2024/01/03

歩行禅と真空無相

年末年始の仕事の慌ただしさは例年通り。職業人としては幸せなことだが、サイクリングを趣味としていた2012年から2022年頃までは、この時期にライドを自粛して心身の調子を崩すことが多かった。

趣味のサイクリングで事故や落車に遭い、繁忙期に仕事を休むという事態は避けねばならないと自戒していた。また、若手医師やスタッフが当直で繋いでいる時期の病院に自転車で転んで運ばれ、ベッドの上で鎖骨や大腿骨の手術を待つことは悲惨だと思った。しかし、今回の年末年始はコンディションが随分と保たれている。脳以外はとても元気だ。


2023年から始めた高負荷のウォーキングはアクシデントや怪我のリスクが非常に小さいため、年末年始のワークアウトのペースを落とす必要がない。しかも、浦安の海沿いの遊歩道に囲まれたエリアに住んでいるので、信号も横断歩道もないウレタン舗装のコースまで容易にアクセスすることができる。まるでサーファーや釣り師が海浜沿いに住んでいるような感じだな。

ふとした機会で知り合った現役のボディビルダーから糖質や脂質の制限、筋肉や贅肉のコントロール、およびストイックな取り組みを楽しむという考え方を学び、高齢者が卒倒する負荷のノルディックウォーキングを続けているうちに、肉体の方は随分と引き締まってきた。コロナ期の最重量と比べて10kgも痩せたので、身体が軽い。

特に競技性を考えていない自己満足の鍛錬ではあるけれど、何だか満足感がある。肩凝りや腰痛といったオッサンによくある症状もない。

また、これら一連の活動は精神的なストレスの軽減においても望ましい影響をもたらした。

仕事や家庭で過剰な情報が頭の中に雪崩れ込んだ時、自室で坐禅を組んで落ち着くことは難しい。この街は年中喧しく、自宅も年中喧しい。じっとしていると頭の中が混乱し、全身が床に沈むような感覚が続く。浦安住まいのストレスで適応障害を起こしていることを忘れてはならない。メンタルダウンを身近に感じる。

ということで、週末になると家の掃除や洗濯物を片付け、余計なことを考えずにスポーツウェアに着替え、ノルディックポールを持って海沿いに出かけている。スマホのアプリのログをチェックすると、半年以上もの間、休日にほぼ欠かすことなく10km程度のコースを歩いたり走っていることが分かる。

正確には、往路を準備運動を兼ねてノルディックウォーキングで進み、折り返し地点でストレッチ、復路をバウンディングストライドの跳走を取り入れたインターバルを行いながら戻っている。とりわけ復路は息が上がって全身の筋肉が疲れ、普通に走った方が楽だと思えるくらいの負荷がある。

試しにジョギングで10kmを走ると、なるほどポールを持たずに走るとこれほど楽なのかと感じ、とはいえポールがないと膝や足首に負担がかかり、両手を振るだけでは上半身のトレーニングが足りなくて暇だなと納得し、再びポールワークに励んでいたりもする。

ノルディックウォーキングなんて高齢者の運動だと思っている現役の中年ランナーたちが、この運動の楽しさを知らないまま老い、実際に高齢者になって足を壊して走れなくなった後、「こんなに面白かったのか...」と気付いたところで時間は戻らない。私は運が良かったな。

未熟ではあるけれど禅やマインドフルネスの心得がある私にとって不思議に感じることがある。それは、姿勢を正して座り続けるよりも、両手にポールを持って歩いたり走ったりする方が瞑想への導入が非常に早いということだ。

私は特定の宗教を信仰していないが、母親代わりだった祖母が熱心な曹洞宗の仏教徒だったので、子供の頃に禅と接する機会がよくあった。大人になった今では精神的なストレスを軽減するための方法論として禅を続けている。

そういえば、曹洞宗や臨済宗といった禅宗では、ただひたすら座って精神を整える坐禅の他に、歩行しながら禅に取り組むという修行がある。分かりやすい一般的な表現としては歩行禅。禅宗では「経行」と呼ばれている。経行という単語は「きんひん」と読むそうだ。

曹洞宗の場合は坐禅が主体であり、歩行禅は坐禅の合間に行うオプションだったように私は理解している。

また、禅から宗教色を取り去り、目的や方法をより分かりやすく改変したマインドフルネスにおいては「歩行瞑想」が経行に相当するらしい。マインドフルネスといえばヨガのようなスタイルで瞑想しているイメージがあるのだが、歩きながらでも瞑想が可能なのだそうだ。禅をベースにしているのだから当然だな。

経行や歩行瞑想を行う上で必要なのは、自らの歩行を遮るものがない静かな場所だと思う。途中で信号に阻まれたり、他の歩行者や自転車と頻繁にすれ違ったり、騒音が響くような状況では集中することも落ち着くことも難しい。

私がサイクリングに魅力を感じなくなったのは、この点でのデメリットが大きい。人や車が通らない一本道で黙々とペダルを回していると瞑想に近い精神状態になることがあるけれど、そのような環境はとても少ない。そもそも自転車に乗りながら瞑想を行うと危険で仕方がない。

禅において視覚情報はあまり意味がない。寺で行う坐禅の場合には壁に顔を向けたりもする。経行においても同様なのだろう。そこが景色の良い場所である必要も毎回のルートを設定する必要もない。

禅宗の経行の場合には、坐禅と坐禅の合間に禅堂の周りをグルグルと歩く。私の場合には海沿いの遊歩道を往復している。すなわち、歩くルートの条件として矛盾がない。

また、同じ禅宗であっても曹洞宗と臨済宗では経行のスタイルが異なるそうだ。曹洞宗の経行では「一息半歩」のペースで静かにゆっくりと歩く。私はこのスタイルが歩行禅だと思っていた。ところが、臨済宗の経行では、走るくらいのペースで歩行禅を行うらしい。

私の実家は曹洞宗なので想像していなかったのだが、臨済宗の経行はパワーウォーキングのような勢いがあるということか。なるほど、宗教的な背景はないけれど、私が取り組んでいるのは臨済宗の経行に近いエクササイズなのだろう。

したがって、紆余曲折を重ねた私が最近になって「なんだこれはすごいじゃないか」と自分で驚いている歩きながらの瞑想状態というものは、大昔の人たちがとっくに気付き、方法論として確立していたわけだ。

しかも、ネットで検索してみると歩行禅に関する書籍が山のようにヒットする。禅やマインドフルネスにおいて「歩く」という活動が精神により良い影響を与えることは間違いない。

私なりの理解として、禅の基本は「無」や「空」といった境地に至ることであり、それらの基本を深く掘り下げると「真空無相」や「真空妙有」という概念で説明される。

「真空無相」という言葉は「真なる空は無相であって、姿形がない」という意味。解釈としては実にシンプルだ。「空」とは何かというと、無自性(むじしょう)であること、あるいはその状態のことを意味する。

「無自性」とは何かというと、全ての事物がそれら自身に備わっている本質を欠くことを意味している。つまり、無自性を脳で認識している状態が空の境地という理解になる。悟りの境地とも呼ばれる。

シンプルではあるが、突き詰めて考えると難しい。全ての事物が本質を欠くとはどのような意味なのか。そのことにどのような意義があるのか。

無自性や空といった概念は観念的および人文社会学的なテーマに位置しており、自然科学的な考えに基づいて考えると何を言っているのかよく分からない。大学の研究者であっても空の説明が論理的ではなかったり、人によって解釈が違っていたりもする。

全ての事物は永遠に変わることがない絶対的な存在ではなくて、常に移り変わり、それぞれが相対的な関係においてのみ存在している。それらをまるで俯瞰したように眺めた状態を空と表現し、人の精神世界にまで広げて解釈しているということか。

例えば私がこの世界に生きていたとして、確かに他者と区別しうる存在ではあるけれど、厳密な意味での自分という存在は脳を伝う電気信号でしかない。時間が経てば老いて朽ち、姿もなくなる。太陽でさえ寿命があり、いつかは消え去る。

では、万物のベースにあるものは何か。数学でゼロという概念が必須であるように、世界を理解する上でゼロに相当する概念を構築することで、物事をより客観的に捉えることができると昔の賢者が思いついたのだろうな。

だとすれば、望遠鏡どころか地球の形さえ分かっていなかった大昔において、量子宇宙論的な考え方が存在していたということになる。それはそれで凄まじいことだ。

だが、よくよく考えてみると空の境地に至っている人の頭の中においては、分析的な思考が回っているはずがない。何も考えていないわけだから、その境地から戻ってきたとしても状況を詳しく覚えていられるはずもない。

高僧が書き記した内容を勉強したり、宗教学の専門家が説明している文章を読み、空の意味が分からなくても不思議ではない。この概念を理解する際には、考えるよりも感じた方が手っ取り早い。

もうひとつの「真空妙有」という言葉は般若心経の「色即是空、空即是色」という概念と多くが重なっている。この言葉を深く理解するとなるほどと思うわけだが、さらに難しいのでここでは省略する。

とどのつまり、禅においてたどり着くのは「何も考えていない」というフラットな精神状態なのだろう。

一方、マインドフルネスの基本としては、自分にかかわる全ての状況をこだわりなく受け入れ、現時点に意識を集中することだと私は理解している。禅とマインドフルネスは違うと言っている人がいるが、方法論としては分かりやすい説明があるかないかという違いだけかもしれないな。

禅の場合には空や無を感じることが目的になっているが、マインドフルネスの場合には目的が論理的に説明されている。仏教的な背景がない国の人々に対して「空」の概念を説明しても理解されないわけで、それなりのカスタムが施されていると思われる。

禅の基本である空の境地においては全ての事物が無自性だとすると、他の宗教的な背景を持つ人々においては絶対的な存在である神でさえ否定しかねない。この懸念は、禅をベースとしたマインドフルネスにおいて宗教色を取り去る必要があった理由のひとつかもしれないな。

しかし、禅の心得がある人から見れば、解釈はともかくマインドフルネスでも同じことを行っていると感じるはずだ。

また、マインドフルネスに取り組もうとしている人たちには、宗教的な修行や習慣というよりも、現代的あるいは西洋的とも言える明確な目的がある。ストレスの軽減だとか、幸福感や集中力の向上だとか、まあそういった心の健康の維持のために行うということだな。

マインドフルネスの由来を遡ると仏教にたどり着き、しかもインドの原始仏教ではなく日本の禅宗に源流があるらしい。米国の研究者が禅を学び、禅から宗教色を取り去ることでマインドフルネスが生まれたわけだ。

研究者といっても人文系ではなくて、自然科学の最前線とも言える分子生物学者が禅を学んだというエピソードがとても興味深い。空の概念を理解しようとして理解することができず、ならば取っ払って手段と結果をゲットだぜと考えたのかどうかは分からない。

当然だが、世界には様々な宗教的背景を持つ人が生活しているわけだ。マインドフルネスから宗教色を取り去り、その目的や方法論を明確化することで、なるほどこれは有用だと多くの人たちに受け入れられたということだ。日本食が健康的だということで米国で広がっているような感覚と似ている気がしてならない。

私なりの理解の範囲では、浦安の海沿いの遊歩道で歩行禅に励んでいると、「真空無相」という精神状態を楽に感じることができる。

たぶん、禅やマインドフルネスに励んでいる人たちにおいても、空という概念を言葉で理解することはできなくても、空という精神状態は体感していることだろう。私も同じだな。

たぶんこれが空の境地なのだけれど、言葉で説明することは難しい。空という感覚が宗教やオカルト、スピリチュアルといった話ではなく、人の脳の情報伝達における生理学的な性質に基づいていることは間違いない。とても興味深いことだ。

ただし、私の場合には、瞑想状態を導入する際のウォーキングにおいて、どうして臨済宗の経行のような高い負荷が必要なのか、そして、どうして両手にポールを持つと瞑想への導入が早いのか。当の本人でもよく分からない。

両手に何も持たないで歩いたり走ったりすると、途中で頭の中が暇になり、集中力が途切れるような感覚がある。実際、遊歩道にウォーキングにやってきて、スマホゾンビになっている浦安市民を見かけることがよくある。

両手でポールワークを続けていると、リズムが生まれて歩行や跳走に集中することができる感じがある。

その際にはポールとの相性も重要で、アルミ製で硬くて手に衝撃がかかるとか、廉価なカーボン製で歪みによる振動が生じるとか、自分に合わないポールはいくら頑張っても精神を集中させながら無思考に至ることが難しい。

ポールのグリップが緩いとか、ストラップに違和感があるとか、インパクト時の音が大きすぎるとか、感覚過敏を有している私は色々と気になる。だが、自分に合うポールを見つけることは簡単だ。手当たり次第にポールを手に入れて、実際に使って心地が良いポールを使うだけ。ポール沼なんて埋め尽くせばいい。

そして、ひたすら前に向かって進んでいると、途中から余計な不満や悩みが薄れ、何も考えていないような精神状態になる。この状態は、禅でもマインドフルネスでも同じなのだろう。

嫌なことも辛いことも頭に浮かばない。かといって幸せなイメージも浮かばない。けれど、とても気分が楽だ。

途中から頭の中を黒く覆い漂っていた負の思考が消え去り、かといって澄み渡った青空のように爽やかな陽の思考が訪れるわけでもなく、無色透明で何もないような感覚が広がる。

自分の身体は間違いなく前に向かって進んでいるのだが、自分が周囲に溶けて形を失うような面白い感覚。「これ即ち無自性なり」という表現が当てはまる。

そして、ウォーキングを終えると自分の存在がやけに小さく感じる。このような自分を取り巻く個別の世界も小さく、抱えている悩みなんてさらに小さなものだと開き直るような気持ちになる。全身に心地良い疲労感をまとい、頭と身体が上手く整ってきたことを実感する。

昔も今も、人々は不満や怒り、恐れ、こだわり、執着、嫉妬といった様々な負の思考を抱えて生きてきた。どうして自分が苦しむのかというと、自分がそれらを頭の中で感じ考えているからだ。とはいえ、負の思考を消し去って、もしくはどこかに閉じ込めて、何も考えないことは難しい。

時に人は心を病んだり、酒や薬に浸ったり、SNSで罵詈雑言を吐き散らしたり、他の快楽を求めて突っ走ったりもする。自分自身の精神のコントロールは非常に難しい。

古くから続く禅、および現代になってカスタマイズされ日本に逆輸入されたマインドフルネスといった活動は負の思考を減らす上での方法論だと解釈すると、なるほど当を得ている。方法論なんてものは各人がより適したスタイルを選べばよいわけで、そのスタイルを探すことも楽しみのひとつだろう。

ネットや娯楽が充実している世の中では、頭の中が情報で飽和しているにも関わらず、さらに情報を詰め込むというパターンがよくある。悩み事や疑問があるとすぐにネットで検索し、ストレスがかかると刺激がある娯楽にのめり込んだりもする。精神が休まる時間が足りない。

全ての事物に本質なんてものは存在せず、絶えず流動的に生まれ消えるものであって、自分自身でさえ相対的な存在だと否定に否定を重ねると、なぜか全ての事物に意味が生まれる。「真空無相」や「真空妙有」の概念は実に興味深い。

とはいえ、高負荷の歩行禅を取り入れたライフスタイルには課題というか、まあそのようなものがあったりもする。

趣味と習慣の間になってしまっているウォーキングを終えて自宅に戻り、シャワーを浴び、肩の筋肉や腹筋が浮き上がってきた上半身を眺め、糖質フリーのビールで喉を潤し、脂質を抑えた食事を摂り、全身の筋肉の場所を感じ取れるくらいの疲労感を楽しみながら横になっていると、すぐに眠気がやってくる。

「それなりに良き休日だった」と満足して布団に入ると、生活録をネットに残すという活動のための隙間がない。真空無相にたどり着くと自分の認識が薄くなっていたりもするわけで、そのような自分がブログを更新することに何の意味があるのかとボンヤリと感じる。

経行や歩行瞑想は能動的な思考を止める活動だったりもするわけで、録のために思考を回すことが面倒になったりもする。そのまま眠りたい。

この生活スタイルの場合、休日の寝る前にブログを書くというパターンは間違いなく破綻する。というか破綻している。家事をこなした後でブログを書き、その後で外に出るとナイトウォーキングばかりになってしまう。早寝早起きで生活を前倒しさせるか。

修行僧の朝が早い理由が何となく分かった気がする。