新浦安で轟音を響かせる選挙カー
自分なりにパワーウォーキングと格好良く表現しているが、やっていることは何も考えずに歩き続けるという「歩行禅」に相当するのだろう。落車や交通事故に注意して集中が途切れるサイクリングよりも、ウォーキングの方が瞑想状態への導入が緩やかだ。
とはいえ、昨年の春と比べると、今年の春は浦安という街がとても騒がしくて疲れた。
統一地方選挙の千葉県議会議員選挙が終わり、その後で浦安市議会議員一般選挙と衆議院小選挙区(千葉県第5区)選出議員補欠選挙が実施された。この同日選挙の勢いは凄まじかった。
浦安市は千葉県の中で最も人口密度が高い基礎自治体なのだが、車道や歩道の幅が広い割に本数が少ない。新浦安の場合にはシンボルロードという大きな道路があり、そこからたくさんの道路が分岐しているように見える。
しかし、通行の主体はシンボルロードに集中しているので、候補者たちの選挙カーが朝から晩まで走り回った。国会議員と市議会議員の候補者を合わせると30名以上だろうか。それだけの数の選挙カーが大音量を放ち、家の中までウグイス嬢の声が響いた。
新浦安には週末や連休の夜にリバイバルの暴走族たちがやってきて、大きな音を出して住民に迷惑をかけることがある。しかし、暴走族が活動するのは深夜の限られた時間だ。オートバイクのエンジン音は耳栓を付けていれば特に気にならない。警察を呼べば何とかなる。
他方、選挙カーのウグイス嬢の轟音の場合には、朝に目覚めてすぐに大きな音が響き、高性能な耳栓をつけても音が貫通する。それらの耳栓は人間の声を通すようにデザインされていたりもする。
そして、新浦安駅付近においては拡声器で候補者自身が叫び、凄まじいテンションで自己アピールしている。その光景に遭遇して、私は凄まじいストレスと目眩を感じた。
とはいえ、今回の千葉県第5区の衆議院議員補欠選挙は、現在の政治の方向性に影響するくらいのインパクトがあった。
加えて、市議会議員の候補者たちにおいても生活がかかっている。それは、私自身の生活が市議会議員選挙に直接的に左右されているという意味ではなくて、市議会議員を目指す本人と家族、そして関係するローカルな人たちの生活という意味。
浦安市議会において二元代表制による地方議会が機能しているのかという疑問について、私は確たる結論に至っていない。地方議会とはこのようなものだと思ったりもする。
議会制民主主義というシステムが精緻に機能し、全く欠点がない状態で維持されている国が世界に存在しているのかというと、私の理解の範囲では存在していない。どの国においても色々と課題があり、まあそれでも何とかして社会を維持しようという体で成り立っているのだろう。
議会を人間とAIによって運用し、論理的ではない判断をAIが止めるような社会になれば課題が減ることだろう。これまでの社会では、ハイスペックな有機コンピューターのような優れた頭脳を持つ官僚たちがその役目を担ってきたと解釈しうる。
だが、AIがさらに進化すると人間の脳の処理能力をはるかに凌駕し、おそらく数台の量子コンピューターで国から自治体までをカバーするような時代になり、議会制度が形骸化するかもしれない。SF映画のような話だが、AIが政治や行政に活用され始めていることは確かだ。
今回の統一地方選挙と国会の補欠選挙において興味深いことがあった。それは、浦安市内で選挙があると盛んに情報を発信する浦安市民、とりわけ新町のツイッターユーザーたちが、今回は急に静かになり、選挙について全く触れなくなったこと。
どのような経緯があったのか尋ねてみたいものだ。DMで。
市議会議員選挙ならばともかく、国政についての情報発信は、個人や団体の利益、さらには政治的な思想や理念にまで関わる。
彼らは普段の調子でツイートを飛ばし、その途中で虎の尾を踏んでしまって急に怖くなって沈黙したということか。
また、ここまで白熱した選挙戦が展開されているにも関わらず、有権者の投票率が5割を下回ったことにも驚いた。
有権者が選挙で投票しないことを嘆くつもりはないが、自分が住んでいる国のことや街のことを決める行動であるにも関わらず、半数の市民が投票を放棄している。放棄というか、最初からそれらに関心がないということなのだろう。
その背景には何があるのだろうか。テレビでもネットでも政治や選挙についての情報は流れている。情報の取得や投票についての統制がなされているわけでもない。
だとすれば、学校教育に問題があったのか。他国の中には子供の頃から政治をテーマにしたディスカッションが授業に取り入れられていたりもする。
しかし、社会の歪みを須く学校教育の非として解釈することには無理がある。
ならば、社会に対する不満や諦めを蓄積させ、社会について考えることさえも放棄しているのか。
結局のところ、人は自分のことばかり考え、自分の行動が無意味になったりデメリットになることを嫌うという底意地の悪さが現状を招いているということか。
候補者を選び、投票所に行って紙に名前を書くだけの時間や手間が惜しいほどに自分のことが大切なのか。なるほど、そのような人たちが半数以上もいるのだから社会が以下略。
色々と考えたところで時間は進む。国家や街という大きな舟に乗っている人たちがどのようなことを考えているかなんて、理解することさえ難しい。
不思議なことがもうひとつある。私は浦安から都内に通勤しているが、都内の統一地方選挙はとても静かだった。駅前で演説している候補者を見かけることはあったが、新浦安のように絶えず選挙カーが轟音を響かせている状態ではなかった。
この相違は、歴史ある背景や経緯があって生じた細い道路が張り巡らされている都内の状況と、人工的な都市計画による歪みを生じている新浦安の街並みの違いなのだろうか。
あるいは、23区であれば音量について市民からクレームが入るけれど、浦安の場合には市民から許容されるという地域性によるものなのか。
もしくは、候補者の名前を人々に刷り込むように選挙カーでアピールする古典的な方法が、千葉県という地方に未だ残る文化のひとつなのか。その理由は分からない。
同じような声質のウグイス嬢が頻繁に大声を上げていたが、アニメ声の人にウグイス嬢をお願いして個性を主張するといった機転が利く候補者も見かけない。古典的で目新しさを感じない。数十年前から時間が止まっているかのようだ。
そういえば、23区の地方議員選挙においても、10年以上前は選挙カーが大騒ぎしていたような記憶がある。最近は大きな音を出す選挙カーがとても少ない。この変化は自然発生的なものなのか。
候補者数が限られている国政はともかく、多数の候補者がいる地方選挙の場合は、選挙カーによる過剰なアピールが必ずしも得票に繋がらず、逆にアンチを増やしてしまうという考えが普及したのかもしれない。さすが東京だ。東京のフリをしている千葉の街とは違う。
ともかく、感覚過敏を有している私にとって、選挙シーズンのダメージはとても大きい。選挙自体による騒乱によって強烈なストレスが生じた後、急に街中が静かになった。その変化さえも地味にストレスとして蓄積する。
選挙で街が大騒ぎして、ゴールデンウィークで静養して、回復を促すという点であれば、この選挙のタイミングは確かに秀逸かもしれない。ここまで疲れた後で連休が全くなかったならば、その後の毎日が厳しいことだろう。
まあそれでも、武将や地域の豪族たちが群雄割拠して文字通りの戦によって陣地を取り合っていた時代に比べれば平和なものだ。あの当時は戦の度に街が大変なことになっていたことだろう。
次回の選挙では、もう少し牧歌的に選挙カーが街の中を走ってくれると助かる。まあその時には浦安という街からさっさと引っ越しているかもしれないが。
というか、今すぐ引っ越したい。この街は選挙カーが巡回すると大変な騒音が発生する都市設計になっている。おそらく、埋立地に建物を整然と並べているので、音を遮る地形がなく、音が反響したり共鳴するのだろう。疲れている市民は私だけではないはずだ。