2023/05/28

奴隷のような扱いだと嘆く友人のチート冒険者のようなリフレッシュ

新浦安に住み続けているとストレスによって重度のうつ病になりそうなので、たまには奇想天外で明るい話を記す。私ではなくて友人の実話だが。

「仕事で奴隷のように扱われ、家庭で妻から奴隷のように扱われ...疲れたので遠くに行って、羽を伸ばそうと思います」という内容のメールが届いた。メールの差出人は古くから付き合いのある同世代の友人。人生色々だなと、私は彼に深い同情を感じつつ、しかし常人ではありえないシュールな展開に驚いて笑い声が出た。


オッサンが仕事と家庭で疲れ果て、現状から逃げたくなることはよくある。むしろ、毎日が楽しくて仕方がないというオッサンの方が珍しい。

つまらない人生を少しでも楽しく過ごそうと趣味を探したり、飲みに出かけたり、女性の尻を追っかけたり。一時的であってもリフレッシュする術を求め、自分で何とかしながら生きようとする中年男性の姿には、哀愁が漂う。

しかし、彼の場合には状況が違う。そうか、チート級の人生の場合には、このような展開になるのかと。

その友人からのメールに書かれていた内容だけを見ると、疲れた中年男性によくある虚無感や徒労感が表現されているように思える。いや、その友人としては実際に仕事と家庭で疲れている。それは間違いない。

そして、一般論ではあるけれど、このような感情をこじらせると人生のクライシスに陥ったりもする。職場を退職して脱サラしたり、夫婦の不和により別居や離婚したり、うつ病を発症して無職になったりと、よくある話だ。まるで崖に向かって彷徨い歩き、そこから落ちるかのような悲観的な展開になる。

しかし、その友人の場合には崖に向かって歩き、背中に生えた大きな翼を広げ、あるいは地面に巨大な魔方陣を展開して空中に浮き、そこから遠くに飛び去ってしまうかのような印象がある。

また、奴隷の鎖を引きちぎって飛び立つというよりも、ポケットから鍵を取り出して解錠し、戻ってきたら再び自分で鎖を付けるような律儀さを感じる。ドリフターズのコントでよく似た話があった気がする。本人が真面目なだけに面白い。

その友人が有名大学の教授に就任したのは、四十路に入ってすぐのことだったろうか。彼と私の実家は近所にある。赤ん坊の頃からの幼なじみで、保育園、公立小学校、公立中学校まで同級生だったので互いによく知っている。

その友人はとりわけ机上の勉強が得意というタイプではなく、試験の成績は私の方が上位だった。そして、彼は中堅私立大学の学部から旧帝国大学の大学院というルートで博士号を取得し、その後に任期付の雇用を経験し、すぐにテニュア・トラックに入った。余程に優秀だったのだろう。

彼は子供の頃から受験エリートではなかったが、興味を持ったことついてはマニアックなまでにハマるという性質があった。その着眼点や洞察力が非常に鋭かった。

子供の頃の私は、彼が非凡な才能を持っていることに気づいていたけれど、何の才能なのかが分からなかった。楽器の演奏が上手いとか、速く走るとか、算数が得意とか、そのような分かりやすい尺度では測りかねる何かなのだろう。私の頭の中では、その答えが見つからなかった。

その友人が特定の学問分野において優れた研究能力を有していることが分かったのは、大学の学部を卒業し、大学院に進んだ後だったらしい。

30年以上前、その学問分野は未開拓であり、多くの受験エリートたちは見向きもしていなかった。つまり、その友人が学生時代だった頃には、卓越した能力を測るためのフィールド自体が整っていなかったという解釈になる。

しかし、彼が研究を続けているうちに、社会が彼の能力を必要とするような時代になった。格好良い話だ。男の人生は、かくありたい。

最近の社会では「ギフテッド」という概念や用語が広がっている。一部の分野について卓越した才能を有する人たちのことだ。米国ではギフテッド・チャイルドに特化したガイドラインやプログラムが用意されている。

日本においては、第二次世界大戦末期に「特別科学学級」という英才学級が設けられた。特科学級の卒業生たちのその後を眺めてみると、選抜された子供たちには実質的なギフテッド・チャイルドが含まれていたことがよく分かる。

ところが、高度成長期以降の日本は、特科学級のように突き抜けた才能を集めて伸ばすというよりも、あらかじめ社会が考える平準化した「枠」を設定し、その枠に適した人材を競争率によって選抜するような社会になった。

私のような団塊ジュニア世代における受験戦争はその典型的なパターンだ。突き抜けた才能を選抜するのではなくて、五教科で満遍なく高得点を出すか否かで若者たちが選抜されていった。

「○○大学卒」というレッテルを人物の頭の良さと勘違いする風潮が定着したのは、団塊ジュニア世代の親の世代、つまり団塊世代だと私は考えている。

団塊世代の大学進学率はあまり高くなかったので、自分の子供たちには大学を卒業してほしいという気持ちが高まったらしい。現在では定員割れが深刻化しているFランクの私立大学が増えた背景には、このようなニーズがあったのだろう。

とはいえ、その友人の場合には、個人の能力に対して時代が後から付いてきた。本人も大変だったことだろう。

月日は流れ、その友人の非凡な才能は同業者だけでなく、関連する多くの人たちから求められることになった。彼の研究は真理の探求というよりも、社会の進化に伴って必要とされる実学だ。研究がビジネスに活用された場合には巨額の金が動くこともある。

よって、学者だけでなく様々な分野の偉い人たちが彼の能力や実績に気づき、職場の上司でもないのに多くの仕事が彼に託されたらしい。

そして、天から降ってくるたくさんのミッションについて地道に応じていたところ、職場の外での評価がさらに高まり、まさに階段を駆け上がるかのように別の大学の巨大な講座の教授に抜擢された。

彼としては「職場の外の偉い人たちに引っ張り上げてもらった」と謙遜していたが、職場の中で上司のイエスマンに徹して媚びへつらいながら出世したわけではない。旧帝国大学を卒業してもアカデミックポジションに就くことが難しいご時世に、自らの才能と実力、そして努力で新たな扉をこじ開けた。

そういえば、私の高校時代、京都大学に現役合格した同級生がいたな。彼は自分の学力を過信して、将来は研究者になると自惚れていた。しかし、大学院の博士課程に進学した直後から始まる激しい競争に負け、非正規雇用を何度も続け、研究の世界からリストラされ、心身を壊して失職し、その後は清掃会社で働いていた。近況は知らない。

アカデミアの世界を志した人たちならば、まあよくある話だと思うことだろう。この世界は、東大卒だとか京大卒といったレッテルが通用しない。業績を積み重ねて常勤職を獲得することができないと、40代になっても1年間の短期雇用だったり、妻子がいても雇い止めで無職になったりする。その時には再就職において学歴のレッテルが使い物にならず、本人にとっての最後のプライドとして残るのみ。

俺はロックで生きていくという世界に近く、夢敗れた人たちが無数にいる。

研究者になると日本だけではなく、世界中の猛者たちと戦うことになる。試験勉強が得意な僕って頭が良いなんて自惚れていると、一気に食われることだろう。

大手の中学受験塾が発行している雑誌には、有名私立中学に合格した子供たちがドヤ顔で登場し、「将来の夢は研究者!」と書いていることが多かったりする。残念ながら、この子たちは有名大学に合格しても夢破れ、修士課程で大学院生活を終え、堅実な職業に進むことになる。受験業界のアイドル扱いだ。

灘高から東大に進んだ人のうち、どれくらいの割合が教授になっているかを調べると、あまりの少なさに驚くことだろう。

もとい、教授になった友人がどれくらい偉くなったのかを見てみようと思い、私は菓子折りを下げて彼の職場を訪問したことがある。

とても広いフロアにオフィスがあり、たくさんのデスクやチェアが並んでいた。大学の研究室にも色々な種類があり、教授と学生数人が同居する寂しい小部屋があったり、たくさんの正規職員と学生が常駐しているビッグ・ラボがあったりもする。彼の研究室は後者のタイプだった。

誰がスタッフで誰が学生なのかよく分からなかったが、菓子折りの菓子が足りないことだけは分かった。

このアウェイな感覚は、まるでRPGや転生系のアニメでよくある冒険者ギルドに初めて立ち寄った一見さんのようだ。その友人がS級の冒険者あるいはギルドマスターのように扱われており、彼の隣で歩いているオッサンは誰なのかという部下たちからの視線が痛い。

久しぶりに再会した友人は、若い頃よりも穏やかな雰囲気で、部下たちにも礼儀正しく接していた。部下たちからの信頼も厚いのだろう。優れた上司には様々なタイプがある。とりわけ、ボスがいなくなっても、しばらくの間はチームがそのまま機能するような組織づくりが得意な上司の下は働きやすい。彼もそのようなボスなのだろう。

中学の修学旅行の旅館で共に不味い飯を食った同級生が、とても遠くにいる。私の心に競争心や嫉妬は生じず、ただ純粋に彼を誇らしく感じる。

冒頭の話に戻る。

その友人からのメールには、仕事で奴隷のように扱われ、家庭で妻から奴隷のように扱われという苦悩が書かれていた。

「仕事で奴隷」という表現は、普通に解釈するとブラック企業のような場所で拘束されて酷使されているように感じられる。

しかし、彼の場合にはパワハラ上司からコキ使われているわけではなくて、その機関で最も偉い人の片腕となって大学を運営しているので忙しいという話。大学なので学長補佐のような立場なのだろうか。仕事ができる人に仕事が回ってくるという典型的なパターンだな。

このようなポジションは大学の経営にまで関わるので、政治家やマスコミともやり取りすることになることだろう。それに加えて、ビッグ・ラボの運営まで任されているわけで、業務量に天井がない。

妻から奴隷のように...という点については彼のプライバシーに関わるので以下略。

そして、疲れた彼が向かう先は、外国にある大学。日本だと旧帝国大学のような感じの歴史ある高等機関だ。

その友人は、日本の大学教授だけではなく、外国の大学の教授職を兼業している。しかも、客員教授ではなくて正規雇用のフル・プロフェッサーなので、自分の研究室が日本だけでなく海外にもあり、そこにも部下がいる。その経緯を私は知らない。公募ではなくて、他者からの紹介による引き抜きだろうか。

チートだ。チート過ぎる。前世で何をやると、このような生き方に転生するのだろうか。

四十路に入っても職を探しているアルバイト研究者には信じられない話だろう。

彼の給与体系がどのような状態なのか分からない。日本のクロス・アポイントメントという教授の掛け持ちの場合には、国立大学の独立行政法人化に伴う人件費削減のための苦肉の策だったりもする。ひとりの教授が複数の大学で教育や研究を行って、複数の機関で人件費を折半するという仕組なので、教授の収入が大幅に増えるというわけではなさそうだ。

しかし、外国の大学から教授として引き止められる場合には、日本の大学よりも厚遇を用意してくることだろう。だとすれば、年収数千万円というレベルだろうか。

その友人は子供の頃から金に執着せず、質素な生活で十分だと考えているらしい。そもそも、彼の場合、海外の民間企業に転職すれば年収1億円くらいのポストがあることだろう。閾値を超えると気にならなくなるのだろうか。

加えて、日本と外国に職場があり、両国を頻繁に行き来すると外国の諜報機関からスパイではないかとマークされたり、拘束されるリスクがあるらしい。日本の場合には公安からチェックされるということか。

もちろん、彼はそのような人ではないけれど、スパイとか諜報機関といった漫画や映画の世界が現実に存在していることに驚く。

その友人の場合、これまでに蓄積された知識やスキル、そしてこれからも生み出される成果が他国にとって利益を生み出す蓋然性が高い。また、国家機密に触れた後で国家の間を行き来する可能性を疑われると厄介だ。

優秀過ぎる職業人生は大変だ。彼は色々な人たちからマークされているので、悪いことをしていないにも関わらず、捕まらないように注意しているそうだ。

スパイって本当にいるのかと驚き、話のスケールが大き過ぎるので「すごいと思いました」 という小学生並みの感想しか私には出てこない。

ということで、仕事と家庭で疲れた友人は、日本を出て、しばらくの間は外国で働いて羽根を伸ばすそうだ。コロナ禍では出入国が大変だったが、ようやく楽になったと。

彼ほどまで輝かしい職業人生を送っている人でも、生きることの悩みや苦しみは確かに存在していて、それらをコントロールしながら生きている。

とりわけ夫婦関係はガチャを回すようなもので、いくら頑張って生きたところで相性は確率論的な話なのだろう。

私の生き方において、妻という存在は生きることの柱になっていない。私はその考えが夫として不自然で劣っていると思っていた。

しかし、その友人も同じだった。相性が悪い妻との間で距離を取る。それは自分自身を潰さないために必要だと思うことにした。

一般人から見るとリフレッシュの方法がチート級ではあるけれど、彼の近況を紹介してもらって安心し、励まされた。有り難いことだ。