2023/10/16

ひとり暮らしを始めた町を再び訪れて

たまにやってくる休日の仕事を終え、普段は全く乗らない電車に乗った。途中で路線を何度か乗り換えて、数十年前の記憶をたどりながら窓から見える景色を眺めた。車内のほとんどの乗客は不自然な角度で首を曲げてスマホを見つめている。ネットさえ普及していなかった当時であれば、まるでSF映画のような状況だ。

お世辞にも立派とは言えない駅で下車し、未だにエスカレーターが設置されていないのかと呆れながら階段を上り、地味すぎる小さな構内を歩き、階段を下って駅の外に出た。眼前には若き日に見た街並みが代わり映えしない状態のまま残っていた。30年近い時間が流れたとは思えないほどに変わっていない。


今はどうなのか分からないが、大学進学のために地方の田舎から都市部に出てくる青年の格好といえば、見栄えが良くない派手な柄のシャツあるいは地味すぎるトレーナー、不自然な丈あるいは妙なシルエットのジーパン、そして安いスニーカーあるいは革靴だったと思う。縞模様の靴下を履いている人もいたな。

4月の入学に合わせて3月中に下宿を探すわけで、まだ肌寒い日の上着は受験で着ていたダッフルコート。少し暖かくなるとジージャン。今風の洒落たデニムジャケットではなくて、無地の生地を縫い合わせただけの上着。

田舎には洒落た店なんてものはなく、高校生の服にかける十分な金もない。親と一緒に車に乗って少しだけ栄えた町に行き、現在のイオンやイトーヨーカドーに相当する店舗で首から足先までの全ての用品を買っていた。

その状態のまま都市部の大学を受験して、合格したらボストンバッグに荷物を詰め込んで在来線に乗り、新幹線あるいは航空機に乗り換え、住んだこともない街でひとり暮らしをするわけだ。地方の訛りのある言葉を直す余裕もなく。

約30年前に大学に入学した私は、典型的なまでに冴えない格好で田舎から上京し、冴えない街でアパートの一室を借りて住んだ。街と呼ぶほど立派な場所ではなくて、都市部の吹き溜まりのような町だった。あの汚くて不便で住民のモラルが低い町には二度と住みたくない。台東区や新宿区のように突き抜けた危うい刺激もなく、全てが中途半端で至らない町だった。

入居した木造アパートの賃料は3万円台の後半だったろうか。今から考えるとボラれていることに気付く。同期の中には華やかな街の洒落たマンションで生活していた人もいたけれど、私の実家は大きな借金を抱えていたので経済的に余裕がなかった。

「失われた30年」という言葉があるが、日本の景気は昔からあまり変わっていない。最近になって物価が急騰しているが、通貨の価値としては同じ感じがする。経済バブルが弾けて多くの人たちの生活が傾いた頃の絶望感と比べれば、今の私の個人的な状況は恵まれている。

その状況になるまで努力したというか、運が良かったというか。まさかオッサンになってからの日本の社会がここまで低迷し凋落するなんて、青年時代の私は想像していなかった。

大学の生協で斡旋されていた下宿のチラシを適当に眺めて、とにかく賃料で選んだ安アパートの質はあまりに厳しかった。ひとり暮らしを始める地方出身者は何も知らず、地元の不動産屋にとって好都合なカモでしかない。私もカモになり、相場よりも高い金を払うことになった。以来、私は不動産屋を絶対に信用しなくなった。

築数十年の古びた二階建てアパートの一階部分の部屋。角部屋ではあったのだが、アパート自体が斜面の一部を平らに削った場所に建てられていたので、メインの窓の外にはコンクリートの壁があった。狭い台所に立って窓から外を見ると、坂道の地面が異様に近かった。半地下という表現の方が適切だった。

梅雨時期にはカビが生えてくる畳の床、辛うじて水洗の和式トイレ、朽ちた窓の外には古民家のようなトタンの雨戸が設置されていた。大雨の日や風が強い日には雨戸を閉じないと窓から雨風が入ってきた。

身動きできないくらいに狭い浴槽の脇にはガス式の給湯器が備えられていて、蛇口をひねっても水しか出ない。浴槽に水を貯めて給湯器のスイッチを回し、カチカチカチッボワッという感じで湯を沸かした。

実家からダンボール箱に入って送られてきたドンブリに安い炊飯器で炊いた不味い米を入れ、レトルト食品を乗せただけの夕食。金がなくなるとレトルトも買えず、卵をかけて食べた。

文字通りに壊れかけたラジオからは、まだ若かった頃の斉藤和義さんの歌声が流れた。彼の曲が当時の自分の気持ちを表現してくれて安心した。

アパートの隣の部屋には中年の夫婦が住んでいて、なぜか昼も夜も部屋にいた。ペットの飼育は禁止されていたはずなのだが、その部屋の中年男性が野良猫を餌付けしていたので、私が住んでいる部屋まで猫がやってきた。窓を開けていると蚊が入る家はよくあるが、親子連れの野良猫たちが入る家は少ない。

アパートの二階部分にどのような住人がいたのかは覚えていない。真上の部屋には何かしらの理由があって誰も住んでいなかった。おそらく事故物件なのだろう。老人が孤独死したとか、誰かが首を吊ったとか。この環境ならば何らおかしくない。

しかし、二階の角部屋には三十路の格好をした四十路くらいの女性がひとりで住んでいて、昼過ぎに派手な格好で外出し、深夜や明け方に帰ってきた。すれ違っても目を伏せて挨拶さえしない人だった。

その女性が安アパートによくある室外の鉄製の階段をハイヒールを履いて上っていくので、カンッカンッカンという音で私が目を覚ますことがよくあった。しかし、足音はいつも1人分。男性どころか誰もその女性に連れ添っていないことに哀愁を覚えた。

とどのつまり、色々と訳ありな人たちが住んでいるアパートだったということだ。

そのボロアパートの隣には大家が住んでいる一軒家があり、ここまでアパートが古びているにも関わらず、大家の家は立派な佇まいだった。借主のQOLを向上させようという気持ちは微塵も感じられず、社会的な格差を味わった。世の中は不公平だと感じ、この都会で生き残るためには何とかして経済的に這い上がらねばと思った。

私の両親は大学に通ったことがなく、学部を卒業した後で田舎に戻るというプランで私の進路を決めてしまった。割と楽に現役合格して入学したものの、これから先をどのように生きればいいのかと悩んだ。

今回、若き日にひとり暮らしを始めた町を訪れた理由は何かというと、大した意味はない。死ぬまでに一度くらいは訪れてみたいと思っていたが、あまり素敵な記憶もないので保留していた。すると、30年近い時間が流れていた。

あわよくば若き日の追憶にひたり、思秋期の憂鬱が少しでも軽くなればと思ったりもした。

駅前には学生時代にも営業していたファーストフード店があった。ひとり暮らし初日にパック入りのローストビーフの切れ端を買ったスーパーは閉店していた。何度も通った裏道を抜け、古びた路地を歩き、所々にゴミが散乱している風景を一瞥し、相変わらずだなと思いながら歩いた。

初めて入居したボロアパートは、利便性とは無縁の登り坂の途中にあった。普段のウォーキングでは専用のシューズを履いているので徒歩が楽だが、今回は革靴を履いて歩いているので足が痛くなってきた。

現在の新浦安での生活はストレスフルだが、利便性という点に限ると首都圏随一だ。駅の目の前に大きなショッピングモールがあり、住居の近くにも大型スーパーが何軒もある。

他方、若き日に住んだ町には小さなスーパーが数軒あるだけ。低所得層が通う安い弁当屋や定食屋が点在していたことは幸いだったな。

かつて住んだアパートを目指して歩いていたら、夢多き日々の懐かしい記憶が戻ってリフレッシュし、さあ明日から頑張ろうという気持ちになった...

...というベタな展開が待っているはずもない。むしろ、田舎から都市部に出てきた時の苦労だとか、将来への不安だとか、封印していたはずの嫌な記憶がフラッシュバックのように脳裏を駆け巡り、無様な気持ちがさらに無様になった。

坂道を登り、何となくこの辺だなという小道に入り、ようやく記憶の片隅に残っている場所にたどり着いた。ひとり暮らしを始めたボロアパートは取り壊されて、瀟洒な一戸建てになっていた。その家の表札は大家の名前と異なり、大家の住宅は古びた状態で残っていた。

なるほど、あの大家はボロアパートを処分して土地を売ったらしい。数十年前に大家の夫妻は今の私と同世代だったわけで、今は後期高齢者だ。このままリフォームせずに朽ちるまで住み続けるということか。もしくは夫婦のどちらかがすでに他界しているかもしれないな。

私の記憶の中に残っているボロアパートの姿を思い出して、何だか複雑な気持ちになった。数十年前の段階で朽ちかけていたアパートなので、まあ当然の成り行きなのだが。

その後もアレが大変だったとか、コレが辛かったとか、嫌な記憶ばかりが頭の中に流れた。さらに坂道を登ったところにあった電話ボックスも撤去されていた。高校時代に交際していた郷里の女性に遠距離電話をかけた場所だった。

今ならばスマホを使って無料のメッセージサービスや電話を利用することができる。当時はたくさんの小銭を電話の上に乗せて会話したものだ。手紙も書いた。昔の方が気持ちが伝わった気がする。交際自体は長続きしなかったけれど、若き日の私はこれから素敵な女性と出会って幸せになれると思った。

その後、ボロアパートに住み続けていると部屋に女性を呼ぶことさえ難しいと思った当時の私は、ユニットバスとロフトがあり、それなりに見た目が良くてリーズナブルなアパートを探して移り住んだ。5畳のワンルームと3畳のロフト。私にはそれが精一杯だった。

ウォーキングが趣味になると、どこまでも歩いて行けそうな気持ちになる。せっかくだからと、若き日の煩悩のアパートまで歩いてみることにした。

そのアパートは今でも残っていた。大学に入って知り合った女性と初めて肌を重ねた部屋だったりもするわけだが、その人は筆下ろしから数ヶ月で別の男性に乗り換えて私の前からいなくなった。酒を飲むと正気を失って暴れたり浮気する女性で、最悪の相手だった。

数十年前の若者たちはネットではなくてリアルで欲求を充たそうとしたので、今よりも肉食だったな。現在、その部屋に住んでいる若者は、数十年前の出来事なんて知る由もない。何だか気の毒だな。

男女関係だけでなく、当時の私は生きること自体に迷っていた。このまま生きたところで自分が望む将来にたどり着くはずがないと絶望したり、勝手に自分の人生を決めようとした両親に対して憤りを蓄積させたり。そもそも自分の夢って何だろうかと悩み、このままオッサンになるのは嫌だと思った。

酒浸りになって廃人になる寸前だったりもしたな。強い煙草を吸いまくり、意識を失うまで酒を飲み、ストレスで頭髪が薄くなったこともあった。

ボロボロになっていた頃、高校時代に清い交際を続け、遠距離恋愛が途中でフェードアウトした女性が部屋に泊まりに来たことがあった。勢いで転がり込んできて、勢いで別の男に乗り換えた女性が去ってから半年くらい後だったろうか。

しかし、私には肌を重ねるどころか交際する気持ちにさえなれなかった。相手を幸せにする自信がなかったからだ。今から思うと、彼女が助けに来てくれたのだから意地にならずに助けてもらえば良かったな。たぶん今より幸せだったことだろう。

中年になってからのバーンアウトのドン底では感情が枯渇したので、受け取り方によっては楽だった。生と死の境界が曖昧になっていたので、これ以上は無理だと思えば最後の手段があった。

しかし、青年時代のドン底の時期は感情がクリアだったので逆に辛かった。頭の中には怒りと不安が渦巻き、それでも微かな夢や希望を探そうとする気力が残っていた。

初めて住んだボロアパートの跡地には、田舎から出てきた時の孤独や寂しさといった未熟で無様な記憶が残っていた。その後に引っ越した煩悩のアパートには、背伸びした若者の挫折と苦悩、そして変わらぬ無様な記憶が残っていた。

だが、今の私にとって、それらの記憶が懐かしいと感じるステージはすでに過ぎてしまったらしい。虚しく感じるだけ。そのステージが過ぎたと思い込んでいるだけで、今際の時に懐かしいと感じるのだろうか。

まあとにかく、オッサンになった今の自分はミドルエイジクライシスの真っ只中にいるけれど、若い頃だって色々と苦悩してきたのだなと思った。

むしろ、今から振り返っても絶望的な進路を軌道修正して、よくまあここまで生きることができたものだと自分の生き方に感心した。

その岐路では人生のマイルストーンのような恩人が現れて、その人たちの言う通りに進むと良い方向に進んだ。自分だけで考えて進むと不本意な方向に進んだ。深く考えず、ただ待てば良かったというエピソードもたくさんある。今さら後悔したところで遅いな。

若い頃によく使っていた路線バスの停留所まで歩き、そのバスに乗って最寄り駅に向かった。それにしても不便な町だ。バスを待っている時間が長すぎる。

バス待ちの間、私の両隣には二十歳くらいの若い男性が立っていた。彼らの表情に溢れんばかりの夢や希望は感じられない。さあこれからどのように生きるのかというアンニュイな印象を覚えた。おそらく、若き日の私と同じように色々と悩んでいるのだろう。

何度か路線を乗り換えて新浦安駅に戻ってきた。リフレッシュすることもなく、懐かしくも感じない小旅行だった。今後は二度と訪れたくない町を訪れ、そして二度と思い出したくない記憶を確認し、再び封印することにした。

死ぬまでにやっておきたいことリストのひとつがクリアされたという意味はあるけれど、懐かしさによってリフレッシュしたという感覚はない。今さら振り返ったところで意味がないということだろうか。

何とも言えない虚無感の正体については分からない。総じて無様だったという人生のステージを思い出したくないからだろうか。若い頃に過ごした町を訪れれば少しは気分が変わるかもしれないと期待した自分の判断が愚かだった。

しかしながら、若き日から現在までの自分の時間を俯瞰すると、あまり深く悩まずにコツコツと丁寧に過ごすことで生き方が好転し、悩んで不満を溜めて酒浸りになることで生き方が落ち込むというパターンがあることだけは気付いた。

明日からは再び禁酒しよう。それが分かっただけでも十分だ。