2023/08/20

レインコートを着た男

今年の夏に生じた或エピソードは、トゲどころかクサビのように私の記憶に刻まれている。首都圏ではよくある鉄道での人身事故なので気にすることではないかもしれないが、個人的には気にならないわけがない。むしろ、五十路に入る私の人生観を大きく固定化しうる事象としてログを残す必要がありそうだ。

この話は創作ではなくて、私の実体験。心の健康に不調や不安がある人たちは、今回の録を読み進めない方がいい。また、メンタルがタフな人であっても、しばらくは記憶に刻まれるかもしれないので、興味本位では読み進めない方がいい。

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今年の日本の夏は異様に暑かった。このような異常気象は世界規模で発生している。ヨーロッパでは熱波の後に寒波がやってきたらしい。

タブロイド誌やネット上の陰謀論といった情報元ではなく、経済産業省が所管する独立行政法人経済産業研究所の研究者からのレポートでは、今年の世界的な異常気象が某国における気候改変プログラムに起因しているのではないかとの示唆がなされている。

プログラムといってもSF映画のような世界観ではなく、雲の中にヨウ化銀を散布して水の粒子を集合させ、人工的に雨を降らせるという取り組みだ。しかし、人工降雨の実用化は難しいらしく、日本の熱波とタイミングを同じくして某国では豪雨が生じて自国に大きな被害が生じている。

また、偏西風が蛇行することで高気圧や低気圧の分布が変化していることは事実であり、その原因が某国の人工降雨によるものではないかという指摘がなされている。この世界的な異常気象について、コロナ期に尚早なアナウンスで批判を浴び続けた国連が、相変わらず確たるエビデンスに基づいていると思えないアナウンスを発信している。その背景には国家間の分かりやすい力学が透けて見える。

2023年8月7日。熱帯夜が明けた早朝の新浦安に短時間の雨が降り、気温が低下することがないまま湿度が急激に上がった。周囲には熱せられたアスファルトから立ち上る不快な臭いが広がっている。この状態を風流だと感じる人は少ないことだろう。

朝に目覚めた私は、自室の窓を開けた時点で当日の出勤を取りやめて有給休暇を取得しようと思った。不快な空気の感覚だけでなく、全身を地面に押し下げるような気圧の低さまで感じる。

とはいえ、仕事は山積みだ。無理をせずに遅めに出勤するという自らが用意した妥協案を自らで採択し、重力が増したかのような状態のまま身繕いを進め、出勤のために新浦安駅まで歩くことにした。

新浦安駅は、ディズニーを目がけて国内外から押し寄せる観光客によって混み合っている。東京オリンピックの前後で浦安市の新町地域には多数の観光ホテルが建設され、ディズニーがある舞浜地区だけでは収容しきれなくなった宿泊客が日の出地区や明海地区に流れ込んでくるようになった。

ディズニー客が押し寄せて来なかったしても、ディベロッパーが住宅を作りまくったことで住民の人口密度が高くなっているので新浦安駅は混み合う。現時刻は午前10時近く。出勤ラッシュが落ち着き、ディズニーで遊んだ宿泊客たちがJR京葉線の東京方面の電車に乗って帰路に就く時間帯だ。

鉄路の場合には東京駅、空路の場合には新木場駅で乗り換えて羽田空港。新浦安駅から電車で成田空港に行くにはどうすればいいのかと駅員と揉めている外国人の集団は日常の光景だ。日本に来る前に調べておかないのか。

とりわけ、コロナ期が明けた現在ではアジア、とりわけ某国を中心とした国々から新浦安に観光客が集まっており、駅の改札が国際空港のゲートのようになってしまっている。

ディズニーにやってきた外国人が夜のシンボルロードの歩道を歩いて日の出地区や明海地区に向かい、途中のコンビニに押し寄せる。店内は子供の頃にジャッキー・チェンのカンフー映画で耳にしたことがある言葉を話す外国人たちがレジ前で行列を作る。とにかく会話時の声が大きくて喧しい。

あまりにインバウンドが多すぎて地域住民の生活にまで影響するような事態は「オーバー・ツーリズム」と呼ばれるそうだ。インバウンドだけでなく国内旅行客までが押し寄せている新浦安駅は、まさにオーバー・ツーリズムによるストレスフルな状態になっていることは明白だ。そして、浦安市の行政はこの状況を解決する能力を何ら持ち合わせていない。

住民である私としては、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶしかないということか。

それにしても、この不快な気温と湿度は厳しい。妻の実家がある新浦安に引っ越したという経緯は個人的なものだ。第一子を妊娠した妻が精神的に不安定になり、仕方がなく義実家の近くに住むことになった。住みたくもない街に住み、義実家による過干渉を含めてストレスを蓄積した私はバーンアウトや適応障害を生じて心身の不調をきたした。適応障害は今でも続いている。

この街が嫌ならば引っ越せば良いだけの話だが、子供たちが市立小学校に通うようになると引っ越しさえ難しい。

何千回どころか何万回も繰り返した負の思考のループを相変わらず繰り返し、駅構内を塞ぐディズニー客たちを睨み付けながら改札を抜けた。ちょうど、東京方面の電車がやってくる。新浦安駅10:02発のJR京葉線の快速電車。常に混み合い、乗客のモラルも荒れている8両編成の元貨物列車ではなく、10両編成の列車だったことを幸運だと感じながら、私は改札を抜けてホームへの階段を上った。

新浦安駅の東京方面のホームに上がるためには3つの経路がある。ひとつは改札を抜けてそのまま直進し、エスカレーターに乗る経路。この経路はキャリーバッグを引き摺ったディズニー客が行列をつくるので私は忌避している。

もうひとつは、上述のエスカレーターの手前にあるエレベーター。急いでいる時にこのエレベーターを使う地元民は少ない。巨大なキャリーバッグを引き摺ったディズニー客、とりわけベビーカーに子供を乗せている人たちがこの経路を使う。

結局、最もストレスなくホームにたどり着くためには前時代的な階段を上るという経路しか残っていない。改札を抜けてすぐに左に曲がり、私はステップを上がりながらホームを目指した。

階段を上がりきる直前、私は駅に近づく快速電車の気配を察した。しんどい気温と湿度だが、とりあえず電車に乗ることができるらしい。私は安堵した。

その刹那、私の長い人生で聞いたことがないような凄まじい警笛が駅構内に轟いた。たまに駅を通過する列車が発する「ファーン」という警告音ではなく、電車そのものが悲鳴を上げているように感じた。警笛が鳴っている時間も長い。

雷のような轟音と振動を響かせながら、急ブレーキでロックした車輪がレールの上を削り滑っていく。その音は聴覚で感じるレベルをはるかに超え、衝撃波のように物や体に打ち寄せた。

電車がホームで停車し、その後もしばらくは警笛が鳴り続けた。電車の運転手の精神状態が気になった。

その直後には「ブー」とも「グー」とも表現しがたい、野生動物の唸り声のような警告音がホームどころか周辺の街全体に響いた。この音は駅構内のスピーカーから流れているのだろう。この警告音にどのような意味があるのか、私には理解しえない。とにかく異常事態が生じたということを知らせるアラートなのだろうか。

駅に到着した電車において何らかのトラブルが発生したことは間違いなく、往々にしてその原因も察することができる。残りの階段を上ってホームにたどり着いた私の前には、激しい警告音に見合った錯乱と、それに相反した静黙があった。

舞浜駅も同じだが、新浦安駅のホームの階段付近には「この付近は大変混み合うので、ホームの奥に進んでください」という主旨のアナウンスが路面にプリントされている。エスカレーターや階段を上った直後の駅ホームから電車に乗れば、目的地の駅に到着した時にエスカレーターや階段に近い。

新浦安の地域住民は混み合った状況を避けるため、そのような出入口から離れた場所まで歩く。しかし、地方からやってきたであろうディズニー客は出入口の近くに陣取って電車に乗降する傾向がある。家族連れにしても、修学旅行生にしても、主にアジア圏からやってきた外国人の観光客にしても。

エスカレーターで上がってきた人たちがホーム上で溢れてしまい、反対側の出入口付近に集まってくることさえある。そこまで出入口にこだわる理由を知りたい。

結果、電車から降りてきた人たちが出入口付近で渋滞を起こし、そのまま強引に電車に乗ろうとする人たちが車両内になだれ込む。出入口付近で乗降しても通路が混み合い、行列を作って待つだけの話だ。車両ドアの開閉や運行も遅れる。この人たちは、そのような行為に意味がないことに気が付かないのか、何としてでも「自分」の利益を優先したいのか。さもしいと言わざるをえない。

そして、迷惑な人たちが集まるホームの出入口付近の場所から誰かが電車にダイブしたらしい。色々な意味でカオスだ。

まともな時間に出勤することは難しいと判断した私は、駅ホームに設置された自販機の近くで周囲の様子を観察することにした。

状況を整理すると、新浦安駅の東京方面のホーム、正確にはエスカレーターではなくて階段を上る側の出入口付近において、3番線の快速電車に男性が飛び込んだ。

私が目撃した時、その男性の姿はなく、快速電車が駅ホームに入り込んでいた。私の目には、まるで電車が人を飲み込んだように感じた。

この場合、先頭車両に跳ね飛ばされた人が駅ホームの人たちに衝突して二次的な事故を起こす可能性がある。しかし、東京寄りの駅ホームの人たちは何が起こったのかと凍っているだけだ。巻き込まれた人たちはおらず、皆が直立したまま上半身だけを動かして周囲を見渡している。まあ確かに、どこに何が落ちているのか、あるいは飛び散っているのか分からない。動けない雰囲気がある。

しかし、階段しかない出入口付近では、人が電車に飛び込む光景を目撃したであろう人たちが混乱していた。ディズニーにやってきて、これから帰路につく家族なのだろう。派手な買い物袋をぶら下げた父親が、自分の子供や妻を両手で抱きかかえ、互いに向き合ったままホーム上で固まっていた。

この人たちの行動にどのような意味があるのか、私には分からない。目の前の車両の下には、即死したであろう人間が巻き込まれている。ホーム上で待ったところで電車が運行するはずがない。さっさとホームから降りて駅の外で休むか、リムジンバスなどで東京駅や羽田空港に行けばいい。人身事故の余韻に浸ったところで、子供たちの恐怖を増大させるだけだろう。

「この付近は混み合うので、ホームの奥に移動してください」というアナウンスに従っておけば、このような事態にはならなかったはずだ。最も出入口に近いからとアナウンスを無視して我を優先した結果がこれだ。ディズニー客は周りが見えていない。

子供たちを夢と魔法の国に連れてきて、人が電車に飛び込む光景を見せてしまったわけだ。ハリボテの幸福感は無惨に消え去り、世の中に広がっているのは時に狂った現実だということを自分の子供たちに学ばせてしまったな。一度刻まれたトラウマは消すことが難しい。その父親は気が動転して固まってしまったのだろう。

その家族の周囲には、件の派手な買い物袋をぶら下げたディズニー客たちが距離を開けて立ちすくんでいた。中には駅員を呼び止めて、まるで壊れたレコーダー、あるいはペットの鳥のように同じ内容を話し続けている女性の利用客の姿を見かけた。誰かに話さないと精神を保つことができないのだろう。だが、その駅員はメモを取ることもなく呆然としていて、話の内容が頭に入っていない様子だった。この駅員は全く役に立たない。

不思議なことに、人が電車に飛び込んだことは間違いないにも関わらず、現時点でホーム上に存在している人たちが当事者を見ていない。車両やホームと線路の間を観察してみたのだが、飛び散った肉片や血液を見かけない。車両の下から誰かの呻き声が聞こえてくることもない。

少し離れた場所にいた多くの人たちは、何があったのかさえよく分からない。ただの勘違いではないかと思う人もいたことだろう。

GANTZという物語では、電車に巻き込まれた当事者がデジタル転送され、別世界に消えたというエピソードがあったりもするのだが、あのシーンによく似ている。

駅ホームの出入口で混乱している人たち、そして構内に鳴り響く獣の唸り声のような警告音がなければ、電車が止まってはいるけれど日常的な普段の姿だ。飛び込んだ人の姿が見当たらない。

異様なほどに長い電車の警告音が続いた理由から遡ると、新浦安駅に近づいた快速電車の運転手が線路上にいる人の存在に気付いていたことは間違いない。しかし、その運転手は急ブレーキをかけても間に合わないことを察したのだろう。残された行動は、とにかく警笛を鳴らして当事者に回避を促すことだけだったということか。

つまり、瞬間的に当事者が車両に体当たりしたというよりも、あらかじめ線路上に立ち入って電車がやってくるタイミングを待っていたということか。線路上にうずくまる、あるいは寝転がる形で列車に巻き込まれたのであれば、先頭車両が到着する付近で待っていた乗客が何も気付いていない理由も分かる。

それにしても、新浦安駅に停車せずに通過する特急電車であれば状況が違うかもしれないが、新浦安駅で停車する快速電車で命を絶とうとする心理状況はどのようなものだったのだろうか。ストレスフルな新浦安駅で突発的に事に及んだということなのか。

電車に体当たりして外傷によって絶命する場合、辛うじて意識が残っていると当事者に凄まじい苦痛がやってくる。また、列車と線路に巻き込まれて体躯が切断される場合、頭部が損傷を受けていなければ数分間は意識が残るので、転がる視界の中で自分がバラバラになる光景を自らが目撃することになるらしい。頭部をレールの上に乗せて即死すると楽だとか、そのようなネット上の狂った記事を見かけたことがある。

当事者やご家族には気の毒だが、私にはどうすることもできない。事故現場に遭遇した私としては、当事者が苦痛に悶えることなく来世に向かったことを祈るのみ。

迷惑だとか、他の手段を選べとか、そのように辛辣な気持ちもない。当事者はとても苦しんで生きてきたことだろう。このような惨状に至る前に救われることがなかったのか、残念に感じる。

このままホームにいたところで京葉線は運行が見合わせになっている。私は駅を出ることにした。

経のひとつでもと思い、般若心経を唱えた。

それにしても、このディズニー客たちはどうしてホームに居続けているのだろう。楽しい思い出を作りに新浦安にやってきて、別の意味で忘れられない記憶が残った。

新浦安駅で人身事故が起きたにも関わらず、浦安市の行政がシャトルバスを運行して東京メトロの浦安駅に通勤客を運ぶという気の利いた対応を執ることはない。台風が接近して鉄道が運休になっても同じことだ。

市民から集めた税金によって元漁師町に建てられた豪華な市役所の中の人たちは、納税者が通勤困難になって苦しんでいても気にしない。なぜに浦安の行政は気の利いたことができないのか、私には分からない。

私はそのような浦安市の行政に不満を持ち、ふるさと納税によって市民税をフルベットで他の自治体に送っている。自分が支払った市民税に見合った行政サービスを受け取っているとは思えないからだ。それにしても浦安市の行政は納税者をサポートするという姿勢が足りない。

この街の行政が現時点の私を助けてくれるはずがないと私は覚悟しているので、この先の行動は至ってシンプルだ。そのまま帰宅して休むか、元漁師町の方にある東京メトロの浦安駅から都内の職場にアクセスするか。

このような場合、京葉線が運休すると察した新浦安民が駅前のタクシーで浦安駅に向かうことは分かりきっている。案の定、新浦安駅の近くのタクシー乗り場には長蛇の列が生じていた。バス停も同様。

新浦安駅から浦安駅まで徒歩で移動しようとすると、この炎天下で数十分も歩くことになる。

だが、私としては、もはや浦安市に一分一秒でもいたくないという気持ちが上回った。電車に飛び込んだ人の気持ちはよく分からないが、この街を出たいと感じた。私にとって最悪な住環境だ。歩いて浦安駅に向かうことにした。

雨上がりということで大きな傘を持っていたのだが、真夏の日差しが厳しいということで日傘の代わりに広げて歩いた。全身から汗が流れ、何とも虚しい気持ちのまま歩いた。自分がどのような状況に置かれ、自分がどうして歩いているのかを論理的に説明することは可能だ。

しかし、なぜこのような街に住んでいるのか、その命題に差し掛かると思考の負のループが回る。結局のところ、浦安出身の女性と結婚してこの街に引っ張り込まれたからだとか。

美浜地区から陸橋を渡ったところで、ようやく消防署から出動した救急車とすれ違った。随分とのんびりと救急車が走っていた。列車の下で当事者が見つかり、急いでも仕方がないと判断されたのだろうか。もしくは、作業中の目隠し用のブルーシートの準備に手間取っていたのか。

それ以上に自分の中で説明がつかなかったことがある。

少し前、Amazonのプライムビデオで100円を支払って、「貞子vs伽椰子」という映画を視聴した。登場人物のほとんどが死亡し、最後は強烈なモンスターが生じるという救いようがない物語だった。その映画の中で人々が命を落としても、私はこれが虚構だと分かっているので特に気にならなかった。

しかし、新浦安駅で目撃した事象は虚構ではなくて現実だ。目の前で人が命を落としているであろう状況で、私には何の動揺もなく、まるでリアルな映画を観ているような感覚を受けた。仕事柄、多くの人たちが命を失っているので気にしなくなったのか、あるいは不条理がまかり通る社会において感覚が鈍磨したのか。

貞子や伽耶子といったジャパニーズ・ホラーは、より長く生きたいと感じる人に恐怖を与える。そして、なぜ自分が惨状に巻き込まれるのだと感情移入することで恐怖が増大する。当然のことだ。

しかし、私を含めて一度でも生きることを諦めかけた人たちには、これらのホラー映画の違った側面が映る。人の脳は、貞子や伽椰子よりもはるかに現実的な怪物を生じうる。その目に見えない怪物は自らの脳が作り出し、自らを確実に削り、時には自らを死に追いやる。

個人差はあるけれど、精神の井戸は誰の頭の中にも存在する。要は、その井戸のフタが開くか開かないかという違いしかない。フタが開いて怪物に引きずり込まれると、その人は現実的な恐怖に苦しむ。心を病むのは弱い証左だと豪語していた人が、翌年に倒れて動けなくなったという話なんて何ら珍しくない。全ての人の脳の中にそのようなプログラムが組み込まれているわけだ。

ホラー映画の恐怖は視聴を終えればなくなるが、自分の頭の中で生じた怪物を簡単に消すことは難しい。現実世界において、その恐怖に耐えている人たちが無数に存在し、身動きさえ難しくなり、薬漬けになり、たまに首を吊ったり、時には電車に飛び込む。

仮にホラー作品の彼女たちが現実に存在していたなら、貞子の動画がYouTubeで大変な再生回数を叩き出したり、伽耶子の家の前に行列が並ぶことだろう。

貞子の場合にはビデオ視聴による予約だけで48時間以内に旅立つことができる。旅の予約が取れたことを知らせるリコンファームの電話までかかってくる。そして、どこにいても確実に迎えに来てくれる。作業料金も別途交通費も無料。余計な苦しみもなく、数分間だけ我慢していると作業が完了する。とても律儀な怨霊だ。

伽椰子の場合には予約せずに家に入るだけで熱烈な歓迎を受け、一瞬で旅立つことができる。この即時性は凄まじい。当事者の気が変わって逃げても俊雄が追いかけてくるので、振り返る余裕もない。これはこれで潔い。

見方によるが、これらのジャパニーズ・ホラーの世界観は現世の苦しみよりも随分と緩い。それらに恐怖を感じることなく、恍惚として物語を眺めている人がいることだろう。私ならば貞子にお願いしたいものだ。長身スレンダーで静かな人がいい。ヒステリックな女性は苦手なんだ。

炎天下で歩き続けて思考がおかしくなっているらしい。私はなぜ安楽死における貞子や伽椰子の可能性について考えているのだろう。

元漁師町に入り、コロナ期から活気を取り戻した商店街を抜け、ようやく東京メトロの浦安駅が見えてきた。

日傘代わりの雨傘を閉じ、流れ出る汗を拭きながら電車に乗る。JR京葉線が運休になったことを知ったディズニー客たちの集団が浦安駅にたどり着き、そこからバスに乗ってディズニーを目指している。この様子ならば、東京駅からタクシーに乗り、5000円以上を支払って直接的にパークに向かっている人たちもいるのだろう。私にはその世界観が宗教性を帯びているように感じる。

浦安駅から東西線に乗り、地上を走る電車が地面に沈み込んで地下鉄に変わった。浦安という街を離れて都内に入った瞬間に私の気分が楽になる。千葉県と東京の境目はとても大きく、両者を行き交うことに私は疲れてしまっている。

車内にはスマホを凝視する人たちが溢れ、何もせずに物思いに浸っている人の方が少ない。この状況ではスマホに意識を預けないとストレスを受けるということも分かる。

ツイッターをチェックしてみる。浦安市の公式アカウントは、新浦安駅の人身事故どころか、市民の移動の要となっているJR京葉線の運休についてさえ発信していない。

市民が必要としている即時性のある情報を提供することがツイッターの利点であるわけだが、浦安市はその重要性を理解していないのではないか。

日の出地区での連続事件が発生した時も、浦安市の公式アカウントは塩対応で無視していた。まさに即時性を要する情報を発信しないなんて、この街の行政はSNS自体の意義を理解していないと私は呆れた。

ツイッターを眺めていると、鉄道の人身事故をネタとしてアフィブログへのアクセスを集めようとする輩が目立つ。

このように他者の不幸で小銭を稼ぐような人たちは、自分が今際の際を迎える時に地獄に落ちる。それは虚構の話ではなく、自分の生き様を振り返って後悔するという話。むしろ、このような時代遅れのアフィブログで小銭を稼いでいる人たちの生活は、現時点で地獄にいるようなものだ。なりふり構わず欲望を追い求めている彼らの姿が餓鬼と重なる。

新浦安駅における人身事故のデータベースを調べてみると、不思議なことにほぼ2年間隔で人が飛び込んでいる。2011年、2013年、2015年、2017年。コロナ期のブランクを除いた場合、このアルゴリズムが2023年も続いているように思える。

リアルおよびネットの両方において異質な空間で、私は目を閉じ、芥川龍之介の実質的な遺作である「歯車」という作品の情景を思い出していた。この物語は虚構ではなくて、彼の私小説、つまり著者本人の実体験が書き記されている。

周知の通り、この作品を仕上げた後で芥川龍之介は服毒自殺で世を去ってしまうわけだが、その直前の心理状況が文章のみによって怖いほどに描写されている。

歯車というタイトルになっている事象は、現在では閃輝暗点と呼ばれるもので、その後で激しい偏頭痛がやってくることが多い。芥川龍之介もその痛みに苦しみ続けた。

私も寝不足やストレスなどで疲れた時に閃輝暗点を見ることがある。目を閉じても暗闇に歯車が広がり、視界の縁までそれらが拡散すると、鈍い偏頭痛がやってくる。その仕組みは現在でもよく分かってのだが、視覚野での脳血管の収縮や拡張が関係しているらしい。

その歯車という作品において登場し、彼に恐怖を与え続けた存在がある。作中では「レエン・コオトを着た男」と表現されている人物。

現在の表記であれば「レインコートを着た男」という記載になるのだが、この人物は列車に飛び込んで轢死した芥川龍之介の義兄がモチーフになっている。モチーフというよりも、義兄の死が彼の脳裏に刻まれて亡霊のように付きまとったらしい。

義兄が轢死したことでその家族までを芥川龍之介が支えることになり、経済的および心的な負担が増大したそうだ。さらに、当時の芥川龍之介は睡眠薬としてバルビツール酸系の薬剤を服用していたという話だ。現在の医学ではありえない治療であり、もはや薬物中毒の状態で現実と虚構の狭間を行き来していたことが推察される。

しかし、レインコートを着た男がどうしてレインコートを着ていたのか、歯車を初読した私には理由が分からずにいた。当時の報道によると、彼の義兄は事故当時にレインコートを着ていなかったらしい。つまり、レインコート自体は芥川龍之介の創作ということが分かる。

レインコートの男がどうしてレインコートを着ていたのかについては諸説あり、この作品を遺した後で作者が自殺してしまったので詳細は謎のままだ。レインコートを和訳するとカッパなので、彼が好んだ河童と組み合わせたとか何とか。

芥川龍之介の頭の中では、雨が降って湿度が上がった不快な状況と自らの希死念慮が繋がっていたのかもしれない。気圧が低いと閃輝暗点や偏頭痛が起きやすくなったりもする。

レインコートは作中で低気圧や雨を示しており、それを義兄に着せることで恐怖のイメージを構築したのではないか。作中での創作というよりも、精神を病んだ上に薬物中毒になっていた彼の前には、実際にレインコートの男が幻覚として見えていたのだろう。

職場の最寄り駅に到着した私の前には、新浦安駅で発生した人身事故とは全く無縁の光景が広がっていた。

不思議なことに、その後に何日待っても今回の人身事故について報じているオールド・メディアがほとんど見当たらない。自宅の近くで生じた連続事件をきっかけに、何らかの報道規制が行われているのだろうか。浦安のイメージが低下するような報道は控えろと。

浦安市の行政に報道内容をコントロールする力があるとは思えない。しかし、メディアに強い影響力を有する存在については心当たりがある。結局のところ、物事にはA面とB面がある。華やかなイメージの裏にドス黒いものがあっても何ら不思議ではない。

この事件の後、蒸し暑い日に駅のホームに立つと、レインコートを着た男が線路上に飛び出す光景を想像することがある。そして、運転手の悲鳴のような異様に長い警笛の音が鳴り響く。レインコートのフードの下に自分の顔があったらと思うと背筋が寒くなる。芥川龍之介が恐れたのは、自らがレインコートの男になってしまうことだったのだろうか。方法が違ったとしても結果的にはそうなってしまったわけだ。

なるほど、恐怖のイメージというものは時に要素が組み合わさり、時に伝染するということか。

一度でも精神の井戸に落ちた人であれば、常にまとわりつくような何かが頭の中に残ることだろう。その何かとはオカルトやホラーのキャラクターではなくて、脳内の神経細胞を伝う電気信号に他ならない。そのシグナルにエラーが生じ、直接的に関係しない感覚情報までを集合させ、恐怖を形としてイメージするわけだな。

とはいえ、精神の井戸から這い上がってきた人たちは、その恐怖を自らの力でコントロールすることができたりもする。頭の中から完全に消すことができなくても、恐怖のイメージが大きくなりすぎないように、それが自分を引きずり込まないように。私の頭の中で構成されたレインコートの男についても、適度にコントロールするしかないのだろう。

せっかくなので、貞子や伽椰子といったジャパニーズ・ホラーを見まくって恐怖のイメージを上書きしようか。ここまで余裕があるのだから、まだ大丈夫だな。