2023/11/26

家庭内の子育てマウンティングの破綻

中学受験を希望しているというか、まあとにかく妻の方針に従って受験塾に通っている下の子供。一見すると学習机の前に座って真面目に勉強している様子だが、私が背後を通りがかると下の子供がビクッと動いて何かを隠すような動きを繰り返している。おそらく、マンガ本や雑誌を机の引き出しに広げて、親がやってきたら引き出しを閉じているのだろう。

机の引き出しに何かを隠す。誰が教えたわけでもなく、子供が自然と身につけるサボり方というか。昭和の中高生の男子の場合には、そこに成人誌が広げられていたりもしたな。しかし、合計すると数百万円もかかる高い金を払って子供を塾に通わせて、偏差値が50に達していない現状で子供がサボり、妻がキレる。煩いので私が子供の机の引き出しを開けると、そこには信じられない光景が広がっており、今後の私自身の生き方までを考えなくてはならない程に思考が高回転した。


学習机の天板の真下にある広くて薄い引き出しには、20冊近い数の漫画の単行本がびっしりと並べられ、しかも綺麗に整頓されている。

他方、学習机の周りの床には大量の参考書やテキストなどが散乱したまま放置され、何も手を付けられることなく真っ白なまま、あるいは埃を被ったまま積み重なっている。受験塾の出版物の値段は安くない。まさに金をドブに捨てる所業だ。

まさかと思って学習机のサイドワゴンの大きな引き出しを開けてみると、そこにあるはずの参考書やテキスト、ノートといった類いは見当たらず、遊び道具ばかりが整然と詰め込まれていた。

妻はこの惨状に気付くことなく、試験結果の偏差値だけを見て不満を爆発させているということか。何だか嫌な予感がする。

子供の学習のために必要だと妻が主張して、私は子供専用のiPadを新規購入した。だが、その端末がオンラインの学習に活用されているとは思えない。なぜなら、ケーブルと充電器を残してiPadが行方不明になっているからだ。

ADHD傾向がある妻が間違ってiPadをゴミに出したか。そこまで酷くはない。だとすれば、家の境界を無視して我が家に干渉してくる実家暮らしの義妹に妻がiPadを貸し出したか。Wi-Fiの反応がないので、家の外にiPadが持ち出されているか、電源が切られている。

あるいは、受験塾のサイトにアクセスすると、下の子供の成績や学習状況がグラフとして表示されてしまうため、それらを私に見せたくないがために妻はiPadを隠したということか。

常識的に考えて、iPadの所有者である私に一言あって然るべきだが、妻や義実家の隠蔽体質は凄まじい。壺のような共依存を形成し、敵として認識した人には情報を伝えない。

この状況を目にした私の思考は一瞬で停止し、しばらくして無数に存在する論点を察して絶望的になった。目に見える結果としては子供が勉強せずに遊んでいるというよくある話だが、この家庭の病理を残酷なまでに映している。

私は下の子供の学習机から引き出しを撤去し、サイドワゴンのドアも取り去った。漫画本ばかりを読んで勉強しなかったことではなく、父親を欺こうとしたことを残念に感じた。

学習と休憩のバランスは子供だけでコントロールすることが困難だ。親がペースを管理しないと子供は誘惑に負ける。大人だって同じだろう。コロナ禍で多くの人たちがリモートワーク中にサボってしまい、大手IT企業でさえ社員に出勤を要求している。

子供たちを私立中学に入学させたいと主張しているのは妻だが、妻本人が子供たちの管理を省略し、野放図になってしまっている。妻が意図的にサボっているというよりも、本人のHPが枯渇して放置してしまっている。

昨年だったろうか、上の子供が難関私立中学に入学したタイミングで妻が転職した。驚くべきことに夫である私に対して妻は何ら相談せずに転職先を決め、事後報告で私にその旨を伝えてきた。

ヘッドハントではなく、人脈による紹介でもなく、ありふれた大手の転職サービスに自分で登録して斡旋してもらったという話を聞いて、私は愕然とした。自分に人脈がないことをバラしてしまい、転職サービスに足元を見られている。

人材としての自分をヤフオクやメルカリに出品して安売りしているようなものだ。予想通り、平社員から平社員への横滑り。転職する時にはひとつ上のポジションを狙わないと待遇や環境が好転しない。これでは人手不足の埋め合わせだ。

そもそもコロナ禍において社会が大きく変化している時には動かない方が安全だ。現状が継続するかどうかも分からない。元職場の経営が傾いているわけでもないのに、なぜこのタイミングで動いたのか。義実家には相談したのだろうけれど、夫に一言も相談せず。

私にヘッドハントの声掛けがあると、妻だけでなく子供たちにも相談している。家族の生活に関わることなので当然だ。

私の懸念は的中し、妻が転職した中小企業の業界はコロナ後の余波を受けて事業が大きく圧迫されている。このまま会社の経営が傾いて売却やリストラが始まるのか、社員もろとも消耗しながら持ち直して生き残りをかけるのか。

この展開を転職前の妻が察していたとは思えず、ほぼ毎日の残業が続いている。通勤の時間も長くなり、当然だが妻の仕事も大変になり、今まで以上に家庭で苛つくようになった。

妻が子供たちに対してアホとかバカといった言葉を吐くことは我が家の日常。冗談で家族を笑わせたり、励まして元気づけることなんて全くない。いつも家庭内でマウントを取って上から目線の辛辣な言葉を連射する。

夫に対するステルス転職によって妻が元気になったのは採用から数ヶ月間だけだった。残業に見合う収入があるとも思えず、妻の帰宅は遅くなり、家庭に対する負荷も大きくなった。夕食は夜10時。途中で腹が減って間食するので、妻も子供たちも太ってきた。

夜遅くに帰宅する妻が子供たちの学習までを見る余裕があるはずもなく、私に至っては相変わらずの激務と長時間通勤が積み重なる。浦安住まいのストレスでメンタルダウンを起こしかけ、ウォーキングで緩和して耐えるという無様な状態。

週末になると、妻は自室で寝転がっていて、私は溜まりに溜まった洗濯物を片付け、水回りを掃除し、辛うじて心身を維持するためのウォーキングに出かける程度。録を書いている余裕もない。

そのような毎日なので、子供たちを親が見守ることができず、下の子供は学習をサボって遊んでいる。上の子供についてはスマホ端末で遊んでいる。

妻は子供たちの躾や教育について私が口を出すことを嫌い、その割に共依存している義父母や義妹の意見については耳を傾ける。住居や生活費を用意しているのは私だが、家庭内での子育てについてマウントを取ろうとする。

結果、子供たちは家事を手伝うどころか自分の部屋を片付けることも、さらには玄関先で靴を揃えることさえできない。日常生活において最低限のスキルさえ身に付けず、何が偏差値だと思う。けれど、妻の実家を初めて訪問した時、玄関先が通夜や葬式の時のように靴で埋め尽くされ、洗面台の上は整髪料や洗顔剤が摩天楼のように立ち並んでいて驚いた。その延長線なのだろう。

現時点で妻のマウンティングは破綻してしまっている。この家庭は糸が切れた凧のように迷走し、無計画に突き進み、失敗の連続になる。私が望む家庭の姿とは大きく解離してしまった。もはや修正すら不可能な状況なのだろう。

とりわけ、義実家の影響は想像以上だった。この人たちは私の家庭を乗っ取るというよりも、自分たちの家庭の一部だと見なしているのだろう。この家は義実家の別館ではないし、妻の両親や妹は別の家庭の人間だ。

世帯主の了解を得ずに妻の家族が家庭に介入することを私は良しとしない。子離れ親離れができない人たちの違和感は、時に発狂しそうなくらいのストレスを蓄積させる。バーンアウトなんて発狂の一種だろう。うつ病に移行していたら死んでいたかもしれない。

妻が家庭内で暴れた時点で別居もしくは離婚すべきだったか。同じ状況に陥った男性がいたなら、おそらく半数は耐えきれないことだろう。私も我慢の閾値を振り切って適応障害を発症している。

20代や30代といった若き日の私には、家庭を築いた時の漠然としたイメージがあった。イメージというか目標というか。夢や理想といった大袈裟なことではないけれど、自身が生きる上でのモチベーションとして大切にしていた目標があった。

実家が大きな借金を背負っている状況で少年時代や青年時代を過ごした私は、世の中が全く公平ではないという当たり前のことを感じながら生きた。

実父の借金の多くは、事業を立ち上げた先代の祖父の無計画な経営によるものだった。戦後の高度成長期での成功体験を引き摺ったままの祖父は、自身が時代の潮流の上で浮いている一片の葉っぱのような存在だと顧みることもなく、子や孫の将来を全く考えていなかった。

子は親を選ぶことができないわけで、資産がある家に生まれるとそれだけでアドバンテージがある。他方、祖父母や父母の代で経済的に苦しんでいると、子供の代では文字通りにゼロやマイナスからのスタートになる。地方の田舎から身の回りの品だけをバッグに詰めて上京し、そこからアッパーミドルの家庭を築くことは容易ではない。

私の父方の家系は経済的に豊かな状態になったことが(私が知る限り)なく、先祖を遡っても質素な生活を続けていた。国公立大学どころか私立大学を卒業した親戚もほとんどいなかった。

実父の同業者の中には、負債を処理することができずに不渡りを起こし、首を吊って責任を取る父親が何人もいた。彼らの子供たちは私と同世代だったので、いつか自分の世帯も同じ状況になるのではないかと怯え、眠れない日もあった。父親の存在は大切だと思った。

「貧困のループ」という言葉がある。そのループを断ち切ることは難しいけれど、不可能ではない。日本だけでなく欧米やアジア圏でも同じ、もしくはさらに苛烈だが、学歴と家庭の経済状況との間で分かりやすい相関がある。

いくら貧しい家庭であっても努力して学歴を積み重ね、そこから職歴を積み重ねることで貧困のループから抜け出し、経済的に安定した家庭を築き、我が子に教育を授ける。その子供はより楽なベースポイントから人生を始めることができる。

結婚する前、そして子育てが始まった時。私は自分が味わったような経済的な困窮を我が子に経験させたくないと思った。子供が立派な学歴を積み重ねて家庭を築けば、孫や曾孫の代まで方向が変わると信じた。

だが、有名進学校に入学しても競争心が芽生えず勉強以外のことで盛り上がり、成績が中間層を泳いでいる上の子供。偏差値50に達することなく低層を飛行している下の子供。自分の子供には経済的な困窮を経験させていないが、孫の代までアドバンテージが続くとは思えない。

子供たちが成人して家庭を築き子育てに入っても、我が子に自分が進んだルートを選択させることが困難になることだろう。無理して中学受験なんて目指そうとすると世帯収入が足りなくて困窮することになる。

あまつさえ、これからの日本の社会はさらに傾き、私が経験したバブル後の失われた30年よりもさらに厳しい状況になる。税負担が生活をさらに圧迫し、社会保障も十分ではない冬の時代がやってくる。

私は子供たちに教育を授けることで孫や子孫の負のループを断ち切ろうとした。しかし、妻や義実家が私の家庭でマウントを取り、子供たちの教育に口を出させないようにした。

私は子供たちや孫たち、その次の世代の子孫たちに申し訳なく感じる。生きる上での大きな目標が潰えた。

どの段階での自分の判断が間違っていたのか、今はよく分からない。婚期については実の両親から横槍が入ったこともあったし、様々な都合もあった。それでも本人なりに考えて先に進んだのだが、このような結果になった。とりわけ、義実家の過干渉と妻との共依存は予想外だった。結婚前に慎重になって引き返すべきだったか。これでは双方が不幸だ。

妻を含めた義実家が理想としていたのは、文句を言わず従順で、気楽に婿入りするような男だったのだろう。そのように都合が良い相手が見つかるはずもなく、独身のまま子供部屋おばさんになっていたはずだ。

この人たちは私が銀杏の紋章を持っていることを認めようとしない。高い山に登ったからこそ見える景色があり、経験があり、人脈がある。それらを無視して登ったこともない山を目指しても限界がある。途中で挫折するか、下手をすれば道に迷って遭難する。

また、この人たちは経済力がある配偶者と結婚した幸運を理解していない。それが当然かのように思い込んでいる。

子供たちの地頭が悪いのかというとそうでもなく、しかし家庭の教育環境が良いとは思えない。とりわけ、私と妻との間での教育方針の違いの影響は大きい。子供の教育方針の違いによる離婚は珍しくもない話で、家庭でのストレスは職場に行った後でも頭に残る。

「子供たちを私立の中高一貫校に入学させたい」と主張しているのは妻であり、「それは子供にもよる」というのが私の主張だ。我が家の場合には、浦安市内の妻の実家、とりわけ義母や義父が余計な干渉を妻に及ぼし、実家と共依存している妻が義父母の意見を聞いてしまったりもする。

私としては、義実家に対して「口を出すなら、金も出せ」というスタンスなのだが、金に執着する義実家は子育てに対して経済的な支援を用意しない割にとかく我が家の方針に口を出す。あまりに鬱陶しいので、「これ以上、干渉してくるなら別居もしくは離婚する」と妻に伝えた。

配偶者の実家との折り合いが悪くて離婚するなんてよくある話だ。義父は婿養子だが、私は妻の実家に婿入りしたわけではない。義父母に加えて、未だに義実家から出ようとせずに上から目線で物を言う義妹に対しても何様だと感じる。色々とネットで調べてみると、実家依存の小姑が原因で離婚するケースは珍しくないそうだ。確かに強烈なストレスが襲ってくる。

もとい、私と妻の教育方針における大きな違いは、ゴールイメージがどこにあるのかという点にある。妻の場合、子供の教育に限らず思考が近視眼的なので、遠くを見渡すことができない。

妻の考えを具体的に解釈すると、目の前に子供の中学受験があったとして、その目標にこだわり、次の目標のイメージがぼやけている。中高一貫の学校に子供が通い、その後でどのような大学を受験するのかなんて深く考えていないし、職業人としてどのように生きるのかについてよく分かっていない。

子供の人生の軌跡を考えた時、現在から未来に進むにつれてイメージがぼやけてしまい、まあとにかく頑張れば何とかなるという発想なのだろう。

目の前の中学受験のハードルについては自己の経験論からよく分かるが、妻の場合には大学受験というハードルで失敗し、その後の職業人生にも制約が生じ、職業観についての見識が狭い。義実家と同じで自己肯定が強くて考え方が偏っていたりもする。

他方、私の場合には中学受験というハードルをあまり重視していない。やる気がある子供が挑戦する分には応援したいところだが、やる気がない子供にまで重課金で対応する必要はない。

私は妻の場合と真逆の思考で子供の人生の軌跡を想像するからなのだろう。最初に考えるのは、受験塾での偏差値だとか、中学の難易度だとか、そのような要素ではない。

最初に職業人としての適性を考え、そのトラックに進むためには何が必要なのかを考える。思考の方向性が正反対なんだ。なので、教育方針を巡って夫婦で対立する。

学歴にも様々な価値があるわけだが、私は「生きる力」に繋がる要素にこだわる。具体的には、大学名という「レッテル」および免許や資格という「肩書き」だ。

出身大学のレッテルはくだらないことのように見えて、この社会では重要視される。企業で求人を出したとして、名古屋大学と明治大学と明海大学の学生がエントリーしてきたとする。略称の読み方としては同じメイダイではあるけれど、人事担当者はどの学生に注目するか。大学で何を学んだとか、本人にどのようなポテンシャルがあるとか、そのようなことよりも大人になるかならないかという段階での選抜で評価するわけだ。

それらは実にくだらない価値基準であり、職業人としての実際の能力と何の関係があるのだと思いはするが、就職試験で採用されないと職業人生が始まらない。

他方、免許や資格といった肩書きは必ずしも出身大学のレッテルの影響を受けなかったりもするし、大学を卒業する必要がない場合もある。妻や義実家の教育方針に従って先に進むと、おそらく我が子たちはマーチに入るかどうかというラインだろう。

だが、それだけの学力があったとして、職業人として無資格のまま社会に出るくらいならば、学校のランクを落としてでも免許や資格を得た方がいい。学校を卒業した後でも得られる民間資格ではなく、学校を卒業したからこそ得られる免許や資格は、その後の職業人生においても鎧となって自分を守ってくれる。

日本の場合には学位については微妙あるいは無意味だったりもするが、欧米では博士号の取得者が優遇される。名前の後に「Ph.D.」が付くかどうかで収入が大きく変わる。外国の大学のレッテルなんてよく分からないけれど、Ph.D.という学位は知性や教養の指標として世界に通用する。

最近では日本の若者たちが大学院の博士課程に進まず、多くの研究室が定員割れを起こしている。欧米では大学院生に給料や生活費が用意されたりもするが、日本の場合にはほとんどの大学院生が無給の労働力として扱われている。

しかも、博士号があっても日本では就職が楽にならず、アカデミックポジションのほとんどは不安定な任期付雇用。博士ですとアピールしたところで、企業からは使い勝手が悪いとか、学歴ロンダリングだとか、そのような揶揄を受けたりもする。日本の若者たちが博士課程に進まないのは当然だ。

そして、定員割れを起こした日本の大学院の博士課程には、中国人や他のアジア系の若者たちが数多く在籍している。なぜか日本政府から潤沢な奨学金をもらい、欧米と比べて容易に博士号を取得し、その後で日本を離れるのでPh.D.さえゲットできればそれでいいという発想なのだろう。

このまま日本が壊れて外資系企業に飲み込まれたならば、あるいは若者たちが日本から海外に出て働くようになれば、学位取得者が優先されて無印がリストラされる事態も容易く想像しうる。うちの子供たちには学位について期待していない。現在の学習姿勢を見る限り、たぶん無理な話だ。

現実的な話に戻ると、このまま下の子供の成績が低空飛行を続けた場合、中学受験で全落ちするのかというとそうでもないことだろう。都内には受験の偏差値が底なし、大学ならばFランクに相当する私立中学がたくさんある。

しかし、偏差値は低くても授業料は安くない。子供たちを私立の中高一貫校に通わせたいという妻の主張を無視するつもりはないけれど、職業人生を考えた場合にその選択は正しいのかどうか。

難関中学に合格し、難関大学に合格し、さらには就職での選抜を経て知的労働に携わることができるエリートの枠は限られている。

公立中学に通うと色々な子供たちが集まり、教師の質もアレで、あまり環境が良くないと妻は主張する。けれど、実際に職業人になると、職場に色々な人たちが集まり、上司や同僚の質もアレで、必ずしも環境が良くない場所で働くことになることだろう。

学歴という点で優位に立ち、それなりに選抜された中で働く場合には少しは楽かも知れないが、エリート層に入ることができない場合には、凄まじい社会の多様性の中で子供たちが生きることになるわけだ。

高い金をかけて私立の中高一貫校に子供を通わせ、大学でぬるま湯に浸かり、その後で厳しい職業人生に入るよりも、最初から公立中学校で社会の厳しさを学んだ方が役に立つ。

さて、下の子供にどうなっているのかと話を聞いてみると、すっかり心が折れてしまっていたので叱る気力さえ失われた。

下の子供が休憩しようとして漫画を読んでいると妻から勉強しろと怒鳴られ、成績が少し上がっても当然だと怒鳴られ、成績が下がると怒鳴られ、全く褒めてくれないと。

まるでブラック企業のパワハラ上司だ。部下に対してどこで休んでいいのかも示さず、ずっと働け、成果が出なければお前の責任だと詰め、努力を認めずに結果だけで評価して相手の心情を察することがない。論理的に要求してくるようで、実際には感情論や根性論に基づいてプレッシャーをかけてくる。

共働きの子育てを始めた時、妻は家庭内で暴れ、私に対してもっと激しい攻撃を加えてきた。今でも忘れない。大声で怒鳴り、物を投げつけ、ドアを叩きつけた。私はバーンアウトによって感情を消失するまで追い込まれた。

下の子供が成人した時点で卒婚することを私は心に決めているのだが、褒めない子育てが成功するとは思えないし、一体、義母はどのような家庭教育を妻に行ったのだろうかと不思議に感じる。あの義母、本当に以下略。

まあそれでも、下の子供が職業人生を歩む時、ブラック企業のパワハラ上司に遭遇することが想定しうるわけで、心が折れても砕けない程度に我慢しろと下の子供に伝えた。逃げたくなったら父親を頼れと。

夫として父親として、私は妻の教育方針に問題があると何度も諌言した。上の子供は妻のこだわりを最も強く受けた。夫婦間で数え切れないくらいの激論を繰り広げ、下の子供が成人した時点で別居あるいは離婚するという結論に至った。

義母と妻が共依存しているように、我が家では妻と上の子供が共依存している。小学生時代の上の子供に対して妻が叱責を繰り返し、自我を否定し続け、上の子供は自分で考える力が失われてしまった。同時に、妻は上の子供に対して父親を敬わない思想を刷り込んだ。義実家と同じ女尊男卑の考え方だ。

上の子供は家事の手伝いどころか、自分の部屋を片付けることさえできない。父親が何かを伝えても無視して危うい方向に思考が進んだり、何かあるとすぐに妻に意見を求める。この先、どのような人生を送るのか、父親として私は想像が付かない。結婚後に義母までセットで付いてきたら、多くの配偶者は離婚を考える。そもそも自分の部屋さえ片付けられない人が家庭を持つことが以下略。

下の子供においては、妻の考えは必ずしも正しくないと感じ、自我を矯正される前に自分を守ろうとしているのだろう。

下の子供の性質に加えて、この家庭状況では難関中学というルートは難しい。妻は下の子供を叱責しているが、これは下の子供の責任ではなくて親の責任だ。自分の否を認めろと私は思う。

私は妻に対して下の子供の転塾、あるいは公立中学へのルート変更を主張している。なぜにそこまで中学受験にこだわるのかと。

妻の背後で義実家がとやかく言っているはずだが、金を出さずに口を出す外野なんて無視すればいい。そろそろ義実家とバトルを繰り広げようと私は本気で考えていたりもする。配偶者の親による干渉によって離婚する典型的なパターンではないか。

とはいえ、困ったな。

下の子供が浦安市外の私立中学に合格した時点で、街中を歩くだけでも吐き気がする嫌な街から脱出し、義実家の自宅への立ち入りを完全に禁止し、私が自転車で職場に通うというライフプランが潰える展開になった。

やっと地獄から抜け出せると思ったのに。その時をイメージし、文字通りに歯を食いしばって耐えてきたのに。

偏差値が底なしの私立中学に下の子供が通って金を使うよりも、公立中学に通って金を節約して、大学や専門学校において免許や資格を取得する方向に金を使うという方向に進む場合、このまま浦安市内に住み続けることになる。

誰も知り合いがいない市外の公立中学校に下の子供を放り込むと、さすがに人間関係が辛いことだろう。

かといって、あと1~2年だと思っていた浦安住まいの地獄が3年以上も延びた時、私の精神は耐えられるのだろうか。現時点で浦安住まいに対して適応障害を生じ、目眩や頭痛、動悸、吐き気に襲われている。

計画性がなくて行き当たりばったりの妻と連れ添うのは厳しい。もはや本人のビジョンも崩れてしまい、これからの家庭の方向性なんて妻は考えていないことだろう。

妻が義実家と共依存していなければ、これからの家庭について私が舵を取るという選択肢もあるのだが、ほとんど不可能だろうな。あの義実家が相変わらず金を出さずに煩く干渉してくることだろう。

だとすれば、このまま混乱した状態で先に進み、まるでサイコロを回すかのように未来が決まるということか。

明るい要素がまるで見当たらない。まあとにかく、自分が描いていた家庭の姿を実現することは不可能だということだ。それは受け入れよう。仕方がない。