2023/07/01

レトロでシンプルな生活を取り入れながら、地に足をつけて老いたい

単語の収まりが捗らずに録のタイトルが二転三転しているが、おそらくこのテーマが今後の生き方で大切な存在になる。最近は社会の変化がとても大きくて、それまでの生活で考えたことがなかった事象が次々に起きている。それらの変化の中で貪欲に利益を求めようとする人、行き場のない不満を溜めている人、よく分からないまま混乱して過ごす人。とにかく色々と気になって疲れる。

出勤時の新浦安駅ではディズニーに遊びに来た外国人たちの姿が目立つ。最近では欧米系や中国系、韓国系だけでなく、東南アジア系の人たちが多くなった。賃金や物価の差が減り、他国の人たちにとって日本が割安な海外旅行先になったからだろう。対して、多くの日本人は海外旅行どころか外食さえ躊躇する生活を送っている。他国が急に元気になったのではなくて、日本が勢いを失って迷走しているだけのことだ。バブル崩壊から数十年も景気が停滞したまま衰退を待つことになろうとは。


さて、私は10年以上前からスポーツ自転車に乗ってサイクリングを楽しむという趣味を続けていたけれど、最近ではパワーウォーキングが主たる趣味になった。

サイクリングに飽きたというわけではなくて、極小の半島のように海に突き出た浦安市から混み合った道路を走って周辺の自治体を抜け、心地良く走ることができる場所にたどり着き、再びストレスフルな道路を走って戻ることが嫌になった。

また、自転車という趣味の世界では新しく販売される機材の動向や販売価格の値上がりがおかしな方向に進んでいるように感じ、もはやこのようなイタチごっこに付き合うのは金の無駄だと思った。

スポーツ自転車のブレーキはロードバイクであってもディスク式が主流になり、変速機は電動。手頃なロードコンポーネントだったシマノの105シリーズでさえ、電動モデルは一式が約20万円。

10万円程度の予算でエントリーモデルのロードバイクを手に入れることができたなんて昔の話になってしまった。趣味性が強いミニベロでさえ大幅に値上げされ、完成車が30万円とか。

賃金の上昇が物価や光熱費のインフレに追いついていない日本の社会において、サイクル用品の値上げを気にせずに趣味を楽しむことができる人はどれくらいの割合なのだろう。

コロナ禍での自転車ブームによって、大きなシェアを占めていたシマノはさらに大きな存在感を持つようになった。しかし、企業全体が浮き足立っているような気がしてならない。このままではスポーツ自転車がユーザーから見放され、高性能カメラのように一部のコアな人たちしか相手にしてくれない時代が来るように思える。

サイクリングの代替として始めた散歩がパワーウォーキングに移行し、途中からノルディックウォーキングに移行し、より高い負荷が欲しくなってバウンディングテクニックを取り入れたノルディックスキーウォーキングに移行した。

あまりに変化が大きい社会において、趣味のサイクリングで落車して仕事に影響があったら大変だとか、夫婦関係が芳しくない現状では負傷しても家族が助けてくれないとか、それでも何とかして心身のコンディションを整えたいとか、まあそういった様々な都合があってパワーウォーキングを始めたわけだ。しかし、これまでサイクリングで時間と金を使い、歩行者や自動車に苛つきながら走っていたことが馬鹿らしく感じる時がある。

また、パワーウォーキングを始めた頃は、電車に乗って様々な場所を気楽に歩いて汗を流すというイメージがあったのだが、現時点では浦安市の新町の海沿いのルートを繰り返し歩いたり走ったりという運動を続けていて、当初に描いていた姿とは大きく違った方向に転じている。

サイクリングの場合には歩行者や自動車に注意したり、走行速度や踏力が気になったりと、様々な場面で気持ちが途切れる。他方、ノルディックスキーウォーキングの場合には音楽を聴きながら黙々と同じ動作を続け、飽きてきたらバウンディングで心拍を上げたり筋肉に負荷をかけたりと、ほぼ全てが自分のペースだ。

そのため、マインドフルネスの心的状態の導入が非常に早く、禅を行った時のように気持ちが整理されて心身共に楽になる。

とりわけ、新浦安の三番瀬沿いから総合公園を折り返すルートは信号や横断歩道が全くないので、10kmでも20kmでも好きなだけノンストップで歩くことができたりもする。路面にはウレタン舗装がなされていて膝や腰にも優しく、心地良い海風が吹いている。

都内に住んで皇居の周りの混み合った狭い歩道を通行し、自動車の排気ガスを胸一杯に吸い込んでいるウォーカーやランナーたちが気の毒になったりもする。

さらに、このルートは直線的に続く海沿いの一本道だけではなくて、様々な楽しさがある。

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三番瀬沿いでは波が打ち寄せる音を聴きながらランやウォークを楽しむことができる。YouTubeで自然音だけが流れているチャンネルがあったりもするが、これは録音ではなくてリアルな音だ。デトックス感が半端ない。

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そして、ウォーターフロントにたどり着くと護岸が解放されていて、そのまま進むと広い場所に入ることができる。どれくらい広いのかというと...

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レッドブルエアレースで実際に使用されたが、浦安の護岸は小型の飛行機が離着陸することができるくらいに広い。あまりに広すぎて近隣のホテルの観光客どころか地域住民でさえ密度が疎らで、歩き放題で走り放題。コースとしては楽しくないかもしれないが、ロードバイクのクリテリウムレースが開催されても手狭に感じないくらいに広い。

しかも、路面が整地されているので、ノルディックポールのラバーチップがよく吸い付いて歩きやすい。

アスファルトの路面を存分に歩いた後で護岸の階段を上がって浦安市立の総合公園に行くと、今度はアスファルトではなくて草地を歩くことができる。この草地がとても広い。

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カメラに収まりきっていないが、この公園では定期的に自衛隊の大型ヘリコプターが離着陸して訓練している。それ程までに広い。そして、公園の海沿いの縁はデイキャンパーや家族連れが全く使っていないので、往復で陸上競技のトラック1周分の距離を誰にも邪魔されずに走ったり歩くことができる。

ヨーロッパのノルディックウォーカーたちの写真や動画では、アスファルトの上ではなくて草の上を歩いていたりする。地方の田舎ならばともかく、首都圏でこのようなスタイルを楽しむことができるなんて、かなり恵まれている。

変化に富むルートを黙々と歩き続け、バウンディングで負荷を高め、もうそれだけで十分なくらいに楽しくて満足感がある。ウォーキングが終われば近くの自宅に戻ってシャワーを浴びることができる。したがって、休日に浦安から他の自治体までウォーキングに出かける必要性がなくなってしまったわけだ。

何時間も歩いていると、文字通りに地に足を付けて考える時間が十分にある。社会に押し寄せている大きな変化の実体とは何なのか。イレギュラーなパンデミックを契機として、人々の「欲」が吹き出た結果が現状を導いているのではないか。

世界全体が浮き足立っていて、社会が正気を失っているように感じる。その環境の中で、自分はただひたすら歩いたり、走って汗を流している。陽の光を感じ、風を感じ、潮の香りを感じている。

ポールを持ったウォーキングは、人間のアクティビティとして極めて原始的であり、工業製品がなくても実行しうる。その気になればノルディックポールなんて木や竹の棒でも代用することができ、シューズがなくても歩くことができる。現に、江戸時代の旅人や平安時代の修行僧だって杖を持って足袋やワラ草履で歩いていたわけだ。

回帰主義に目覚めたわけではないが、情報や技術が進みすぎた社会においては、シンプルで古典的な生き方に戻ることで気持ちが落ち着いて穏やかになる。

サイクリングに熱中していた頃の私は、浦安市の海沿いなんて距離が短くて何も楽しくないと無視していた。不思議なことに、その当時の私はウォーキングの価値なんて何も見出せず、ウォーカーたちはなぜ歩いているのかと疑問に感じていた。

ノルディックウォーキングなんて、行政とそれにぶら下がっているNPOが旗を振って社会に広めている高齢者の健康運動だと思い込んでいた。しかし、その認識は間違っていた。現に欧州ではノルディックウォーキングが老若男女に普及している。

過去あるいは現時点での自分が認識しうる世界はそれが全てではなくて、思考の転換あるいは偶発的なタイミングによって、一部もしくは多くが広がったり閉じたりするものなのだろう。

当たり前と言えば当たり前な真理に気が付いたところで、五十路が近い私の人生の残りは20年程度。この限られた時間をどのように使い、どのような世界を経験することができるのだろう。

社会の変化に飲み込まれたまま深く考えずに生きていたら、気が付くと老人になっていたというパターンになる。どうすれば人生の残り時間を味わうことができるのだろう。

社会の流れが速いと感じているのであれば、そのスピードが遅かった時代の生き方を振り返ることで体感する時間が変わるのではないか。外的環境からの情報が人間の脳の処理速度を超過し、常にオーバーフローを起こしているから自分が流されているように感じる。周りからの情報を減らせばいい。

人生の残り時間を味わうための答えが昔ながらの生き方の中にあると察した私は、すべからく回帰することは困難であっても、昔ながらのレトロなスタイルを生活に取り入れることにした。

早朝や深夜どころか24時間にわたって店舗が営業し、常に食べ物があるという環境では、腹が減ってなくても何かを食べてしまったりする。

これは違うと思ったので、空腹になった時点で食事を摂ることにした。この習慣はダイエットにも効果がある。

また、ほぼ習慣的にスイッチを入れていたエアコンの使用を最小限に留めて扇風機を使うことにした。

浦安市内を移動する時には自動車やバスを使わず、自転車にも乗らず、歩くことにした。

それ以外にもネット動画を視聴するのではなくラジオを聴いたり、メモは情報端末ではなく紙の手帳に自筆で書き込んだり。昭和の時代では普通だったことに戻ることにした。

昭和の時代でもバスや自転車は普通だったか。まあいいや。

不思議なことに、自分自身が感じる時間の流れを遅くしようとレトロでシンプルな生き方を試みると、自分の時間を効率的に使っているように感じる。だが、この感覚は何ともパラドキシカルだ。デジタルが普及した現代風のスタイルの方が効率的で時間の節約になることは間違いない。しかし、レトロなスタイルの方が時間の存在を感じる。不便で非効率的な生き方では、その時々の記憶がスキップされずに残るからだろうか。

そもそも人の生活なんて本人にとっては何らかの意味があっても、客観的に考えると多くが無駄なことばかりだ。無駄なことに手を広げてデジタルで効率的に処理したところで、結局は時間の無駄になり、記憶にも残らないという解釈になるのだろうか。

そういえば、街中を漂うスマホゾンビたちの姿は自分で自分の時間を捨てているように見える。個々の時間や思考がスマホによってを吸い取られ、頭頂部にキノコが生えているようなイメージさえ浮かぶ。

ネット動画やSNS、ゲームで人生が豊かになったのか。プラスチックの小さな板を見つめてどれだけの時間を過ごすのか。その時間で自分の生き方を考えた方が建設的だが、個人としては一時的な快楽を優先する。たとえ意味がなくて無駄なことであっても。

世の中が便利になりすぎて、不便なことを忌避し、とかく効率性を追求するような世の中になってきた。それによって自分の中で過ぎ去る時間がとても早く感じるようになった。

浦安市という街は確かに便利な街だ。田舎のように買物や外食のために他の街に行く必要がなく、ほぼ全てが市内にある。パスポートでさえ市内で取得することができる。電車一本で東京駅にアクセスすることができ、シャトルバスに乗れば眠っていても羽田空港にたどり着く。

それらは街の良さなので、せっかちで短気で我が強い人たちが集まってきて住み着く。そこに膨大な数の観光客が押し寄せる。街も人もペースが速い。その環境の中で自分が漂流しているような感覚があって私は疲れる。

流されながら生きているような時間を遅くするにはどうすればいいか。それは、あえて不便なことを楽しんだり、昔ながらのスタイルに戻すことなのだろう。全てを回帰させることは不可能だが、生活の一部を回帰させると何だか落ち着く。

その線で自分の生活を観察してみると、毎日の髭剃りで電動シェーバーを使っていることが気になった。これは良い機会だと、以前から試してみたかった昔ながらの両刃カミソリを使うことにした。プラスチック製の使い捨て製品ではなくて、替刃を取り付けるタイプのクラシックな金属製のシェーバー。

色々と調べてみると、なんとヒゲ剃りを趣味にしている人たちのクラスターがあることを知った。あまり他者にアピールするような趣味ではないかもしれないが、個人でひっそりと楽しむ素敵な趣味だな。

この趣味クラスターの人たちは、たくさんの種類のシェーバーホルダーを保有し、理髪店のように自分でブラシを使ってフォームを泡立て、剃り心地や仕上がりを味わったり、両刃カミソリをメンテナンスしたり、骨董品のように数々のシェーバーホルダーを眺めて楽しむらしい。かなり深遠な趣味だが、趣味と実生活が美しく調和している。

私の場合にはヒゲ剃りを趣味にするつもりはない。朝に目覚めて「ああ、今日も電車地獄なのか...」と絶望する前に、朝の楽しみを用意しようと思ったわけだ。面倒になって電動シェーバーに戻るかもしれないし、そのまま習慣化するかもしれない。限られた人生の残り時間だけれど、仕事でも家庭でも繰り返しばかりが続く時間でもある。この程度の試行錯誤がないと生きることに飽きてしまう。

ところで、直近のネット社会では大きな変化があった。単一企業の営利活動の枠を超えて、情報インフラの一部になってしまっているTwitter(ツイッター)が、アカウントを保有してログインしないと情報を閲覧することができない状態になったらしい。

ツイッターの実質的な最高責任者であり、色々と話題が豊富なイーロン・マスク氏の説明としては、ツイッターのデータがAIを取り扱う企業にスクレイプされており、それらを防ぐための一時的な対処なのだそうだ。多くのネットユーザーから改悪と揶揄されるツイッターの仕様変更は頻繁に行われており、これが一時的なもので留まるかどうかは分からない。

世界の中でも日本のネットユーザーはツイッターが大好きなので、SNS依存症のようになってしまっている人がたくさんいる。その状況は、不文律が多い日本社会の中で自己愛や承認欲求を充たしたい人たちの多さ、あるいは短気で嫉妬深く愚痴っぽくて底意地が悪い人たちの多さを反映しているかもしれない。

私はツイッターのアカウントを有していないのでよく分からないのだが、ログインして情報を閲覧し続けているとユーザーのメタデータが変化して望まないユーザーと連携されてしまったり、ブロックを受けたユーザーのツイートをログアウト状態で閲覧したい場合があるらしい。色々と大変だな。

また、行政や企業、店舗、各種団体等においては、アカウントの有無に関わらずツイッターが重要な情報配信の手段になっている。アカウントを保有してログインしないとツイートを閲覧することができないと、情報を受け取るネットユーザーが限られてしまう。

ツイッターがこの状態では不便だと憤っている人たちが大多数ではあるけれど、私なりにはこれで良かったのではないかと思ったりもする。マスク氏も「端末から離れてリアルに戻れ」と言っているくらいだ。情報が流れていると見たくなるのが人間の性質であり、私もたまにツイッターを見たくなることがある。

しかし、そこで得られる情報は私が生きる上で大して意味がなく、脳の活動と自分の人生の残り時間を浪費しているだけ。

災害等のリアルタイムな情報であれば話は別だが、結局のところ、自分の周りの社会がどのように動いているのか、あるいは他者がどのように生きているのかを知ることで安心したい。ただそれだけ。そして、実際には多くの人たちの内面の醜悪さを感じて疲れることの方が多い。

仕事においてネットは便利だけれど、可能な限り昔の生き方に戻り、ラジオで情報を得て、時間に余裕があれば図書館で本を借りて読書に浸り、陽の光を浴びながら運動する。変化の波が大きくて速い時代では、むしろ地に足を付けて生きた方が有意義に過ごすことができるように思える。

最近ではミニマリズムというミームが広がっていたりもするけれど、便利だが重荷になるような物や活動、人間関係等を省くことで感じられる世界があるのだろう。

五十路が目前となった私には、虚無感や徒労感、そして焦燥感といったネガティブな気持ちが増え続けている。増えるというよりも、迫ってくる、あるいは襲ってくるという表現の方が適しているかもしれない。そして、そのような感情を制御する術が見つからず、ただ暗澹たる雲を眺めているような気分が続いていた。

しかし、解決に至る道は思ったよりもシンプルなのかもしれないな。当然だと感じていたことを再考し、それらが本当に生きる上で必要なのかを丁寧に考え、無理がない範囲で簡素化し、生き方そのものをシンプルに仕上げていく。とりわけ、効率的ではあるがストレスを感じることを減らし、非効率的ではあっても落ち着くスタイルに戻していく。

その状態から老後までを漸次的に滑らせていくことで、終わりが近づく将来への不安を減らすことができるのかもしれない。詳しい機序はよく分からないが、試してみる価値はありそうだ。

そのうち、自然がある場所に家を買って、生ゴミから堆肥を育てて野菜を育てたり、鶏を飼って産みたての卵で朝食を作るかもしれないな。バリカンを使って自分で散髪をするような爺さんになるかもしれない。それも素敵な生き方だと思う。