2023/12/10

ボディビルダーから体重のコントロールを学ぶ

市外の人たちはあまりイメージが湧かないかもしれないが、市域の多くが埋立地である浦安市の海沿いはコンクリートの護岸に囲まれていて、護岸の内側にはウレタン舗装された遊歩道がほぼ切れ目なく続いている。総距離は5kmを超えているので、往復すると10km以上のウォーキングやランニングが可能という計算になる。

スマホのログをチェックすると、4月からこれまでの私は(休日出勤や雨天を除いて)欠かすことなく週末にこのコースに出かけ、ノルディックスキーウォーキングで汗を流していることが分かる。日本の高齢者等が集団で楽しんでいる散歩のようなノルディックウォーキングと比べると、クロスカントリースキーのバウンディングストライドを含むノルディックスキーウォーキングは明らかに負荷が高い。


普段の生活で普通に使っている「習慣」という言葉。今の私にとってノルディックスキーウォーキングは間違いなく習慣ではあるのだけれど、それが大袈裟なのかというとそうでもない。習慣という言葉には主に二つの概念が共在している。

習慣が大袈裟だと表現する人の多くは、反復して固定化させた行動様式において何らかの「目的」を設定し、それらに向かってひたすら取り組むことを習慣だと思い込んでしまっている。目的や目標を達成するために努力や忍耐を続け、苦しみに打ち克つようなイメージを持つから大袈裟だと表現するのだろう。

ランニングの心得がある人がフルマラソンやハーフマラソンで完走、あるいは順位を上げたりタイムを更新したいと考え、それらを達成するためにトレーニングを習慣化させたいと考えたとする。そこには明確な目的が生まれ、目的を達成するための具体的な目標が生まれる。

他方、「生活習慣病」という言葉があるように、ルーティン化された行動様式が必ずしも目的や目標を伴うわけではなく、単に「楽しい」とか「心地良い」という理由で習慣になってしまうことも多い。

毎日の飲酒が習慣になっている人において、その行為に何らかの目的や目標があるとは思えない。「職場の飲み会で酒豪という称号を得る」いったゴールイメージを描き、「毎日、少なくとも3リットルのビールを飲む」といった感じで酒を飲む人は希有だろう。ただ単に酒が旨いとか、飲むと気分が楽になるとか、嫌なことを少しだけ忘れられるとか、そのように単純な理由で酒を飲む。

ランニングの場合には競技性があるが、ウォーキングにおいては必ずしも競技性があるとは言えない。ウォーキングを趣味とする人が競歩のレースに出場するだろうか。海外ではノルディックウォーキングのレースがあったり、日本国内でもたまにそれらしい催しがあったりもする。しかし、そもそもクロスカントリースキーヤーの陸地トレーニングに競技性があるとは思えず、本質的にはひたすら歩く。ノルディックウォーキングで目標タイムを設定している人は散見されるが、何らかの指標を必要とするアクティビティは長続きしないように思える。

2本のポールを手に持って歩いたり跳走することにどうして魅力を感じ、爽快感や多幸感を覚えるのか、半年以上も継続している私にも理由がよく分からない。単なるランニングやウォーキングだったなら、ここまで長続きしていないことだろう。

つまり、私にとってのノルディックスキーウォーキングは、風呂に入ったり酒を飲んだりという日常の習慣に近い存在になっているのだろう。毎日入浴する人にその理由を尋ねて、「生活に伴う老廃物を落として衛生を保つために」という目的を説明することはないだろう。ただ単にすっきりして気持ち良いから風呂に入る。それと同じことだ。

ノルディックスキーウォーキングを行っている最中は、上半身がポールを使った筋力トレーニング、そして、下半身が腰や膝に負荷が少ない有酸素トレーニングという不思議な組み合わせになる。さらにインターバルとしてバウンディングストライドを取り入れると下半身にスクワットのような負荷が加わる。この場合、普通に走った方が楽だ。バウンディングストライドはランニングよりも速度が遅いけれど、心肺だけでなく全身の筋肉が同じペースで悲鳴を上げ始める。筋トレに近いのかもしれないな。

すでに12月に入ったが、2時間にも充たないノルディックスキーウォーキングを終えて自宅に帰ってアンダーレイヤーを絞ると、汗が滴り落ちる。実に充実したワークアウトだ。

さて、初夏や初冬になると、新浦安の三番瀬沿いの遊歩道では不思議な違和感をまとった人たちが雨後の筍のように増える。初夏の場合には部屋着のようなTシャツとハーフパンツ、初冬には黒色や紺色のジャージあるいはウィンドブレーカーを着た中年男性たちが、猛烈な吐息を振りまきながら疾走している光景を見かける。

彼らの後ろ姿はやや太った感じがするけれど、強烈なインパクトを覚えるのは正面や側面だ。胃からヘソの付近がポコリと盛り上がり、胸の肉が跳走のタイミングに合わせて上下にプルンプルンと弾んでいる。夏場はともかく、冬場であっても服の上から贅肉の躍動が分かる。

そして、私は記憶力が良い方だと自負しているのだが、同じ人と何度か三番瀬ですれ違った後、長くて1ヶ月程度、短ければその時だけで二度と姿を見なくなる。

全身に脂肪というウェイトを付けて、ランニングフォームが崩れたまま必死に走るわけだから、膝や足首を痛めるのではないかと心配になったりする。というか、間違いなく壊れる。

本人たちにとっては、ランニングやジョギングを習慣化させたいのだろうけれど、痩せたいという目的、あるいは体重という目標を設定した段階でルーティンを続けるのが難しくなることだろう。楽しいとか心地良いから続けているだけという習慣の方が長続きする。

他方、年中走り込んでいる新浦安のランナーたちは冬場でも有名なマラソンレースで手に入るTシャツで走っていたり、長袖のインナーやランニングタイツといったウェアが着慣れている。身体が絞り込まれており、フォームが美しいのですぐに分かる。彼ら彼女らは、レースでの記録や自己タイムの更新を目標にしていることがあるかもしれないが、そもそも走ることが楽しかったり心地良く感じるから走っているのだろう。

夏や冬においてタヌキの置物のような体型のオッサン、いや中年男性が一過的に増えて海沿いを走り始める理由は分かる。このエリアには大手企業に勤めている人たちが多く、職場では特定健康診査、いわゆるメタボ健診が行われている。

メタボ健診で引っかかると、職場から通知がやってきて、医師から生活習慣をチェックされたり、改善状況を申告する必要があったりもする。職場によってはかなり追い込まれることがあるらしい。

彼らが夏場に部屋着で走り始める理由は分かるのだが、むしろ冬場の方が鬼気迫っているように思える。おそらく、前回のメタボ健診で医師の指摘を受けた後でデブ、いやメタボとして判定され、状態が改善しているかをチェックされるので焦っているはずだ。減量中のボクサーのような気迫を感じる。

夜の三番瀬は薄暗く、その状態で彼らがセール品のような上下揃いの黒色や紺色のジャージやウィンドブレーカーを着て、しかもキャップを被らずに走ってきたりもする。忍者や特殊部隊の人が黒尽くめになる理由が分かる。暗闇では姿がよく見えない。荒い息づかいのオッサンがいきなり目の前に出現するのは恐怖だ。

そもそも初冬でウィンドブレーカーを着て走ると暑くて仕方がないことだろう。案の定、まるで昭和のトレンドかのようにジャケットを肩や腰に巻き、上半身はTシャツだけで胸や腹の肉をプルンプルンさせながら走っていたりもする。

たまに裕福そうな中年男性がフルコーディネートのランナースタイルで走っていたりもする。先ずは形から入ってモチベーションを上げるというパターンだな。気持ちは分かる。しかし、明らかにオーバースペックなウェアやギアを身に着けて胸や腹の肉を震わせて走っている姿が実にシュールだ。

彼らの亜種としては、かつて興味があって始めたけれど、乗らなくてすっかり型落ちしたロードバイクや通勤仕様になったクロスバイクあるいはミニベロで三番瀬の遊歩道を疾走するという中年男性がいたりもする。往復10kmの距離を自転車で走ったところで大した脂肪燃焼効果はないことだろう。そもそも歩行者との間で事故を起こしたら職業人生が詰む。メタボどころの話ではない。

そして、予定調和で雨後の筍のような中年男性たちはジョギングを諦めたりもするわけだ。

では、彼らの姿が無様なのかというと、千葉都民のひとりである私の目にはそう感じない。浦安は東京のすぐ隣ではあるけれど、都内の職場に通うと往復で3時間以上かかるケースが少なくない。

新浦安駅から東京駅まで快速電車で数十分とのたまう政治家や不動産屋、個人投資家がいたりもするが、そもそも新町の住宅街から新浦安駅までアクセスするだけで、そして京葉線から他の路線への乗り換えだけで以下略。

都内の職場で真面目に働いて、千葉都民やディズニー客が押し寄せる京葉線や武蔵野線の通勤でストレスに耐え、カロリーや酒で疲れや苦痛を少しでも緩和させ、平日は運動するような時間も気力も残っていない。そして、疲れ切ったまま週末に入り、家庭の用事を済ませ、家の中で昼寝したり、スマホを眺めて寝転がっていたら月曜日が来るといったルーティンがあってもおかしくない。

家族のため、マイホームのためと千葉都民の通勤地獄を覚悟し、妻が感謝したり労ってくれたのは遠い過去の話になった。今では夫が太って不健康になっても気にせず、それどころか自分自身が太っても気にしない。

とはいえ、中年になってからは心躍る夢や希望は見当たらず。「いいんだよ、もう自分はこの状態で」と諦めてしまったり、「何だかな」とモヤモヤした正体の見えないフラストレーションを抱えたり。

そして、手軽なリフレッシュとしてカロリーや酒というサイクルに入る。今日もラーメンとビールが旨い、唐揚げとハイボールも旨い、寿司と日本酒が旨くてたまらないと。よく分かる。

ところで、唐突ではあるけれど、最近の私はボディビルダーと知り合いになった。彼は現役のボディビルダーなので、往年の映画のヒーローのようにムキムキの体型を有している。なるほど、子供の頃に見たアニメのキン肉マンの現物を間近で見るとこのような感じなのかと驚いた。人体の神秘だ。

ミドルエイジクライシスの真っ只中にある私は、まるで炎天下で冷たい飲料を求めるかのように彼のアドバイスを聞くことがある。生きている世界が全く違う人たちとの交流はとても楽しくて勉強になるのだが、思秋期で悩み苦しんでいる私にとって、ひとつの答えを彼は持っていた。何事も勉強だな。

格闘技やボディコンタクトを伴うスポーツにおいて身体を鍛えている人たちの場合、彼らのトレーニングには明確な目的がある。戦って勝つ身体、当たり負けしない身体、そういった分かりやすい指標があるわけだ。

他方、知人の話を聞く限り、身体を鍛えて誰かと戦ったり、競技でハイスコアを得るという目的はないようだ。もちろん、コンテストで筋肉美を示して入賞するという目的はあるわけだけれど、極めて内向きなモチベーションが感じられる。

何をもって内向きだと私が感じたのか。自分の肉体をストイックに磨き、その達成感を味わっているというか。ナルシシズムとは違う価値観というか。身体を鍛えるのが楽しくて心地良いから鍛えていて、ストイックな精神世界にさえ充実感を覚えているように思える。

思秋期にさしかかった私にとって、形而上学的とも言える疑問がある。「自分とはどこまでが自分なのか」という解があるようでないような、そしてたぶん大昔の人たちも感じていたのだろうなという疑問。自分と同世代の芸能人や有名人がメディアに出ると、「ああ、年をとったなぁ」と思うのだが、自分だって同じように老いている。

本人の感覚としては自分がそこまで老いた気がしない。しかし、鏡を見ると確かに老いている。精神よりも先に身体が老いるので、両者が乖離するような気持ち悪さを感じる。

老いていく身体こそが自分そのものだと真正面から受け止めると、そこには本人にしか分からない奇妙な焦りや悲哀が横たわる。

けれど、ボディビルダーの知人の場合には、マッチョな身体の迫力があり過ぎて、精神と身体が別の存在のように感じる。彼の本体は頭の中だけであり、身体は相棒かのような不思議な感覚。

例えば、筋肉系のコメディアンやアニメの登場人物が自分の筋肉に話しかけたり、名前を付けていたりする。一般人から見ると奇妙だとか気持ち悪いと感じたりもする。このような精神と肉体の切り離しは芸風やフィクションの中だけの話かと思っていたのだが、ボディビルダーの場合には珍しくないようだ。私が悩んでいた老いについての疑問。その答えは、彼らの精神世界にあった。

とどのつまり、自分という存在は脳内の神経細胞に記憶された、あるいはそれらを行き来する情報であり、身体という存在は自分を収めている媒体という解釈になる。

自らの本体が情報だとすれば、容器や記憶媒体に相当する身体の方が先に劣化するのは当然のこと。まさに、我思う故に何とやらだ。

身体の老いと精神の老いを無理に同調させる必要はなく、身体が老いていくのであれば鍛えればいいという発想に至る。

パーソナルトレーナーも務めている彼は、ワークアウトについて知らない私に対しても分かりやすく身体の鍛え方、さらにはダイエットの方法まで無料で教えてくれる。引退した人ではなく現役の人なので、おそらく個人レッスンを頼むと大変な金額になることだろう。

私の知人から教わった話なので経験則を含んでいるはずだが、現役のボディビルダーは「口から入るもの」、つまり食事や飲料に含まれるカロリーや栄養素について非常にシビアだと感じた。

ボディビルダーは鍛えることで身体を大きくする方法を知っているのだから、逆に痩せることで身体を小さくする方法も知っているのではないかと私は思った。ボディビルダーの体脂肪率はとても低いという話を聞いたことがあるが、時には減量する必要もあるはずだ。

私はムキムキのオッサンになるつもりはないが、歳を重ねて太りやすくなった。ピンポイントで体重を減らすことができればいいなと感じたわけだ。

知人の場合にも必要に応じて減量することがある。しかし、ジョギングに取り組むと痩せ過ぎてしまうことがあるので、専らウォーキングで体重をコントロールしているそうだ。すでに脂肪が少ないので、走り込んでしまうと筋肉が減ってしまうという経験則があるらしい。

裏を返すと、新浦安の三番瀬沿いで胸や腹の贅肉を振るわせながら、気管で息をするように全力疾走している中年男性たちのトレーニングは、あながち間違った方向ではないように感じる。

ところが、ボディビルダーの知人は私に対して「膝や足首を壊すので、走らない方がいいです」と念入りにアドバイスしてきた。トレーナーとしての顔も持つ彼は、痩せようとしてジョギングに精を出し、足を故障して走るどころか運動すら止めてしまった人をたくさん見てきたそうだ。

それは運動不足の人たちだけでなく、ランニングが趣味でマラソンレースに出場している人たちにも生じうると。

単に痩せるだけであれば、食生活で糖質や脂質を減らして、パワーウォーキングで有酸素運動を繰り返すだけで十分。目安として息が上がる寸前の状態を続ける、もしくは低強度と高強度を繰り返す。心肺や筋肉への負荷が重要であり、普通の散歩では効果が小さい。

ウォーキングに出かける前に、ブラックコーヒーを数杯飲むとよりダイエットの効果が高まるらしい。本格的にやるのであればサプリメントの錠剤を飲むという方法もあるそうだが、そこまでやらなくても十分だと。

そして、彼の言う通りにブラックコーヒーを飲んだ後で三番瀬で汗を流していると、不思議なことに早いタイミングで体重が落ちてきた。口に入る糖質や脂質を減らしたことの効果もあり、さらにはボディビルダーのストイックな姿勢が私の思考に影響したという可能性もある。運動したところで、飲んで食べれば太る。

最近では、カロリー摂取の時間を制限する8時間ダイエットという方法が流行っているようだが、それによって痩せたところで筋力や心肺機能は高まらないわけで、単に見せかけの取り組みでしかないように私は感じる。カロリー制限という点ではもちろん有効なのだろうけれど。

それにしても、中年男性になると話し相手が少なくなるので、気楽に話し合せる相手がいると楽しいものだ。ひとりで孤独にダイエットに励むというのは、余程に気力がないと続かない。それだけの気力がある人ならばメタボになっていないことだろう。

小中学生に家庭教師が付くと学力が上がるように、中年男性の体型維持においてはプロのトレーナーが付くと効果があるのだろう。

そういえば、芸能人が「何キロ痩せました!」と宣伝していたりもする。なるほど、彼らの減量が成功している背景には、プロのトレーナーの指導があるというわけか。

メタボ健診の後で産業医から「食生活を改めなさい」とか「運動しなさい」と指摘されたところでモチベーションが湧くはずがない。

他方、自らがストイックに身体を鍛えているプロのトレーナーが笑顔で励ましてくれたり、相談に乗ってくれると、モチベーションが確実に維持される。

先日の検診では、私の心肺機能が30代の頃よりも良くなっていた。浦安住まいのストレスによる暴飲暴食によって肝機能は大した改善が認められず、糖代謝は負荷がかかっていた。

すでに肋骨の下の贅肉がなくなり、これから鍛えるとシックスパックになりそうな私の腹部を診察の医師がしげしげと眺めつつ、「おかしいな...太っていないのに、どうして肝臓の周りに脂肪が以下略」と不思議に感じていた。これでは健康なのか不健康なのか分からない。

ボディビルダーの知人から学んで気づく前に、菓子パンやスナック菓子を食べまくり、酒を飲みまくっていたのだから仕方がない。今後は善処しよう。

むしろ、浦安から引っ越して通勤時間が短くなったら、本格的にジムに通って筋肉マッチョになってみたい気がしなくもない。普通の人の数倍の厚みがありそうなボディビルダーの肉体を目の前で見ると、「この半分くらいの筋肉があれば...」という気になる。

なるほど、オッサンになって急に身体を鍛え始めてマッチョになってしまう人が散見されるのは、そのような流れや勢いによるものなのか。確かに魅力的だと感じてしまう自分がいる。