2023/06/04

家庭の崩壊に至る無敵モードとそれを無効化するためのスイッチ

悲観的になりすぎない録を記すと自分の思考が少し前向きになる気がするので、今回も前向きになるような録を記す。昨年(2022年)の6月から自分が稼いだ金の収支を可視化して節倹生活を始め、節税と老後の小遣いを考えて積立投資を始めた。ふるさと納税もフルベットだ。しかし、半年程度が経った今年(2023年)の2月からパワーウォーキングという自分にとっては新しい動的な趣味を始め、同年4月にノルディックスタイルのパワーウォーキングの魅力を知った。

この間の我が家にはウォーキング用品が頻繁に配達され、3月から6月までのクレジットカードの明細は、節倹生活と対局にある「オッサンの散財」の様相を呈した。妻も子供たちも私が新しい趣味に熱中していると勘違いしているかもしれないが、実際には家庭崩壊の寸前であり、かなり深刻な状態だった。私はその危機を回避しようと取り組んでいた。


最近、録の更新が遅くなっていた理由は、自宅の近くにイレギュラーな人が出現して連続事件を起こして疲れているだけではなくて、せっせとウォーキングに励み、録を記している余裕がなかったからだ。

それにしても、ウォーキングシューズの沼で10万円程度、ウェアやバッグの沼で10万円程度、そしてノルディック用のポールの沼で10万円程度。数年間の節倹生活や節税で得られるであろう金が吹き飛んだが、消耗品としてのシューズおよびノルディックポールのラバーチップを除くと、ウォーキングギアは長期の使用が可能だ。

つまり、ロードバイク沼のようにずっと出費が続くわけでもない。また、オッサンが脱サラや不倫の沼に落ちた場合の出費と比べると、ウォーキング用品の沼は浅い。勢いで沼を埋め立てることさえできる。しかし、比較する対象がおかしくもある。

うつ病から寛解する人たちの多くがウォーキングからリハビリを開始することでも明かな通り、この運動はメンタルの不調を改善させる。また、老いに伴う筋骨格系および心臓血管系の劣化を遅らせるという効果もあるそうだ。

実際に自分で取り組んでいるからこそ感じることがある。ウォーキングの効果や重要性についての情報を、江戸時代以前の人たちはどうして後世に伝えなかったのだろう。諺の類いでウォーキングに該当する内容があっただろうか。

駕籠や馬があったとしても、庶民にとっては徒歩による移動が当然であり、日光を浴びながら歩くことが健康に良いということに気付いていなかったのだろうか。

振り返ってみると、2015年頃から続いた家庭のストレスによって、私はバーンアウトを起こした。そのストレスは妻の家庭内暴力、ディズニー客が押し寄せる中での往復3時間の通勤地獄、地域住民とディズニー客で混み合って鬱陶しい住環境、および浦安市内の義実家からの過干渉やアポ無しでの自宅への突撃が多くを占めた。気が狂いそうなという表現が比喩ではない状態まで私は追い詰められた。

そして、2016年から2018年にかけて精神の井戸に落ちて苦しんだ。感情が消え、ほとんどのモチベーションを失い、目に見える文字が流れて読めない状態になった。最悪の数年間だった。

2019年に家族ではなく私自身の忍耐と努力によって辛うじて寛解の兆しが訪れ、その時からこの録を記し始めた。

子供たちを転校させまいと今も引っ越さずに耐えているので、浦安住まいという地獄のようなストレスが解消されたわけではない。もちろんだが、心身の不調も続いている。

とても深刻なことに、婚姻関係や家庭の維持について言及すれば、バーンアウトを起こした2016年頃よりも、今年、つまり2023年の1月頃の方が危険な状態だった。うつ病やパニック障害を発症したというわけではないし、過去の録を確認した限りでは色々なことを考えながら地道に生きてきたことが分かる。

浦安住まいのストレスによって、吐き気を催すほどの激しい浮動性の目眩が1年以上も続いた。コロナ禍によって相応のストレスがかかったが、人流が減ったので私には楽だった。そこから再び混み合った住環境や通勤が戻ったという変化に飲み込まれた。

間違いなく適応障害なわけだが、この目眩が自分の精神を凄まじい勢いで削り取っていった。

あまりに無様なので該当する録を非公開に設定しているけれど、2022年の12月の深夜3時に夫婦の怒鳴り合いが勃発した。

玄関の防犯カメラに記録されているデータを確認したところ、私が職場に通っている時間帯に浦安市内に住む義母がもの凄い頻度で我が家を訪れていることが分かった。

自分の家庭が消失し、義実家の別館になっていることを激しく嫌悪した私は、精神性の吐き気を催した。住居費を全て支払っている私の家庭は、どこにあるのか。

この状態が異常だと思わないのかと妻に抗議した。しかし、義実家と共依存している妻は、何が悪いのかと開き直って引かない。

自分の家庭を持ったはずなのに、義実家が境界線を踏み越えて入ってきて、自分の家庭を荒らして引っ張り込んでしまう。

これでは家庭を築くことの幸せも意義深さも感じられない。

私のストレスは閾値に達し、この家庭に私がいる必要性は何だろうかと素になって考えた。私が望んだ家庭は、実質的に義実家に乗っ取られ、妻だけでなく子供たちでさえ私の味方にならない。私はこの街でたったひとりだ。

浮動性の目眩が1年も続いて苦しんでいるにも関わらず、妻は何ら気にしていない。この人は共依存している義実家以外の人たちの気持ちを察することができない。夫なんて大型家電と同じように扱う。メンタルが壊れたなら、自分で病院に行って治せと。子供たちも同様。私が疲れていても家の中で大騒ぎする。自他境界が曖昧なんだ。この人たちは。

このような生き方ならば、私は妻子と連れ添う意味がない。このような家庭を放棄して、残りの時間を自分のために生きたいと私は考えるようになった。

そして、些細な出来事から、私の中に蓄積した「家を出たい」という衝動が爆発し、止まらなくなった。

その出来事とは、帰宅時の玄関で妻や子供たちが自分の靴を揃えず、乱暴に脱ぎ散らかしている状況を見た時だった。妻はADHDの傾向があり、子供たちも同様。靴だけでなく片付けることが苦手だ。このように荒れた自宅に帰りたくない。

そして、深夜に風呂に入ったところ、洗顔剤やコンディショナーのチューブのフタが空いたまま転がっていた。妻は容器のフタを閉じないという癖があり、それが面倒なのかフタを閉じることを忘れるのか、その理由は分からない。洗剤や調味料など、様々なフタが開いたまま放置される。

この瞬間、激しい衝動が再び自分の中に押し寄せた。

実際に行動に移すと、この家庭は間違いなく崩壊する。これまでの私は大きなストレスを受けても、家庭が壊れることのリスクを色々と考えて踏み留まってきた。しかし、些細なことで後先を考えずに全てを放棄したくなるという無敵モードに入った気がした。

そういえば、「アイネクライネナハトムジーク」という映画の中では、主人公の上司の妻が家を出て行ったというエピソードが夫婦関係の象徴として作品の冒頭からクライマックスまで続いている。

この作品において、妻が夫を捨てて家を出て行く契機となったのは、夫の不倫だとか派手な夫婦喧嘩だとか、そのようなトラブルによるものではなかった。

夫が自分でワイシャツのタグを着るためにハサミを使い、それをテーブルの上に出しっ放しにしていた。その光景を見た妻が家を出て帰らなくなり、この夫婦は離婚することになった。それまでの経緯が積み重なり、テーブルの上のハサミは心の中のスイッチでしかなかったのだろう。

どのような夫婦であっても互いの軋轢は生じるものだ。バケツに雨水が落ちるかのように夫婦の不満や軋轢が溜まり、小規模の対立や和解によってそれらが蒸発し、再び溜まるというサイクルを繰り返すのだろう。

ところが、そのままクライシスを迎える夫婦の場合には、不満や軋轢が減ることもなく溜まり続け、大きなトラブルでもない事象によってバケツがひっくり返り、勢いを付けて別居や離婚に突き進むということか。確かに、この無敵モードのような思考のゾーンならば理解しうる。

今まで頑張って家庭を築いてきたという気持ちとか、家庭が崩壊した後で妻や子供たちが経済的に苦しむとか、もちろん自分も喪失感に苛まれるとか、そのような思考がどこかに消え、ただひたすら全てを放棄したくなる思考だけが衝動として襲ってくる。

3組に1組の夫婦が離婚するという昨今だ。不倫や激しい夫婦の対立だけがそれら全ての理由ということは考えにくい。なるほど、自験例に基づき、このような無敵モードが起動していると考えれば辻褄が合う。

おそらく、映画で描かれていたように、また私自身が実体験しているように、現状の生活で我慢を重ねた挙げ句、まるで精神の糸が切れるかのように強烈な虚無感というか焦燥感というか、まあとにかく現状の放棄に向けた内的なスイッチが入り、それが離婚に繋がることがあるのだろう。

現実的な話として、妻や子供たちが私を嫌っていたとしても、無敵モードになった私が家庭を出て行くと、間違いなく妻子には経済的なデメリットが生じる。

離婚したとすれば、それまで私への感謝や労いが少なかった妻子のことを気遣って大切にするとは思えない。無敵モードのまま私が家を出たら、自分の大切さを知らしめるために合法的な意趣返しを行う可能性まである。

また、別居したとすれば、2世帯分の住居費や光熱水費が必要になるので、当然だが世帯の出費は増え、子供たちの教育費や夫婦の老後の資金は減る。そして、義実家は我が家に口を出すけれど金は出さないので頼りにならない。

他方、まるで家に懐かない飼猫のようであったとしても、私が家族と距離を取りながらも夫あるいは父親として居続けた場合、妻子にとっては経済的にメリットがある。

職業人をリタイアするまでは歩くATMとしての役割を担い、その途中で私が死亡した時には妻に多額の保険金が支払われる。子供たちの教育費も何ら問題ない。

職業人をリタイアした後でも、私が積み立てた老後資金を使うと妻の生活は楽になる。私が先に死亡すれば、それらの金は妻に支払われる。

他方、私が家を出てしまい、他の中年女性と再婚あるいは事実婚のような形になった場合、とりわけ、その女性の連れ子が家族になった場合、金について非常に揉める。まあどのように考えても面倒なトラブルしか考えられない。

家庭崩壊に進む無敵モードのスイッチが入り、そこからクライシスに向かって走ってしまう夫がいて、これはいかんと踏み留まる夫がいて、それらの葛藤は3組に1組が離婚という現状において大なり小なり関わっているのだろう。

1年以上も続く激しい浮動性の目眩や浦安住まいのストレスが背景となって、2023年の1月に私の無敵モードが起動してしまったらしい。この思考は非常に厄介だ。子供の人生だけでなく、生まれたとすれば孫の人生にも影響するようなインシデントになりうる。

この無敵モードを解除するためのスイッチを形而上学的に探してみたのだが、OFFのスイッチが見当たらず、ONのスイッチが至る所にある。

朝にシャワーを浴びようとしたら、深夜に入浴した妻が浴室の床にコンディショナーと髪の毛を撒き散らしたままドアを閉め、内部が乾燥せずに熟成されていたとか。

冷蔵庫の製氷機の水のタンクがいつも空になっていて、私が頻繁に水を補充しても子供たちが氷をゴッソリと使い、しかし水を補充しないとか。

電気代が値上がりしているにも関わらず、上の子供が自室の電気を付けっぱなしにして寝ていたとか。

高い金を払って下の子供を中学受験塾に通わせているにも関わらず、本人が学習をサボって遊んでいるとか。

妻が義母と共依存していることは私にとって多大なストレスになっている。浦安と都内の通勤地獄も最悪だ。しかし、無敵モードに入る瞬間の衝動は些細なことなんだ。しかし、衝動としては間違いなく存在し、この精神状態を解除するための論理的な思考が見つからない。なんだこれは。

つまり、何らかの意義付けや行動によって、無敵モードを解除するためのスイッチを自分で作るしかないのだろう。それらを用意することさえ放棄した夫たちは、家庭を捨てたり、不倫に突き進んだりもするのだろうな。

ところが、2023年の1月に私の頭の中で上記の無敵モードが出現し、幸いなことに翌月にパワーウォーキングという解除のためのスイッチがあることに気が付いた。

それまでの録を眺めてみると、パワーウォーキングに巡り会う前にも様々な趣味を思案し、この生き方がより良くならないかと試行錯誤していたことが分かる。

必ずしもスマートな生き方ではなかったとしても、自分に与えられた時間を味わいながら生きていることは分かる。

荒川や江戸川の河川敷では、後ろ向きに歩いているイレギュラーな老人や中年男性がいたりもするけれど、通常、ウォーキングは前に向かって進む。前に進み続けている状態で後ろ向きな思考を展開することは難しい。身体を立ち止まらせずに進めると、なぜか思考も前に進む。

私なりには、家庭を人生の中心に置くからしんどくなるわけで、残り時間のタイムフレームの中でリアルなRPGを行っていると思って生きればいいという結論に至った。

相応の責任や義務があったとしても、また現状が理想と大きく異なっていたとしても、全てについて自分に非があるわけでもない。ゲームの中で夫や父親という役割になり、その役割をどのように演じるか。自分の寿命をかけた個人的には壮大なゲームだな。

しかし、これは違ったと無敵モードに入って全てをリセットしたくなったとしても、生きる中で費やされた時間を取り戻すことはできない。それならば、クライシスを起こす思考を起動させず、より楽しく、心穏やかに残り時間を使う。それだけでいいように思える。

ウォーキングギアの出費は大きかったが、夏のボーナスの一部を使って、家庭の崩壊を起こす無敵モードの解除スイッチを手に入れた思えば、残りの人生においてはコスパが良い買物なのだろう。

間接的ではあるけれど、無敵モードの解除スイッチがAmazonや楽天から届いたという経緯に時代の趨勢を感じたりもする。