2023/05/24

メランコリック・タウン

製作費が300万円であったにも関わらず、観客やネットの視聴者に対して傷跡とも表現しうる凄まじいインパクトを残した「メランコリック」という名前の映画がある。「melancholic」とは「憂鬱な」という意味の形容詞だ。詳細はググレカスに任せるとして、普通の人にしか見えないアルバイトの殺し屋たちが依頼を受け、何の縁も恨みもない人たちを次々と誘拐し、寂れた銭湯の洗い場で躊躇なく殺害し、給湯用の大型ボイラーで死体を焼却して証拠を隠滅するシーンは非常にシュールだった。

なぜにシュールに感じたのか。私が浦安市民であり、浦安市内の松の湯という名前の銭湯が実際の撮影で使用され、上映後にその銭湯が廃業することになったことがシュールだという意味ではない。この映画のようなサスペンス・コメディーは、限りなく日常に溶け込んだ奇妙な恐さがある。


昔の映画を挙げれば、例えば「ロボコップ」のようにディストピアな街で犯罪者が暴れまくり、さらには警察までが狂気を帯びて暴れまくるという作品には、衝撃こそあっても深層心理まで浸漬する恐怖を感じなかったりもする。世界観の全てが狂っていると、ああこれは現実離れした虚構だとすぐに分かるからだ。

映画のメランコリックの何が怖いかというと、リアルな日常に組み込まれた狂気だ。銭湯に連れてきたターゲットを、まるで釣った魚を締めるかのように殺害してボイラーで焼却すること以外はどこにでもある平凡な社会の姿だ。

そして、銭湯に広がった被害者の血液をデッキブラシで掃除する場面が日常と狂気の接点になってしまっている。

狙われた被害者には、自分がどうして殺されるのかという理由さえ分かっていないことがあり、殺し屋の側にも被害者に対する個人的な理由はない。しかし、平凡な日常の中で凶悪な事件が起き、殺し屋たちが犯行を終えて銭湯の湯船に浸かり、普通の生活に戻る。このトランジションが怖い。

主人公である東大卒の青年は、他者よりもはるかに高い知性を有しているにも関わらず、部分的に狂っている日常を受け入れて生活している。

映画を観た視聴者には「いや、それ、おかしいだろ?」という違和感が生じ、思考や感覚が撹乱され、深層心理にリアルな恐怖が落とし込まれる。

さて、浦安市の新町において連続して発生している某事件は5件目に至り、現場は日の出地区から離れた明海地区にまで広がっている。もはや新町全体がターゲットになっているらしい。マンションだけではなく戸建ても心配だ。

この話は映画ではない。リアルな虚構の作品ではなくて、現実そのものだ。しかし、日常に差し込まれた狂気は現実味を削ぎ、この世界全体が虚構や夢の中にあるのではないかと錯覚させる。

何台もの緊急車両がサイレンを鳴らして走っていたので察しはしたが、再びメランコリックな休日の夜がやってきたのかと溜息をついた。

地域住民としてさらなる恐怖を感じることがある。

それは、日本全国に報道されている異質で凶悪な事件が発生しているにも関わらず、浦安市の行政の対応があまりに鈍いことだ。鈍いというか、街の行政のアクションが認められない。

私は事件が生じているエリアに住んでいるわけで、何をやっているのかと憤りを感じざるをえない。

これだけ大事になっているにも関わらず、浦安市の公式ツイッターは一連の事件をスルーしている。マスコミが報じれば全市的に情報が伝わるにも関わらず、浦安市は事件についての注意喚起どころか、その発生についてさえ、公式サイトやツイッターで市民に伝えない。

「光化学スモッグに注意しましょう」とか「熱中症に注意しましょう」とか。浦安市がどのような行動原理によって動いているのかを知りたい。

浦安市の公式サイトでは、「夜間の火災に注意しましょう」という当たり障りのないアナウンスがなされ、一連の事件については全く言及していない。言及するなと言っている人がいるのだろうか。

誰なんだ?

それにしてもシュールだ。街を守るべき浦安の行政が街を守ろうとしない。その街で私や家族が生活している。現在の浦安市の舵取りに対して不満を溜め、ふるさと納税で他の自治体にフルベットして住民税を移す新町民がさらに増えることだろう。

今の浦安市の新町での生活には、まるで針が混じっている布団で寝ているかのような緊張感と恐怖がある。このような住環境において穏やかに生活することは困難だ。

これまでの浦安市の情報発信について全て遡れば分かることだが、浦安市という街は台風だとか地震だとか、そのような外的な要素に起因するトラブルについては的確に対応する。

しかし、市内でイレギュラーな事象が発生し、その原因が浦安市民だという可能性が浮上すると、急に「我関せず」というモードに突入する。

我関せずモードに入った浦安市の行政は亀のように防御力を高め、いくら市民が要望したり指摘しても方針を変えようとしない。子育て世代やシニア世代であれば容易に思いつくエピソードがあることだろう。

今回の連続事件に限ったことではなくて、浦安市内の公園で不審者が出現して子供たちを脅したとか、そのような事象が生じると、浦安市は小学校の校長などを介してごく限られた地域の住民に情報を伝え、他の地域の住民に対して情報を広く伝えなかったりもする。

このような情報制限は浦安市の行政の特徴であり、オープンガバナンスと対局にある。情報をオープンにすると市民から浦安市に対する突っ込みが増えるからなのだそうだ。現役の市職員がネットで発信していた話なので相応の確度があることだろう。

街のことを知らされていない市民は、丸腰でイレギュラーな事象に遭遇することになりかねない。それでも浦安市は静観し、対処については警察に任せてしまったりもする。

市民から指摘があれば、「警察や消防と密に連携している」とか「重点的なパトロールを要請している」とか、まあそのような返答だろう。新町エリアの防犯カメラが少なかったことについては触れもしないはずだ。

しかし、批判的ではなく建設的に考えると、浦安市としては街の行政が不審者や犯人を刺激することを避けたいという戦略も否定しえない。だとすれば、浦安市にプロファイラーのような職員がいるということか。

自分が起こした騒動によって多くの人々が動揺することで興奮するような犯罪者もいる。浦安市が過剰に反応すると狙い通りの展開になるわけだ。現に新町の住民たちは冷静に事件を受け止めている。

浦安市だけではなく、一般的に基礎自治体の市役所や町役場は地元の警察と密に連携している。シームレスというかベッタリというか。つまり、今回の事件への対応は、浦安市内の行政の総体によるものであり、その方針が反映されていると解釈して矛盾がない。

この傾向は浦安市役所の情報発信に限ったことではなくて、頻繁にツイートを発信するローカルな政治家たちも同様。

当たり障りのない情報発信にシフトしたり、「我関せず」というアクションを貫く。安心安全な街づくりというスローガンは、自身の都合の上に成り立つのだろうか。誰も火中の栗なんて拾わない。

これが浦安の現実だと、市外に引っ越す日を心待ちにしながら私は生きている。住民税の分の見返りがない。

帰宅時に夜の新町に向かって歩いていると、軽い動悸が生じるようになってきた。自宅付近で緊急車両の赤色のランプが灯されていないことだけで安心する。

住環境として、この状況はおかしい。

自分の実家がある浦安市に夫を引っ張り込んだ妻の態度にも失望する。ここまで酷い状況になっているにも関わらず、「ごめんね、辛いよね」という言葉がない。

妻の実家がある浦安市に引っ張り込まれ、自らの選択を後悔しながら10年以上もの月日が流れた。時にバーンアウトや適応障害を起こすほどのストレスに苛まれ、何だこれはという不文律の中で生きた。

私が新浦安に住んでいて感じることがある。ここまで人口密度が高い街に住んでいるのだから、確率論としてイレギュラーな行動に出てしまう人物の数も多いはずだ。

しかも、新浦安での生活はとにかく騒がしくてストレスが多い。住民の数に加えて多くの人々が街を訪れ、車道では自動車や大型車が大きな音を放ちながら行き交う。自宅に戻れば蜂の巣のような住宅の環境。ストレスの累積がイレギュラーな行動を誘発する蓋然性は高い。

地方の田舎町であれば住民同士の監視の目が広がるので、危うい人がいればすぐにマークされる。ところが、新町のマンション群のように近隣以外は誰が住んでいるのかよく分からないという状態では、住民同士の監視が十分に機能しない。

また、新町において防犯カメラの設置が不十分であることは以前から問題になっていた。しかも、浦安の行政や警察は防犯について緩いように感じる。

つまり、浦安市の新町はイレギュラーな人が行動に移すと大変なことになるリスクをすでに有しているのではないか。

今回の事件よりもはるか以前から私が新町に住んで何となく感じる不安や懸念。それらが現実的な事件として形になった。新町はイレギュラーな人物による事件を誘発しやすい環境だという解釈に至る。

浦安市としては、一連の事件に対してどのようなアクションを取る方針なのか、それを地域住民に示す必要がある。

ところが、地域住民の関与が疑われる不審な事件が発生すると、浦安市の行政や議会は真っ先に我関せずというモードに入ってしまう。余程に深淵な事情があるのかもしれないが、この街や住民を守ろうという気概を感じない。

嵐が去るまでシカトを続け、嵐が去った後は何もなかったかのように振る舞うのであれぱ、そのような行政や議会を市民は信用しない。とはいえ、嵐が過ぎ去れば街の課題を忘れてしまう市民が多いことも否めない。どっちもどっちであり、その結果として現状がある。

そういえば、仕事でメキシコ人と一緒に働いたことがある。南米の治安の悪さは浦安市どころのレベルではない。

私から見ると不条理ばかりの国において、彼はどのような気持ちで生き抜いたのかを尋ねたことがある。すると彼は答えた。

「警察なんて最初から信用していませんよ。国のことさえ信用していません」

自分が生まれ育った国のことを信用することができず、警察さえ信用することができないなんて、それは最悪な状況だと私は思った。なるほど、だから彼は祖国から出て生きることにしたわけか。

だが、考えてみると、今の私は浦安の行政や警察を何ら信用していないことに気付く。4回目の事件が生じて、ようやく警察が近隣住民への聞き込みやパトロールを本格化させた。初動として遅い。

テロであればローンウルフとかローンオフェンダーと呼ばれる攻撃なので、浦安警察署には荷が重いかもしれない。また、彼らは地域住民との距離が近いわけで、本来は守るべき市民を疑わなくてはならない。複雑な気持ちだろう。

局所的な人口密度の偏りが生じている環境で住民同士の監視が機能せず、防犯カメラも少ないという新町の弱点が露呈した。その状態のままの平和な日常に慣れすぎてしまったのではないかと私は思う。