2023/07/22

経験したことがないほどに早く過ぎ去る7月

前回の録を遺したのは7月の初日であり、気が付くと3週間が経過した。慌ただしい年末と比べると夏は時の流れが緩やかに感じるものだが、今年の7月はタイムスリップして先に進んだかのように感じる。何があったのかと振り返ってみる。

近所で発生した例の連続事件の影響で5月と6月は気を張っていたが、7月に入ってから警戒心が緩んだ。そのタイミングでアジア系を主体とする外国人の観光客が街に押し寄せてきた。この人たちは当然のごとくディズニーを目的地としているが、宿泊地は新浦安にて増加したホテル群だ。外国人たちと地域住民の動線が重なり、新浦安の街は国際空港の雑踏のようにカオティックな様相を呈している。


それにしても、タイやシンガポール、台湾、韓国、中国、インドといった国々からやってきた観光客が新浦安駅前のイオンで総菜を買っている姿は、何とも超現実的に映る。

自分たちの国に由来し日本風にカスタマイズされた料理を食べて、この人たちはどのように感じるのだろうか。

加えて、聞き取れないくらいに強烈な訛りを帯びた英語を話す高校生くらいの若い白人たちが、数十人の行列を組んで夜のシンボルロードの歩道を歩き、途中のコンビニでアイスやスナック菓子を買って食べていたりもする。

彼ら彼女らの行動パターンは浦安市内の高校生や大学生と同じだが、外見と言語が違いすぎるので超現実的に見える。ここは本当に日本なのかと。

おそらく、この人たちはオーストラリアから日本にやってきた研修生なのだろう。オージーにも修学旅行があるのだろうか。

頭にネズミの耳を取り付けて異様なテンションで飛び跳ねる日本人のディズニー客と比べると、外国人の観光客にはそれなりのモラルがあるらしい。通勤時の動線が混雑することのストレスは増大したが、とりわけ目立った迷惑行為は見られない。

むしろ、アジアの他国から見て割安な観光地になってしまった日本の現状というか、まあそういった日本人としてのプライドが削られていることのストレスが大きい。この数十年で日本の経済は低迷し、アジアの他国に追い抜かれ、少子高齢化でさらに衰退しつつある。何が悪かったのだろうな。私が考えても仕方ないことだが。

住環境の変化に加えて、今年の7月は仕事が立て続けに入ったので例年以上に忙しかった。三連休に休日出勤が入り、実質的には普段の週末になってしまった。

しかも、職場での人間関係のトラブルに巻き込まれて、変化に弱い私は大きなストレスを受けた。トラブルといっても大した話ではなくて、エアコンが寒いだ暑いだという設定の話。うわぁくだらないと感じたりもするし、労働環境の適正化と考えると大切だと感じたりもする。

とはいえ、他者のことを考えず自分の感覚だけを主張し過ぎる人は厄介で、どこまで調整しようとしても我を通そうとする。エアコンという些細なトラブルの範囲で済むはずもない。

加えて、(極めて地味な話だけれど)自宅の網戸をDIYによって自分で張り替えていたので、時間も気力も余裕がなかった。

職場に加えて家庭においてもエアコンに関係した面倒事かよと思った。職場で寒い寒いと主張し続ける人と同じく、妻は異様なほどにエアコンの冷気を嫌う。

妻は隙あらばエアコンのスイッチを切り、網戸で風を室内に取り入れようとするのだが、網戸に穴が開いていたので虫が入ってくるようになった。網戸を確認すると、ネットが経年劣化で破れてしまっており、蚊やハエどころかカナブンまでが室内に入るくらいの亀裂が広がっていた。

妻や子供たちは異様なほどに虫を嫌うので、妻は穴の開いた網戸に虫除けスプレーを振りかけたり、クリアテープを貼ったりと、本人なりに何とかしようとしていた。

しかし、途中で相変わらず細い精神の糸が切れたらしく、妻は巨大な白い不織布を買ってきて網戸全体に貼り付けてしまった。

これではほとんど風が通らないのだが、自己肯定が非常に強い妻はこれでいいのだと開き直った。マンションの外から眺めると、どう考えてもその家の中の人がおかしくなってしまったように見える。見えるというよりも、実際に何かがおかしくなっている。

以前の私はエアコンで十分だと考えていたので、網戸を修理する気になれなかった。しかし、レトロな生活に価値を見出し始めた私は、夏場に外の風を感じるということも趣があるかもしれないと思った。

最近の私は大工系YouTuberのチャンネルを興味深く視聴する習慣があり、網戸の張り替え程度ならば自分でやってしまおうと考えた。

とはいえ、我が家の網戸はいくつもあるので、それら全てのネットを張り替えることは容易ではない。枚数が多いので、プロが使うグレードの道具を揃え、大量のネットやパッキンを買い、家族から応援されることもなく黙々と網戸を修理した。業者に注文すると1枚あたり6000円程度の作業費が請求されるらしい。まあこの程度の作業は自転車をフレームから組み立てることに比べれば大して難しくない。

うちの妻は夫の努力に対して笑顔で感謝するといった習慣が全くないので、張り替えたばかりの網戸を当然かのように開けて風を取り入れ、これでいいのだとスマホゾンビになった。その日の夕食には妻が揚げた海老の天ぷらが登場した。数年に一回の珍事だろう。

交際時あるいは新婚時代の妻の無愛想な表情は、エヴァンゲリオンの綾波レイのようにミステリアスだったりもした。しかし、子育てに入った妻は無愛想な表情のままで怒って暴れることが多い。普段から笑わないためなのか、険しい表情のまま固定されてしまったらしい。

この表情が何かに似ていると思って回想した。答えを見つけることは容易だった。オスのライオンに似ている。機嫌が良い時には昔の特撮ヒーローの快傑ライオン丸に似ていたりもするし、機嫌が悪い時には野生のリアルなライオンのような威圧感を覚える。

ライオン丸はともかく、そういえば7月に入ってから私の奥歯が欠けてしまい、セラミックの義歯を取り付けるために歯科クリニックに足繁く通っていることを思い出した。クリーニングを行った後で歯を削り、型を取って填め込むという流れなのだが、思ったよりも時間がかかっている。

いつもお世話になっているドクターは20年近い付き合いだろうか。抜群に腕が良いのだが、職人肌でこだわりがある。クリーニングを行った後で歯を削らずに次回に持ち越し、歯を削った後も慎重に確認し、義歯を入れた後も慎重に噛み合わせをチェックしてくれる。

普通ならば治療中に痛ければ手を挙げろと言われるかもしれないが、彼の場合には私の眉毛の動きだけで痛みを察するらしい。そもそも私が痛く感じない麻酔の量まで把握しているらしく、この歯科クリニックに通って痛いと感じるのは、新米の衛生士の歯石取りくらいだろうか。この初々しさが良かったりもするので私は気にしない。これから経験を重ねて上手になるのだろうなと思ったりもする。深い意味はない。

腕が良い歯科クリニックで、なぜに歯の治療が遅れているのかというと、外注先のセラミック義歯の出来具合がよろしくないという理由だった。今時の義歯の製作は相応の自動化と高度化が進んでいるらしく、その形状には問題がなかった。

しかし、加工されたセラミック義歯の色合いがおかしいということで、念のため型取りからやり直すことになった。

まあ確かに私も驚いた。芸能人やセレブでもここまで白い歯が並んでいる人はいないだろうというレベルの真っ白なセラミック義歯が外注先からクリニックに届いた。この義歯を削った人は思考のどこかで自分の制作物がおかしいと思わなかったのだろうか。ドクターのオーダーを無視して真っ白な義歯を作るなんて、余程に別のことを考えながら仕事していたのだろうか。

とはいえ、水代わりにコーヒーを飲みまくっている私としては、歯なんてものは黄色くなっているのがデフォルトで、そもそもオッサンの奥歯の色合いなんて誰も見ないし気にしないだろうと思ったりもした。真っ白なセラミック義歯を黄色く変色させる自信は十分にあるし、セラミック義歯に「Shimano」とか「LEKI」といったロゴが彫られていても気にしないレベルだ。

しかし、お世話になっている歯科クリニックのドクターとしては、保険適応外の高額医療でこの出来栄えは不十分だと思ったらしい。ドクターの圧が凄かったので、私は「ああ、これでいいですよ」とは言い出せず、型取りと切削をやり直したことで義歯を填めるまでに一ヶ月近い期間を要することになった。

欠けた奥歯には以前からセラミック義歯が入っていたのだが、この義歯は15年近い使用に耐えたという理解になる。あと15年経った時の私は職業人としてのリタイアが近づき、新たな生き方というか、老い方というか、まあ死に方とも表現しうるステージに入るのだろう。奥歯が残っていればの話だが。

思い返してみると、私自身が気付いていなかっただけで、忙しくも混沌とした7月を過ごしていたわけだな。歳を取ると最近のことは覚えていなくて、昔のことばかり思い出すという話を聞いたことがある。確かにその通りだな。

不思議なことに、私が網戸を張り替えたのは今回が初めてのことだ。これまでの人生で経験した類似記憶がスキップされることで時間の経過が早く感じるという解釈が当てはまらない。

しかし、その他については明らかに類似記憶の重複が生じ、情報が圧縮もしくは消去されてしまっているのだろう。

最近ではウォーキング専用になってしまっている自転車ナビのアプリを確認してみたところ、忙しい毎日が続いたにも関わらず、趣味のノルディックウォーキングについては欠かすことなく継続していることが分かった。しかも、最近ではポールを持ったウォーキングというよりも、ジョギングに近い勢いでバウンディングを多用している。

結果、浦安住まいによって精神は酷く病んでいるけれど、四肢は健康的に日焼けして筋肉が引き締まっている。

悩みを含む内面を何かに書き連ねている生活よりも、気が付くと時間が過ぎ去っている生活の方が健全かもしれない。しかし、この歳になってくるとブログでも日記でも構わないのでどこかに書き留めておかないと記憶が自動で消去されてしまう。

ブログや日記なんて面倒だと思っている中年男性は、数年前の自分が何をしていたのかを思い出してみるといい。記憶が圧縮されて解凍することができなくなっていて、外部記憶がないと振り返ることさえ難しい。その記憶にどの程度の意味があるのかは分からないが、老いた後で必要なければ自分で消せばいい。

おそらくだが、自分のライフログについて関心がない、あるいは面倒だからと取り組まない中年たちは、老後に多くの自己記憶を失って呆然とするのだろう。そして、人生はあっという間だったと感じるはずだ。

なるほど、実際にはきちんと生きた上で相応の時間が流れていたにも関わらず、自分の記憶として残らないから早く人生が過ぎ去ったように錯覚するというわけか。当たり前といえば当たり前の話だが。