に態度を変えて、警察を呼ばずに駅構内で私と話をまとめようとした。激昂した老人が普通のお爺さんに戻った。キレる老人は警察を呼ぶと静かになったり、その場から立ち去ることがよくあるらしい。

ここまで態度が変わったので、私としては怒る気力が萎えてしまった。この老人にとっての正義が崩壊し、憤慨から絶望に落ち込んだ老年男性の姿は、あまりに滑稽だ。

この老人を反省させる目的で警察を呼んで注意あるいは逮捕してもらうという選択肢があったのだけれど、相手にすると時間と気力の無駄になる。だが、キレる老人という存在はとても迷惑だと思った。

全ての高齢者がこのように暴れているわけではなくて、穏やかで深みのある人もいる。けれど、その割合は少ないように感じる。高齢者が他者に対して暴言や暴力を振るったり、自動車を運転して若い人たちを事故に巻き込んだり。「最近の若者は...」という言葉よりも、「最近の老人は...」という言葉の方が現在の世の中を反映している気がしてならない。

コロナ期には米国の若者たちが「ブーマー・リムーバー」というミームを拡散し、あえて感染を広げて団塊世代にダメージを与えようとしたことがあった。先の大戦の後の混乱が続く社会で生まれ育ったからなのか、人口が多くて競争や格差が激しかったからなのか。団塊世代は若い頃にとても馬力があったが、高齢者になると対応が非常に難しい。

帰宅して風呂に入ると、その老年男性によって掴まれた私の上腕が広範囲に内出血を起こしていた。ゴアテックス製の上着を着ていたので、その老人の爪による外傷は認められず、感染症のリスクもないことだろう。なるほど、介護職の人たちの腕が傷だらけという理由が分かった。怒り狂った老人は力の加減すらできないということか。

それにしても、この内出血は酷い状況だ。被害届を出せば受理されたことだろう。やはり、あの暴行老人を警察に捕まえてもらうべきだったかと思ったが、時間を使われたくもない。

この件は災難ではあったが、通勤に伴うストレスを緩和するためのヒントに気が付いた。

通勤地獄のストレスの多くは駅構内の通行において生じる。前を見ないスマホゾンビ、荒い態度の中年や老人、ベビーカーで突進してくる若い親、千鳥足の酔っぱらい、そしてディズニー客。このような人たちには、他者に配慮して道を譲ろうという気持ちが感じられない。後ろを歩く人たちがいても気にしないし、対向している人たちがいても避けない。自分こそが正義なわけだ。

これらの小さなストレスが積み重なって、私は通勤時の疲れや怒りを増大させている。

私のようにASD傾向がある人は、目の前の光景を眺めて自分が歩くルートを想定し、そのラインをトレースして歩かないと苦痛を覚えたりもする。そのラインに無数の人たちが前や横から真っ直ぐに突っ込んできたり、同じ方向に歩く人たちがラインを塞いだりもする。混雑時には当然のことであり、このような状況は仕方がないと私は諦めていた。

しかし、何事も勉強だ。先の老年男性のように思考がおかしくなっている人との接触を避けるためにはどうしたら良いのか、あるいはどのような対処法があるのかと考えているうちに、ひとつのアイデアが思いついた。

他者が進むであろう動線を意図的に回避して、スマホゾンビや様子がおかしい人には近づかない。ただそれだけのことだ。

私が駅構内を通行する際に頭の中で描く歩行のラインを真っ直ぐに、もしくは最短距離に設定するからこそ、突進してくる人たちとの間でラインが重なるわけだ。しかも、相手が避けてくれるかどうかを予想するだけで疲れる。

駅構内で立ち止まり、通行人の歩行のラインを眺めていたところ、そのパターンに特徴があることに気が付いた。真っ直ぐな動線のラインは至る所で交錯しているけれど、あえて遠回りするようなルートには他者のラインがほとんど存在していない。

例えば、改札から改札までの距離が近い電車の乗り換えでは、双方向を歩く人々が最短距離で押し寄せる。だが、最短距離から離れた場所を歩く人は少ない。当然のことだ。キレる老人とのトラブルにおいても、私が遠回りして歩いていれば突進を受けるはずがなかった。

加えて、多数の人たちが描く真っ直ぐな歩行のルートは至る所で交錯を繰り返しているように見える。けれど、それらをジグザグに避けて進むという動線が存在している。面倒なので自分は避けたくない、他者が避けろという気持ちが空間に蔓延っているので気が付かないだけだ。

そのジグザグの動線をトレースするには、必要に応じて半歩程度のステップを切り、方向を変える必要がある。アメリカンフットボールのカットバックを思い出した。

私の弟は大学時代にアメフトの選手だった。私も体験入部でしばらくトレーニングに参加したことがある。

アメフトの攻撃陣のランニングバックは、プレーヤーが密集した前線の隙間を抜けてボールを運び、相手チームの守備陣のタックルを避けながらゲインを獲得する。

彼らがディフェンスからのタックルをかわす際、カットバックという技術を用いることがある。戦略におけるアライメントとして設定した走行ルートにディフェンスが入ってきた時、ランニングバックはステップを切って方向を変え、オープンスペースに切り返したり、緩急を付けてタックルのタイミングをずらしたりもする。

アメフトのカットバックほどではないが、駅構内のオープンスペースを探し、歩行時に頭の中で描くラインをあえて小刻みかつジグザグに設定して動線の交錯を回避する。これによって通勤時のストレスが減るのではないか。

それでは遠回りになるではないかと以前の私であれば忌避するところだが、パワーウォーキングが趣味になってしまっている現在の私にとっては、むしろトレーニングとしての歩行距離を稼ぐことができるので好都合だ。問題は、パワーウォーキングのレベルまで歩行速度を上げられるのかという点のみ。

ということで、試しに新浦安駅や都内の電車の乗り換えでジグザグに進んでみたところ、実際にストレスが減った。なんだこれは。素晴らしいじゃないか。

同方向のラインを塞ぐスマホゾンビや酔っ払いについては苛つくことなく外回りで追い抜くことができる。対向から真っ直ぐに突っ込んでくる人たちにおいては私が道を譲ってくれる思慮深い人と勘違いされているようだ。ありがとうと会釈されることさえある。

しかしながら、普段の通勤で使っているウォーキングシューズの接地力が足りないことが気になった。トレッキングシューズのようなウォーキングシューズは真っ直ぐに歩く分には便利だ。しかし、小刻みに方向転換する歩行やストップアンドゴーを想定して設計されているはずがない。

ということで、ウォーキングシューズの中でもグリップ力が高く、足先を確実にホールドしてくれる製品を探して試してみた。方向を変えたり速度を調整して緩急をつけたりといった歩行では、硬くて薄いソールがいい。実際の足袋が最も適しているような気がするが、通勤中に足袋を履くと目立って仕方がない。

すると、ミズノが販売しているウォーキングシューズの中に逸品を見つけることができた。このシューズのソールは獰猛なまでに地面を掴み、踏み込むだけで前方や側方に足が蹴り出される。目の前にディズニー客や酔っ払いが突っ込んできた時には、足先ではなく踵で踏み込むことで急停止が可能だ。

「これは素晴らしい」と通勤中の新浦安の街中や駅構内でのパワーウォーキングを楽しんでいたところ、膝から下に軽い筋肉痛が生じた。なるほど、良いトレーニングになっている。

先のミズノのウォーキングシューズはグリップやホールド性が高く、パワーウォーキングに適している。本当に素晴らしい。雨天時であっても滑りにくい。

興味深いことに、このシューズは手ぶらのパワーウォーキングには適しているけれど、ポールを持って歩くノルディックウォーキングで使用すると足が痛くなる。ノルディックウォーキングの場合には厚底のランニングシューズやトレイルランニングシューズの方が適しているようだ。

キレる老人に絡まれたことは災難だったけれど、通勤のストレスを緩和するための方法に気が付くことができた。

なんてことだ。このように単純なことに気が付かず、どうして私は15年近くも通勤時のストレスに苦しみ続けたのか。まあ、ウォーキングという趣味に出会ったからこそ気が付いたわけなので、過去を嘆くことはやめよう。

かくして、キレる老人のお陰で、今の私は週末のノルディックウォーキングに加え、平日の通勤時間を利用してパワーウォーキングに取り組むことができるようになった。

新浦安の街中を歩き、駅構内を歩くという時間や距離は無価値だと諦めていた。けれど、1日あたり1時間以上のパワーウォーキングが可能になると体調にも良い影響が生じる。

再発した強迫性障害の症状が自分で実感しうるくらいに軽くなってきた。そして、毎日を少しだけ前向きに生きることができるようになった。歩き方とシューズを変えるだけで、地獄のような住環境の日々が少しだけ楽になった。オッサンになっても学ぶことはたくさんある。

カットバック歩行のために手に入れたミズノのウォーキングシューズがあまりに素晴らしいので、予備として5足くらい購入しても構わない気になっているのだが、いくらハードに歩いても靴底がほとんど減っていない。

アシックスの長距離用のウォーキングシューズも試してみようかという気持ちになってきた。