2023/09/30

流れ去る時間を何とかして感じようとするけれど

人間が時空の狭間に引っ張り込まれて5億年を過ごし、その後で記憶を消去された状態で元に戻るという「5億年ボタン」という話がネット上に流れたことがある。そのような状況は全くもって空想の話ではあるのだが、確かに興味深い。

染色体のテロメアの劣化という制限から解放された人間が5億年を過ごす場合、実際に感じる時間の流れはどれくらいの長さなのかを計算した人がいた。人は歳を取ると加速度的に時間の流れが速く感じるという要素を重視して計算すると、5億年を過ごす際の体感時間は人生に換算して約7回分に相当するらしい。あまりに短い。その解を検証することは不可能だが、五十路に近い私の視点から見ると、なるほどそれくらいだろうなと思ったりもする。


何度も書き連ねているけれど、感覚過敏を有する私にとって新浦安の住環境は最悪であり、まさに生き地獄を味わっている。地価や不動産屋のセールストークに騙されない方がいい。

この街は千葉県北西部において高い利便性を有しているかもしれないが、さすがにこの状態は詰め込み過ぎだ。SF映画のスペースコロニーのような状態になってしまっている。

千葉県で最も人口密度が高い自治体とはいえ、都心と比べると浦安市の人口密度は小さいはずだ。しかし、実際に都心に住んでいた私から見ても、浦安市の人混みの凄まじさは辟易を通り越して嫌悪に値する。市民の動線の設計が間違っているのか、市外から人を呼び込んでしまう施設や機関を詰め込みすぎたのか。

上空から眺めると半導体の基盤のように密に建物が配置された街中はどこを歩いても鬱陶しく、気が休まる時間がない。

妻の実家が新浦安にあり、とりわけ義母や義妹による有形無形の過干渉、および実家離れができない妻の態度によってストレスを蓄積させたり、頭にネズミの耳を取り付けたハイテンションな人たちが通勤電車や街中に溢れたり。ここまで酷い状況で精神を削りながら生きることになるなんて結婚前は想像したことがなかった。

財政力が高い割に支出の無駄が多いように感じる浦安市の行政、ならびに地域住民から見て信頼や安心感を覚えない浦安市内の千葉県警察。短気で我が強い市民、恥を知らないディズニー客、絶えることなく走り回る自動車、歩道を赤信号で疾走する自転車。

街全体が激しい多動性と衝動性を有する住環境の中で、私は酸素が少ない水槽の魚のように窒息寸前で生き続けている。

コロナ禍から緩やかに社会が平常に戻ると思っていたら、ゴールデンウィークの頃から住居の近くにおかしな人が出現し、夜に火を付けてまわるというディストピアな展開になった。しかも、浦安市役所や浦安警察署が地域住民に適切な情報を伝えようとしない。元漁師町の湿り気を帯びた体質は相変わらずだ。

街全体の行政や治安に絶望していたところ、コロナ明けでディズニーを目がけて膨大な数の観光客が押し寄せてきた。ただでさえストレスに苦しむ街において、まさに止めを刺すかのような大波だ。

海外からのインバウンドが急増する日本の観光地であれば、流入の大半を占めるのは主にアジア圏の旅行客だろう。例えば、いくらコロナによる制限が解除されたといえども、日本人が金閣寺や富士山に殺到するとは思えない。

しかしながら、新浦安の場合は違う。中国人を主体として、タイや韓国、シンガポール、フィリピン、オーストラリアなど、様々な国の人たちがディズニーに押し寄せ、さらには日本国内の様々な地域から観光客がディズニーに押し寄せる。

京都や福岡、静岡、北海道など、国内の多くの観光地では、名所となる歴史的なポイントがあった上で観光客を呼び込むというデザインがなされている。当然ながら観光客を収容するためのキャパシティーには限界があり、多数の人々が殺到すると「オーバー・ツーリズム」と表現される地域住民への悪影響が生じる。

ところが、新浦安の場合は違う。10年以上前からオーバー・ツーリズムが続いている。というか、意図的にオーバー・ツーリズムを発生させているように思える。企業にとっては利益が優先される。地域住民の快適な住環境について深く考えていないことだろう。

名所となるポイントはディズニーだが、この施設は自然あるいは社会の歴史によって結果的に生み出された存在ではなく、最初から人を呼び込むことを目的としている。パークを外から眺めている地域住民としてはハリボテのような名所だ。

しかし、その内部に入れば錯覚を生じるような空間が用意され、多くの人たちがその世界観に酔い、多額の金を払って多幸感を買う。歴史的名所というよりも、宗教施設に近いデザインだと私は理解している。

埋立地に観光客を呼び込むような施設を作り、その周囲に観光客が宿泊するためのホテルを作ることで、街全体が観光に特化したデザインに変化することができる。埋立地なので土地取引がフレキシブルなのだろう。空き地があれば何かが建設される。

ディズニー関連産業の拡張性の高さとディズニーファンたちの勢いは凄まじく、定住人口が16万人程度の浦安市において、その倍近い数の人間が存在しているという状況になっている。

結婚した妻が新浦安の出身だったという理由だけで街に引っ張り込まれた私としては、ディズニーについて何も関心がない。ただひたすら迷惑な観光客が押し寄せるという住環境に耐え続けている。

これは人が住むような環境ではないと、新浦安から市外に引っ越してしまった人たちの感想がネット上に広がることはない。思い出したくない記憶をわざわざ披露する必要がないからだ。

出勤時に自宅から新浦安駅に歩いているとディズニー客が歩道を塞ぎ、新浦安駅の構内ではディズニー客が通路を塞ぎ、JR京葉線に乗るとディズニー客で混み合う。帰宅時はその逆。

新浦安に引っ越してきてから約15年だろうか。その間、心身ともに疲弊せずに都内の職場にたどり着いたことが一度もなく、都内の職場から疲れることなく自宅にたどり着いたこともない。

妻としては私が新浦安の住環境について文句を言うと必ず否定し、近隣の都内の江戸川区や江東区、足立区などをディスる。

それどころか、妻や義実家はディズニーが街の誉れだと信じ込んでしまっていて、毎年のように義実家からディズニーのカレンダーが渡され、それを冷蔵庫のドアに貼り付けるという異様な習慣が我が家に押しつけられた。

私は擬人化されたネズミが気持ち悪くて仕方がなく、室内にゴキブリが出現した時と同じような表情でカレンダーを睨み続けていたところ、毎年恒例のディズニーカレンダーが義実家から届かなくなった。

このような街のどこが住み良いのか。私にとっては生き地獄でしかない。都内での生活を気に入っていた私としては、中途半端な千葉都民としての生活に陥った私の人生そのものを呪っている。

このようなライフスタイルになるのであれば、妻との結婚を取りやめるべきだったと毎日のように後悔している。

ディズニーは宗教団体ではないけれど、精神世界としては宗教性を帯びているように感じてならない。いや、精神世界というよりも、人間の思考を誘導する環境のデザインと解釈した方が分かりやすい。

日常の社会から離れた空間があり、多くの人々の意識が集中するようなモニュメントや人物あるいはキャラクターがある。そこに多くの人たちが集まり、大なり小なり価値観を共有し、幸福感や安心感を覚え、楽しいと感じ、少なくない金を支払う。

そのような世界観に意味を見出した人たちにとっては価値があり、興味がない人たちにとっては異質に見える。

私の感性においては、宗教施設の周りを行き交う人々とディズニーの周りを行き交う人々が同じように見える。

まあそれでも、人が何を心の拠り所にして生きるのかというテーマに答えはなく、他者がディズニーに興奮しようが、宗教に没頭しようが、私にとっては与り知らない話だ。ただし、その場所に住む人たちの生活に影響しないように配慮する必要がある。

人が住む街として設計したのであれば、商業地と住宅地を混在させることはシティ・デザインとして間違っている。何を考えてこのような状態になったのだろう。利益を追求した結果、地域住民の環境なんて気にしない街づくりがなされたということか。

辛い毎日を送っていたところ、新浦安の街中を歩くだけで心拍数が上がったり、電車の中で強烈な目眩に襲われたり、帰宅時の新浦安駅で無意識的に涙が流れるようになってきた。適応障害なのだろう。

下の子供が市外の中学に入学するまではと我慢し続けているが、この街での生活はあまりに厳しい。妻いわく、それが普通なのだそうだ。普通だと開き直る女性と結婚したことは普通ではなかった。

9月に入り、出勤前の自宅の洗面所の前で私は奇妙な違和感を覚えた。昨日の朝に同じく洗面所の前に立ち、今朝も同じく洗面所の前に立った。その間の記憶がゴッソリと抜け落ちてしまっている。

それは昨日と今日の時間のスキップだけでなく、昨日と一昨日についても同じ。三面鏡を覗いて自分の顔が無限に並ぶかのように、単純な記憶だけが跳躍的に並んでいる。私はこの状況に恐怖を感じた。

職場で何があったとか、趣味で何があったとか、そのような記憶に浦安住まいの辛い記憶が混じり込み、辛い記憶を消去したら全ての記憶が抜け落ちた。たぶん、そのような機序なのだろう。

五十路が近くなって人生の残り時間が限られている私にとって、このようなスキップは恐怖や焦燥の対象でしかなくて、これは深刻だと感じているうちに9月が終わった。

私がなぜに時間の流れがあまり速く感じる状況を深刻だと捉えたのか。

2015年頃から妻が家庭内で暴れるようになり、劣悪な新浦安の住環境および義実家との軋轢によって、私は2016年から2018年にかけて精神的に追い詰まり、バーンアウトを起こした。おそらく、うつ病を合併していたのだろう。

家庭のストレスによって眠ることができず、毎日の睡眠時間は3時間程度。それでも離婚せずに働き続けていたことは今になると不思議に思う。

精神の深い井戸に引きずり込まれていた時、私の体感時間はとても短かった。記憶が残っていないと表現した方が適切だろうか。1ヶ月が1週間のように感じ、1週間が1日のように感じた。

一度しかない人生なので、そのように不可思議な体験を経ることも無意味ではないわけだが、職業人としての生き方は地を這うような毎日だった。バーンアウトで感情を消失したということは、様々なモチベーションまでを失うことを意味しており、ノロノロと仕事を続けて成果が得られないという状況になっていたわけだ。

しかしながら、何事も経験だ。精神の井戸に落ちて時間の感覚がなくなるという無間地獄を経験したので、以後は仕事や家庭でのログをこまめに残している。

たった1日を過ごすかのように9月が終わったけれど、ログを振り返ると仕事の小目標は達成しており、趣味のウォーキングでのワークアウトも欠かすことなく継続していた。過去を振り返っても未来を想像しても辛いだけなので、その日その時をどのように耐えるのかということだけを考えて生きていたらしい。

なるほど、やはりそうか。浦安住まいがあまりに過酷なので、その記憶を無意識的に閉じており、紐付いた他の記憶までが消し去っていたということだ。

中高年に差し掛かった人たちは、手書きの日記でもブログでも構わないので、毎日の出来事を記録した方がいい。SNSでショートメッセージを投げ込んだり、ヤフコメや掲示板に書き込むのではなくて、近い未来の自分に向けて自分がどのように生きたのかを伝える。ただそれだけのことがとても大切だと思ったりする。

それにしても、五十路に入る前の段階でここまで体感時間が速く流れるわけだから、還暦の頃には毎日がワープ状態で過ぎ去ってしまうのだろう。小学生の頃の夏休みの1ヶ月はとても長く感じたけれど、オッサンになった後の夏の1ヶ月は暑いだけですぐに終わる。

人間の脳では重複したパターンの記憶が圧縮され、結果として時間の流れが速く感じるそうだが、そのような機序が人類の進化においてどうして必要だったのか。あまつさえ、時に今までの軌跡を振りほどいて投げ捨ててしまうように感じる中年男性の生き方において、その体感時間がどのように関わっているのか。

五十路近くになって脱サラしたり、イレギュラーな行動によって多くを失う中年男性が散見される背景には、自分の脳内で何らかの変化が生じているように思える。

それらを不思議に感じること自体が天に唾を吐くようなことなのかもしれないが、不思議に感じずに時を経て朽ちるような生き方を選択したくない。

自分が還暦を迎える時には、毎日のスピードがどこまで速くなっているのだろう。残り10年とか20年とか、そのようなカウントダウンすら意味がないステージが待っているのかもしれない。

公園でベンチに座り、穏やかな時間を過ごしているように思える老人を見かけた時、その本人は私が感じているよりもずっと速い時間軸の中で生きていることだろう。

私にとっての1分間がその老人にとっては数秒に該当する、あるいは記憶が抜け落ちて時間という尺度さえなくなっている可能性があるということだ。怖いように感じたりもするし、まあそれが人の常だと受け入れねばと思ったりもする。