2023/04/29

ディズニーパレードを避けてニコニコ超会議に巻かれる

「他国からの攻撃によって社会が壊滅する直前まで、人々は普段と変わらない平和を享受し、個人の我と欲を求めて生きていた」というシーンは、ディストピア風味のSF作品ではよくある。人類の歴史の中で実際に繰り返されてきたパターンでもある。

他国が意図的に、あるいは事故を装って電磁パルス(EMP)爆撃や高高度の核攻撃を仕掛けてきた場合、日本国内のほぼ全ての電子機器が焼き尽くされ、社会は江戸時代以前に戻ってしまうことだろう。しかし、日本が地政学的に危険な場所にあることを理解している人は少なく、たとえ知っていても気にしない。それよりも自分のことが大事だと。


そのような危機が現実的に存在していたとしても、人は日常こそが絶対的な世界だと信じ、自分にとってメリットがあるか、あるいは自分にとって楽しいかといった価値観で生きる。

少子化は絶望的な状況になり、ニートの人口が80万人に達する勢いだ。それでも自分さえ何とかなればいいだろと。経済はすでに停滞し続け、社会のさらなる衰退に向けたフラグが立っている。

さて、自分が住む浦安市の新町エリアでは、市制施行40周年を記念する式典やパレードが催され、ディズニーの開業40周年ということもあってパレードが街の中にやってきた。そのことに異議はない。

しかし、ディズニーのパレードには「あの人たち」がまとわりつく。パークを飛び出して街の中まで出てきたら迷惑でしかないだろうと私は危惧した。

予定調和だが、浦安市民でもないディズニーマニア、通称「Dヲタ」が街にやってきて、パレードが予定されている道路の脇に座り込んだり、ビニールシートを張って占拠し、地域住民とのトラブルに発展した。

Dヲタ用語としては、このような出待ちのことを自他ともに「地蔵」と呼んでいるらしい。座り込みは地蔵のエクストリーム版なのだろうか。

少なくともDヲタたちは、日本の仏教観において地蔵菩薩がどれほどに大切な存在なのかを全く理解していないことだろう。

釈迦が入滅してから弥勒菩薩が現れるまで、世の中に仏がいない時代がやってきた。その間に衆生を救済することを釈迦から託されたのが地蔵菩薩だ。

弥勒菩薩が世の中にやってくるのは56億7000万年後と伝えられている。不思議なことに、この時間は、太陽の寿命が尽きて太陽系が崩壊するまでの時間とほぼ一致している。その時、膨張した太陽に地球が飲み込まれて全てが終わる。

つまり、日本の仏教観においては地蔵菩薩が世に存在する実質的な仏と考えられているわけだ。最近では少なくなったが、昭和の頃はシニアが地蔵の世話をしたり、子供たちを含めて地蔵の前で手を合わせていたりもした。

弥勒菩薩を待っている地蔵ならば分かるが、ネズミの着ぐるみを待っている地蔵とはおかしなものだ。後者はネズミのキャラクターやその世界観に帰依し救済されているのだろうか。どちらが宗教なのか分かりかねる。

結果、警察までが出動してDヲタを整理することになった。浦安の行政は、このような事態を想定していなかったのか?

全てのDヲタやディズニーファンがこのような迷惑行為に及んでいるわけではなくて、一部の強硬派の行動なのだろう。どのような集団にも先鋭化する人たちは存在する。

とはいえ、ディズニーについて全く関心がない私にとっては、この騒動の行動原理がよく分からない。ネズミやアヒルのキャラクターを見かけても、チーバくんやくまモンやアサリのキャラクターを見かけても、それら全てが同じ被り物という認識であり、等価値だ。

なぜにディズニーの被り物の前で多数の人たちが興奮するのか理解することができないし、それらの写真を撮影してツイートし、街ではなく自分をアピールしている市内在住のオッサンたちについても理解しえない。

ディズニーは魅力的だという社会全体の価値観が形成されていることは確かだが、その場所に居合わせた俺って素晴らしいと自己アピールするようなオッサンにはなりたくないものだ。

社会全体が形成した価値観という貝殻の中に入り、まるでヤドカリのように自己を満足させていても、その個性は貝殻そのものにある。

自分こそが魅力的で素晴らしい存在だと他者にアピールしたところで、その本体は自分自身ではなくて社会が作った貝殻だということに気付いていない。その現実を知るのは職業人生をリタイアした後だ。

まあとにかくツイッターの世界にはこのような人たちの内面が渦巻いている。

喧しい選挙が終わり、ようやく静かな週末を過ごすことができると思っていたら、かくの通り町中が喧しくなった。そもそもこの街は普段から無数の自動車が行き交い、空を飛行機が飛び交い、常にノイズが広がっている。聴覚過敏がある人にとって地獄のような住環境だ。

「浦安市の生活は最高!」と言っているような人たちは行政関係者、市内で商いを営む業者、および個人投資家ばかりだ。どのような街にも良いところと悪いところがあって当然で、最高という表現はありえない。あるとすれば何らかの「思惑」あるいは「思い込み」を背景とした虚言だ。つまり、嘘だと判断して差し支えない。

このままでは浦安住まいの苦痛に耐えかねて発狂すると判断した私は、さっさとウォーキングギアを整えて新浦安駅に向かい、浦安市内から脱出することにした。

南船橋駅で下車した後、LEKIの折り畳み式のポールを組み立て、千葉市内の海浜大通り沿いでノルディックウォーキングを楽しむことにした。

浦安市民になった自分の境遇を心の底から後悔して常に苦しんで適応障害まで起こしている私にとって、市内のイベントには全く興味がない。

街が喧しくなると一時的に街から逃げる。そのような浦安市民がいてもおかしくないだろう。これからの社会は多様性を重んじるという話だ。

浦安市に祭りで盛り上がるような予算が余っているのであれば、受益者負担と称して自転車駐輪場の定期利用料金までを値上げし、取れるところから金を取るような行政を改めるべきだ。これでは実質的な地方税の増税ではないか。

しかし、浦安市の行政に不満を持っても仕方がないので、数年後に私はこの街を去る。それまでの期間、浦安市に納める個人市民税については、ふるさと納税でフルベットして他の街に送金している。

私は市内のイベントに全く参加せず、施設やサービスの利用も必要最小限だ。必要のないハコモノに使われるくらいなら他の街に金を寄附する。

船橋市内を出発し、習志野市を抜け、千葉市内を黙々とノルディックウォーキングで歩いている時に思った。

派手な車の上でネズミやアヒルの被り物が踊っているだけで、なぜに多くの成人たちが集まって手を振っているのだろうかと。

私は以前からディズニーという存在に宗教性を感じているのだけれど、もちろんだがこの企業や客たちの姿が宗教だと断じているわけでもない。また、多くの人たちが素晴らしいと信じている世界を否定する俺って格好いいという気持ちになっているわけでもない。

しかし、着ぐるみの中に人間が入ってハイテンションで踊り、その姿を見た人間が興奮し、手を振り、写真を取りまくる。この一連の集団的な行為に何の意味があるだろう。この熱狂を引き起こしているのが着ぐるみ自体、および付随したイメージによるものだと考えると怖い気がする。

その姿が素晴らしいと感じる、あるいは信じる人たちにとっては楽しいイベントなのだろう。だが、何も感じない、あるいは違和感を覚える人たちにとっては、不思議な光景に見えることだろう。そのようなイベントはパークという隔離された空間で行ってほしいものだと。

地域住民に迷惑をかけても気にしないディズニーマニアを街に呼び寄せてほしくない。通常でさえディズニー客からの迷惑には辟易している。

しかし、海浜大通りを黙々とノルディックウォークで進んでいるうちに、異臭を放つかのような否定的思考が浄化され、「まあ、それも人それぞれだ」という結論に落ち着いた。

通勤で新浦安駅前を歩いていると、穏やかな表情でパンフレットを掲げて立ち続けている宗教の信者を見かけることがある。そして、この駅には頭にネズミの耳を付け、皆が同じデザインの派手な買い物袋とキャリーバッグを持ったディズニー客が全国から集まってくる。

私の目には、宗教の人もディズニー客も同じように見える。それは私個人の感性によるもので、異論はあったとしても否定しえない。当人にとっては価値があり、相応の理由があって行動しているのだろう。

千葉市内の稲毛海浜公園で海を眺めた。本日の千葉県北西部には強い風が吹き、稲毛の海も嵐のように波打っている。

海辺を眺めていると、パラグライダーのような凧をサーフボードに取り付けて、たったひとりで海の上を舞っている人がいた。カイトサーフィンというスポーツだ。

この場所には砂浜があり、普段はウィンドサーフィンもしくはカイトサーフィンを楽しむ人たちが集まっている。とはいえ、ここまで強風が吹いている時にカイトサーフィンに励むという思考が理解しえない。

案の定、海上で強力な風力を得て舞い上がったサーファーが数メートル上空を飛び続け、不格好な状態のまま海ではなく陸地に落ち、のたうち回っていた。これは痛い。

水着だけで数メートルの高さから落下すると、地面が砂浜でもダメージが大きいことだろう。捻挫で済むのだろうか。まあそれでも、これが逆方向だったらさらに危なかったな。陸地ではなく沖合に向かって飛ばされ続けたら、間違いなく遭難だ。救助には船舶あるいはヘリコプターが必要になる。

しかし、眼前で宙を舞って陸地に墜落したカイトサーファーとしては、本人なりに何かの価値を感じて、あるいはそれを信じて宙を舞っているのだろう。私が無碍に否定する必要はない。

さて、本来、ノルディックウォーキングは高齢者が集まってのんびりと楽しむスポーツではない。スキーヤーたちの夏期トレーニングとして始まったわけで、本気で取り組むと相応の負荷がかかる。

肌に汗が浮き、2本目のペットボトル飲料を飲み干した私は、満足して稲毛海岸駅から電車に乗り、新浦安駅まで帰ることにした。

次の駅の検見川浜駅までの区間は、車内にとても穏やかな時間が流れていた。休日の夕方の電車とはこのようなものだろう。周りに誰も座っておらず、このまま新浦安駅まで戻れば何とも至福の時間だなと。

ところが、次の海浜幕張駅にたどり着いたところで悲劇が訪れた。何やら奇妙な雰囲気の集団が、個別に奇妙な興奮あるいは陶酔のような状態のまま一斉に電車に乗り込んできた。

まさに瞬く間に電車の空間が埋め尽くされている。「カップヌードルの謎肉」あるいは三次元のアニメキャラクターの少女が描かれたド派手な買物バックを手にし、正気とは思えないくらいに派手なTシャツを着ている中年男性や、地味なナップサックを背負ったオタク風の若者もいる。

加えて、奇妙な雰囲気の男性ばかりであればアイドルコンサートだと察しが付くのだが、ごく普通の温和しそうな若い女性たちも電車に次々と乗り込んでくる。しかし、長い髪の毛をツインテールにしていたり、信じられないくらいに短いスカートを履いて、爪を真っ黒に塗った吸血鬼のような格好の若い女性もいる。

本物の吸血鬼を見たことがないので、その女性の格好が正しいのかさえ分からない。

なんだこのカオスは。

この人たちは、電車に乗り込む前まで人の群衆にいたことは分かる。なので、電車の中で混み合っていても何ら負荷を感じていない。一瞬の違和感の中でパニックを起こしかけている私こそが異物のような勢いだ。

私は毎日の通勤地獄において、JR京葉線に乗り込んでくるディズニー客による圧やストレスには慣れている。だが、ディズニー客の場合には頭の中の方向性がきちんと分かる。

ミッキーやミニーといったキャラクターがいて、パークの中の人工的な世界があって、そこで楽しんで満足したり、興奮したりと、まあそういった体で電車に乗り込んでくるので、内的思考の「軸」というものが分かりやすい。だからこそ、このような人たちに対して私が宗教性を感じるわけだ。

しかし、海浜幕張駅から電車の中に乗り込んできた群衆には、内的思考の「軸」というものが見当たらない。おそらく何かのイベントがあったことは間違いないのだが、特定の興味の対象があったとすれば、それぞれが同じような物を持っているはずなんだ。なぜにここまでカオティックな様相を呈しているのか。宗教性を全く感じない。

特定の興味の対象がないにも関わらず、これだけの数の人たちが一カ所に集まるという現象が生じうるのだろうか。

今すぐ下車したいと思いながら、電車の中で「海浜幕張 今日 イベント」というキーワードでネット検索を試みた。

すると、幕張メッセにおいて、「ニコニコ超会議2023」というイベントが開催されており、今日が初日だったそうだ。

千葉市内の海浜公園付近のノルディックウォーキングで爽やかな汗を流し、さて電車で帰ろうとしていた私にとっては災難とも言える。

しかし、ニコニコ超会議というフレーズを目にしたことはあったが、その存在が何かということについて知らなかった。電車の中でその参加者たちが詰め込まれている状況でスマホを操作してさらに調べる。

ニコニコ超会議とは、ドワンゴという会社が主催するニコニコ動画のオフラインミーティングという体の参加型複合イベントなのだそうだ。

つまり、インターネット上のニコニコ動画で取り扱っている内容を現実世界に持ち込んで、そこにネットユーザーたちがオフラインで訪れるということだな。

そこには、ゲームやアニメ、ボーカロイド、音楽、ダンス、日本の文化芸能、さらにはニートや自衛隊といったブースまで集合しているらしい。普段はネット上で目にしている動画配信者や有名人、そしてコスプレイヤーも集まるそうだ。

ネットユーザーたちがオンラインで楽しんでいるコンテンツを現実世界に集めた場合、その場所がカオスになって当然なのだが、空間全体としては調和が認められ、超巨大なオフ会を楽しんでいるような気分になるのだろうか。ネットを介した超大型の文化祭のように感じる。

電車のシート席の隅に座っている私の左隣に、何とも地味な感じの二人の若い男性が座ってきた。座る前に一礼するという礼儀も心得ていない。

私のすぐ左に座った若者はだらしなく足を広げ、その隣の若者は混み合った車内で前方に向かって足を組んでいる。

彼らにオラ付いた感じはないが、言っていることが偉そうで斜に構えており、総じて背伸びした言動が認められる。私達の世代では中二病と呼んでいたタイプに似ていなくもないが、中二病とは何かが違う。

彼らは、「あれはダメだとか、あれはコレだ」とか、とても上から目線で論評を繰り広げていた。この人たちにどの程度の学歴や職歴、あるいはタレントがあるのか知らないが、このような人たちがツイッター上で他者に対して辛辣あるいは意味不明なコメントを投げ付けるのだろう。

しかし、この場所は匿名のネット上ではなくて、電車という現実世界だ。おそらく、この二人は、オンラインとオフラインの境界が曖昧になってしまっているのだろう。学校や職場で同じような態度なのだろうか。将来に向けた一筋の光も見えないくらいに暗い雰囲気を放っている。私でさえ驚く。

そういえば、思春期に入った上の子供から、「チー牛」というスラングを聞いたことがある。混み合った車内でやることもないので、チー牛というキーワードで画像検索してみると、今まさに隣に座っている二人にそっくりな若い男性のイラストが無数にヒットした。なるほど、これがチー牛なのか。人生、何事も勉強であり、体験こそが至高の教材だ。

チー牛というスラングは差別的でもあり、適切な表現とは思えない。しかし、共通性を集積した上でのパターンとしては、かなりの普遍性があるということか。虚構でも架空でもなくて、目の前にそのようなパターンの人たちがいて、上から目線で色々と言っている。

だがしかし、私の場合には、「最近の若者は...」と嘆くオッサンではない。

例えば浦安市内の同世代のツイッターユーザーについては特定が済んで、実際にリアルな場所で会ったり見かけたことがある。オンラインでは色々と上から目線で格好良くコメントしているが、その人たちの実際の姿は腹が出た冴えないオッサンだったりもする。

なるほど、リアルな場所では礼儀正しく振る舞っていたりもするが、内面ではこのようなことを考えているのかと勉強になる。おそらく、ヤフコメ民の現実的な姿なのだろうと。

そのような人たちの集合体がネットに投影され、かつての牧歌的なネットという空間が、ささくれ立った疲れる存在になったということなのだろう。

電車が新浦安駅に到着した。とても長い時間が流れたように感じ、電車から降りて深呼吸した。

時間が少し早いので、ニコニコ超会議に参加した集団とディズニー客が同じ電車で満員状態というさらなるカオスは期待しえない。それが生じるのであれば新浦安駅で乗り過ごして舞浜駅まで行ってみたい気になった。

ディズニー客の場合には、興味の対象が明確化され、多数の人たちが同じ世界観を共有しているように感じる。また、その場所は日常から切り離された外国あるいは異世界という体になっているのだろう。

他方、ニコニコ超会議の客の場合には、個々の興味の対象や世界観が同じではないにも関わらず、ひとつの空間に集まっている。その場所はオフラインの現実ではあるけれど、間違いなくネットという空間と繋がっている。

両者が交錯する千葉県北西部において、私は2本のポールを携行してノルディックウォーキングに励んでいる。実にシュールだ。

まあそれでも、人が何に価値を見出し、何を心の拠り所として生きるのかなんて、人それぞれだ。法に反することなく、他者に迷惑をかけなければ何ら問題ないことだろう。

SF映画やアニメにおいて、カタストロフィーの直前に平和の意味すら忘れて日常を享受している人々の姿に感じなくもないが、小難しいことを考えたところで意味はない。

ノルディックウォーク自体は充実していたが、周囲の環境としてはストレスが多くて厳しい日だった。春先からゴールデンウィークまでは人々が活発になり、その勢いや多様性に疲れてしまう。早く真夏の炎天下がやってきてくれないだろうか。静かになるから。