2024/01/21

思秋期の小休止:今を丁寧に生きる

相変わらず、休日になると新浦安の海沿いの遊歩道に出かけてノルディックウォーキングに励んでいる。2時間程度のウォーキングの後、(通販でまとめ買いすると飲み過ぎるので)近所のスーパーにて当日分の酒を買い、帰宅して入浴。心地良い汗を流した後、糖質が少ない豆腐をつまみながら酒を飲むという、健康に良いのか悪いのかよく分からないルーティンが成立している。

その日のウォーキングは日が沈みかけてからの出発となった。5回も洗濯機を回して山のように溜まった衣類やタオルを片付け、ADHD傾向がある妻子が使うだけ使って悲惨な状態になった洗面台やトイレといった水回りを掃除し、それなりの達成感を帯びてから歩き始める。


三番瀬沿いから始まるルートを歩き始め、相変わらず煌々と輝く新浦安の街並みを一瞥し、対岸に広がる船橋市や千葉市の光景を眺め、鬱陶しい街の中で最も人口密度が低いであろう海沿いを進む。

野鳥よりも閑古鳥を見かけることの方がずっと多い三番瀬環境観察館という名前の地方行政のハコモノの象徴のような建物の前を過ぎ、護岸の角を曲がると墓地公園がある。

墓地公園という名前ではあるが、確かに墓地でもあり公園でもある。遊歩道と墓地の間を防風林が隔てているので、ここからは墓地の姿が見えない。しかし、防風林からは線香の匂いが遊歩道に漂い、多くの人たちが眠っている気配を察する。とりわけ夜間にこの場所を通過すると何かを感じる。

護岸沿いの遊歩道をさらに先に進むと総合公園があり、時間帯によっては多くの市民が自分の時間を過ごしている。総合公園と墓地公園のコントラストは、まるで生と死の境目を暗示しているように感じる。

遊歩道を歩き続け、境川の河口の近くにあるドームデッキから東京湾を眺める。夕方に歩き始めると往路が終わる時には薄暗くなり、千葉県内の北西部および内房に並んだ建物から放たれる美しい光が海沿いを縁取る。

海の向こうの街々にも当然ながらたくさんの人たちが住んでいて、たくさんの職場や家庭があって、たくさんの悲喜交々があるのだろう。

私のようなオッサンの幸せとは何かと定義することは難しいけれど、生活に困らないだけの収入があり、自分と家族が健康で、夫婦仲が良いこと。シンプルなことだけれど、それらで十分に幸せだと思う。

だが、それらの幸せの条件はひとつでも欠けた段階でやっと気が付く話であって、三拍子揃うと普通だと感じてしまうのだろうな。

利便性がある首都圏でステータスの高い職場に勤めて高収入を得たところで、家庭に帰れば妻との不和が絶えず、互いに仮面を被って我慢しているレス夫婦の男性なんてたくさんいるはずだ。

男女の愛情はとっくに干上がり、子供と世間体のために婚姻関係を続けている。結婚する前とは別人になり、手を繋ぐどころか、二人で出歩いた記憶さえ曖昧な配偶者といつまで同居を続けるのだろうかと。不幸でしかない。

揶揄するつもりは全くないけれど、房総半島の田舎で夫婦仲良く生活する方がずっと幸せだろう。

海の向こうに見える夜の街々には、そうやって幸せに生活している同世代の男性がいるはずで、何だか負けた感があったりもする。きっと食卓を囲んで楽しく会話を続けているのだろうかと。挨拶と必要最小限の会話しかない我が家が酷く無様に思える。

他方、自分が見ている街々の中には、今まさに離婚届に判を押している夫婦がいたりもするはずだ。もしくは、夫婦仲は良いけれど大きな負債を背負って生活に困窮して涙を流していたり、何かの不幸が迫って苦しんでいたり。

けれど、自分から見える風景のどこに誰が住んでいるのかなんて何も分からない。翻ると、自分自身の存在も同様だ。私が何に悩んで苦しんでいたとしても、少し離れた場所から見れば無意味で無価値なものだ。その姿さえ認識されない。

浦安に引っ越してきて良かったと感じることはほとんどなく、膨大なストレスに苛まれている。しかし、好きな時にこの風景や感覚に接することができるのは、この街に住んで良かったことだ。千葉県内の東京湾沿いであればどこでも(以下略)なわけで、浦安に住んだからこそという話でも(以下略)だが、まあそのように信じ込むことにしている。

一息ついてから海沿いのベンチに座り、ストレッチを続けながら夜景を眺めていると、落ち着いた気持ちで思考を巡らせることができる。

中年男性に特有の心身の不調は、男性の更年期とか、ミドルエイジクライシスとか、思秋期とか、まあそういった言葉で表現されている。ここでは思秋期という言葉を用いる。

思秋期を生じる機序はよく分かっていないらしい。男性ホルモンが低下することが理由だとか、仕事や家庭が一段落して刺激がなくなることが理由だとか、とにかく加齢性の変化が理由だとか、まあそういったことが引き金になるそうだ。とどのつまり、老いによるものだな。

その仕組みはよく分からなくても、多くの中年男性たちには思秋期が押し寄せていて、第三者から見ると不思議だなと感じる生き方を選択したりもする。

とりわけ多いのが職業人としてベテランになってからの転職。リストラではなく自分の意思で退職し、収入が減ることが分かっていても他の職場に移ったり、脱サラして独立開業したりもする。以前の私は、彼らの姿が中年のクライシスを迎えているように思えた。まるで崖に飛び込んでいるようだと。

しかし、職場を去る多くの同世代の背中を見送るにつれて、人生を転換させる人たちについて違った印象を覚えるようになった。職業人としての寿命を実感するようになり、自分がどのように生きるのかを考え、個々の結論に達したのではないか。

彼らの目にはどのような本質が見えているのだろう。職場を去る人たちの表情は清々しく、いつもより希望が映っているように感じる。

他方、夫婦の不和に堪えかねて離婚したり、不倫に走ってしまう思秋期の中年男性の判断についてはどうなのか。前者については様々な都合があることだろう。後者については文字通りの家庭のクライシスだ。

それにしても不思議なことだ。職業人生としては15年くらい。人生全体としては20年くらいだろうか。残り時間が現実的な存在としてそびえ立っているような怖さというか、焦りというか、何だろうな、この中年特有の重い思考は。

ウォーキングの小休止のたびに、私は思秋期の重い思考の正体を探り続けた。

仕事と家庭においてはクライマックスと呼べるステージが終わり、これから先に熱意を持つことができる要素が少なくなる。多くの中年男性が感じていることだろう。それに併せて頭の中に覆い被さり、自分を追い込んでくる思考は何だろうか。

その苦しみを過去と現在と未来の時間軸に分けて考えると、「過去の後悔」と「未来への不安」という二つのステージによって現在が挟まれ、それらが渦を巻いているように感じる。中年男性たちがそれらから逃げたいと思い、クライシスに向かって飛び込んでしまう気持ちは十分に理解しうる。

つまり、①過去から現在への後悔という負の思考、②不確定な未来から現在に向かって漂ってくる負の思考、③現在の自分の無力感や徒労感という負の思考といった複数の負の思考がループを形成して自分を追い込んでくるというわけか。

とりわけ、③を考えると①がリンクしてループを形成するので厄介だな。五十路が見えてくると人生の答え合わせが始まるというか。これまで生きてきた軌跡が残酷なまでに俯瞰され、今さら考えても仕方がないことばかりが後悔という形で浮かび上がる。

仕事にしても家庭にしても、個々の頭の中では「このようになればいいな」という理想があり、その方向に生きているはずだ。しかし、理想は理想であって、そのゴールイメージを実現することは難しい。

夫婦仲なんて、その最たる事象だろう。仮面夫婦だとかレス夫婦だとか、どうしてこうなったと現在について悩み、この結婚は間違っていたと後悔し、過去と現在の思考がループし続ける。過去の自分は、もっと婚活に力を入れて伴侶となる女性を探すべきだったとか、義実家となる人たちまでを含めて慎重に結婚を考えるべきだったとか。今さら後悔しても遅い。

職場の出世競争でもよくある話だ。若手の頃は一対一で絶対に負けていなかったはずの人物が世渡りに全振りし、上司に対してイエスマンを貫き、部下の力を吸い上げて業績を増やし、高いところから現場を見下して偉そうに振る舞ったりもする。イエスマンに徹する必要はなくても、もう少し世渡りを考えて生きた方が良かったのだろうかと後悔したところで、やはり遅い。

過去の後悔にまとわりつかれた状態のまま、未来という時間の残りが限られ、焦りと混乱の中で逃げ場を探し、そこに飛び込んでしまう。中年男性に特有のクライシスは、このような思考原理によるものではないか。

では、上記①の過去の後悔という要素について「振り返ったところでリセットできないから考えたところで仕方がない」と開き直り、上記②の未来への不安という要素について「どうせ時が流れて死ぬのだから考えても仕方がない」と開き直るとどうなるか。

過去と未来に押し潰されてペチャンコになっている思秋期のオッサンの思考は現在に向かう。

なぜペチャンコになっているのかというと、これまでの人生で蓄積された知識や経験があることで苦労の繰り返しが減っているからなのだろう。この仕事はこのようなものだと学習し、この妻の性格はこのようなものだと学習し、課題と対応を繰り返すことで中身がなくなり、過去と未来についての思考によってプレスされて平たく押し潰されている。

その状態が幸せなことだとは思えなくてフラストレーションを凝縮させ、一気に弾けて何かを変えようとすると、後先を考えずに職場を辞めたり、熟年離婚に突き進むというわけか。

では、過去や未来に現在が押し潰されないためにはどうすればいいか。残り20年の時間をどのように生きるか。その答えが分かるようで分からない。

賢人たちが残した記録を読んでみると、「その日を丁寧に生きる」という当たり前のような文章があったりもする。非常に興味深いことに、様々な賢人たちの人生をダイジェストで学んでみると、仕事や家庭で順風満帆という生き方ではなかったりもする。

真面目に生きていても文字通りに首をはねられた賢人がいて、悪妻の存在に苦しみながら生きた賢人もいた。いくら才能があったとしても、いくら努力を積み重ねたとしても、結局は人生色々というわけだ。

過去を省みて現在でも活用しうることを思い留め、未来を眺めて糧になりそうなことを備え、現在においては丁寧に生きる。

丁寧に生きていると、試行錯誤はあったとしてもシンプルな生き方が残る。雑に生きていると、その場しのぎで問題が解決されても物心ともに片付かない生き方が残る。

最終的には自分自身と一切れの衣類と棺桶で旅立つのだと気負って、過度にシンプルな生き方を目指す必要はない。けれど、「この事物は自分が生きていく上で本当に必要なのか」と考えて、生き方や身の回りを整えていく時期なのだろう。

当たり前のような話ではあるけれど、思秋期のオッサンの頭には過去と未来の両方向からたくさんの思考が押し寄せて、今をどのように生きるのかという思考が圧迫されてしまう。

仕事については、定年を迎えた後で経済的に苦しまないように蓄える。それまで地道に働く。

家庭については、子供たちが成人した段階で夫婦関係を考える。互いに干渉しない家庭内別居なのか、本格的な別居なのか、離婚なのかは分からない。

現段階では義実家との関係に苦しんでいるけれど、あと10年もすれば力学が変わってくることだろう。おそらく、あの義実家のことだから義父や義母の葬儀では家族葬を選択して私を呼ばないような気がする。もう知らない。勝手にやれよと。

妻や子供たちの経済状況を考えると婚姻関係を維持した方が負担が少なく、「偏屈でよく分からない親父だったけど、借金も浮気もなかったね」という及第点で世を去るという形が最も角が立たない。

それが無理であれば別居や離婚という選択になるが、子供の結婚式で両親の関係が破綻していることが明確という状況は気まずくもある。

過去や未来へのこだわりを減らし、今をどのように生きるのか。難しいテーマだけれど、シンプルかつ丁寧に生きるという方向性は(私の生き方として)間違っていない気がする。

若い時には、様々なことに手を出して雑に生きた方が魅力的な異性と連れ添ったり、出世のチャンスがあったかもしれない。だが、あと10年もすれば還暦が見えてくる段階だ。残りの時間が限られている現実を受け止めて、いつ終わっても充分だと自己満足するくらいの生き方を重ねたい。

それができれば苦労しないのだが。