ウォーキング用品の沼を埋め立てながら前に進む
しかし、生きていると何があるか分からないもので、年上の同僚との小話の中で紹介されたパワーウォーキングを試したところ、心身の状態が急に復調し、朝に目覚めた時点で絶望しているという頻度も減った。だが、今年の2月から急にパワーウォーキングを始めて歩きまくった結果、足首から先を痛めた。予定調和だ。
歩けなくなるほどの故障ではないし、膝や股関節は全く痛くない。しかし、靴を脱いだ後でもアキレス腱と足の甲の部分がひどく疲れ、痛みを生じている。
自分はサイクリングで足を鍛えてきたので、ウォーキングなんて大したことがないだろうと考えていたことは確かだ。けれど、よくよく考えてみると、自転車のペダルを回している時には足首から先をあまり使わない。というか足首の角度は固定したままだ。
ペダリングの最中に足首を可動させる漕ぎ方はアンクリングと呼ばれていて、余程の上級者でない限りアンクリングは避けるべきという不文律があったりもする。
ジョギングの場合には両足が空中にいる瞬間があるけれど、ウォーキングの場合には必ずどちらかの足先に加重がかかっている。早く歩こうとすると必然的に足先に負荷がかかるということだな。
そして、急にウォーキングを始めて歩きまくっただけでなく、どうやらウォーキング用のシューズが自分の足に合っていなかったらしい。
近くの量販店に行って安物のウォーキングシューズを何足も買って試し、何かが違うと思ってAmazonで安物のウォーキングシューズを何足も買って試した。最終的にはダンロップのアーバントラディション DU681のクッション製がとても心地良いことに気付いた。
このシューズは自分にウォーキングの楽しさを伝えてくれたが、長期に使用すると足の踵や甲が痛む。その理由はよく分からない。
ダンロップのDU681はメーカーでの生産が終了しているので、Amazonのタイムセールを利用し、追加で4足を予備として購入しておいた。だが、せっかく買ったシューズが自分の足に合わず、メルカリに出品しても二束三文の値で叩き売りになる。SDGsとは真逆のスタイルになってしまったが仕方がない。
その後も数足のウォーキングシューズを買ってみたのだが、やはり足に合わない。先日に買った安物のトレッキングシューズでノルディックウォーキングを試したところ、数日後にアキレス腱に刺すような痛みが走って焦った。
だが、現時点での私はパワーウォーキングという趣味かつ運動がないと心身の状態を維持することが難しい。とどのつまり、「安物買いの銭失い」の典型的なパターンに陥っているのだろうと判断した私は、ウォーキングシューズとして定番となっているニューバランスのMW880というモデルを手に入れることにした。定価が1万円を超えている。
実店舗での試着が面倒だったので、Amazonの「Prime Try Before You Buy」で手当たり次第に商品を試着してシューズのサイズと足幅を決めた。そして歩いてみた。なるほど定番になるのも理解しうる逸品だ。
ダンロップのDU681には(痛くなければ)どこまでも歩き続けられるような満足感があったが、ニューバランスのMW880の性能は段違いだ。自転車のタイヤに例えると、ケンダからコンチネンタルに履き替えた感じ。
カップラーメンを食べ続けた後で、袋入りの生ラーメンを食べた感じにも似ている。やはり、値段が高い製品にはそれなりの価値があるということか。
最近では、「メイド・イン・ジャパン」というプライドがあまり通用しない時代になってきたように感じる。日本のメーカーであっても、コストダウンのために海外に工場を作りまくっているので、正しい意味での日本製品は少なくなった。
むしろ、日本の賃金が上がらない状態が続くと、逆に海外のメーカーが日本に工場を作るかもしれない。まあそれも時の流れだろう。
自転車部品メーカーのシマノの場合には、日本のユーザーではなくて欧米のユーザーを経営方針のターゲットにしているように感じる。欧米で自転車用品が値上げすると、日本の状況なんて気にせずに一斉に値上げしているし、そもそも日本を商売の場としてあまり考えていないのだろう。
日本製品こそが最良という考えは私にはなくて、むしろ日本製品に失望して海外製品を手に入れる機会が増えた。自動車や電化製品は何とか持ちこたえているけれど、パソコンやスマホ、日用品といった様々な範囲において日本製品は落ち目になっている。
自分の場合、自転車のサドルは英国メーカーのブルックス、ノルディックウォーキング用のポールはドイツメーカーのLEKI、飲料ボトルは同じくドイツのサーモス、鍋やフライパンもサーモス。チェアリング用品は韓国メーカーのヘリノックス。普段着さえも海外メーカーの製品が多い。日本製品を買って失敗したこともよくある。
ということで、パワーウォーキング用のシューズについても割高な海外メーカーの製品を購入することにした。まあよく考えてみると、自国だけでなく他国においても定番になるくらいの製品なのだから、世界レベルで品質が認められていることの証左なのだろう。
メーカーの仕様には記載されていないが、このシューズの足型は間違いなくアジア人、特に日本人の足型に合わせて設計されている。アジアンフィットというスポーツ用品は珍しくないけれど、そのことさえ宣伝しないところにメーカーの配慮と誇りを感じる。
他方、積立投資を続けている私は節倹生活に楽しさを感じているので、ウォーキング用品も安物だけで済ませようとしていた。趣味のスタートアップなんてこんなものだろうと思ったりもするし、最初から全てを見通すことができるのならば、今のように生きることに苦しんでいないだろと開き直ったりもする。
ウォーキング用品を揃えるために散財したと反省する気もないし、無駄な出費だったと後悔する気もない。
むしろ、数ヶ月で新しい趣味をセットアップし、心身共に復調させることができたわけだ。決して安い買物ではないけれど、無意味な出費ではない。
そういえば、職場の福利関連の書類を用意していたところ、数年後の自分の満年齢がいくつなのかよく分からなくなった。メンタルが悪化したわけではなく、認知機能が衰えたわけでもない。
自分の満年齢が分からなくなったというよりも、視覚的に表示された自分の満年齢を見て驚き、現実に戸惑って思考が混乱したという表現が妥当なのだろう。
五十路付近の中年男性たちは、試しに表計算ソフトウェアで西暦と年齢の行列を作成し、現在の自分がどこに位置しているのかをマークしてみると、自分と同じように感じるはずだ。
65歳まで仕事で働いてリタイアする位置にラインを引き、おそらく死ぬであろう75歳の位置にラインを引く。すると、現時点で感じている以上に自分は長い時間を生きたのだなと思ったりもするし、終わりが近づいてきたのだなと思ったりもする。
職業人生の残り時間が15年間程度しかないわけだから、その時間を少しでも楽しく健康的に生きようとすることが無価値であるはずがない。
今までの私は、仕事や家庭が生きることの主体ではないことに気が付いていた。そして、老後まで続けられるような趣味を育てようと取り組んできた。育てるというか、確立するというか、本人なりには結構な意義を考えてきた。サイクリングもそのひとつだ。
けれど、老いという変化は自らの想像を超えるくらいに激しく、身体だけでなく思考や価値観までもが変わっていく。「これが自分の趣味だ」という確たる存在を得て、それを継続することさえ厳しくなる。
定年退職したオッサンたちが、蕎麦打ちやサークル活動、家庭菜園、ジョギング、釣り、オートバイといった様々な趣味を急に始めて、あまり長続きせずに挫折するという理由が分かった。
人生が進むと、趣味という存在でさえ立ち位置が変わってくるということだ。仕事や家庭で忙しい日々の中の息抜きという存在だった趣味が、自らの生活の中でより大きな意味を有し、日常の一部として同化していく。趣味が日常に同化しないと挫折する。つまりはそういうことか。
日常の中でリフレッシュあるいは楽しみに繋がるような活動を見かけた時にそれらを試し、少し距離を置いたところで維持するというスタイルの方が有意義かもしれない。
イメージとしては、趣味になりそうな「種」を蒔いておき、それらが芽生えてきたら地味に世話を続け、維持するという感じ。
若い頃には、「今、これにハマっている」とか「これが趣味だ」という存在を持ちたがるけれど、それらがシニアになるまで続くかどうかは分からない。
現役時代は仕事に没頭し、定年退職して真っ白になっている老人たちを眺めていると、若い頃の感覚を残したまま老後に突入しているように感じる。老いてくると、「日常」というライフスタイルが固まり、そこから離れた活動に取り組むことが億劫になる。
若い頃は趣味を日常の一部として取り込むことができても、老いてくるとそれが面倒になってくる。つまり、彼らの場合、日常と趣味が部分的あるいは全体的に解離しているから、新しい趣味を探そうとしても見つからないわけだ。
生きることを楽しんでいるように見えるシニアは、個々の趣味が派手というよりも、生活の中に趣味が溶け込んでいるように思える。まるで引き出しから衣服を取り出すかのように趣味のストックを選択し、まるで食事したり風呂に入るかのように自然体で趣味を楽しんでいるように思える。
例えば、新浦安の日の出地区に住んでいると、元漁師町の方から50ccの古びた原付、あるいはシティサイクルに塩化ビニール製の太筒を取り付け、その筒に投げ釣り用の竿を差し込んだまま海に向かって走って行ったり、あるいは釣りを終えて戻ってくる中高年の男性を見かけることがある。
たぶん、彼らは新浦安で海を眺めながら釣り糸を垂れて、そこで釣った魚を自宅に持ち帰って酒の肴にしているのだろうなと私は空想する。きっと彼らは釣りが趣味だとさえ自覚していなくて、毎日の生活のひとつなのかもしれない。そのレベルまで育った趣味は、まさに生きることの一部なのだろう。
ということで、ウォーキングシューズ沼については、心身の不調を乗り越えるための必要経費だという建前の下、我ながら大人気がない財政出動で処理した。一時的な出費ではあったが、ウォーキングシューズ沼はすでに埋め立てられて陸地になったはずだ。使用に伴うシューズの劣化と交換は、シューズの選定のように出費がかさむことはないだろう。
しかし、ウォーキングシューズ沼の隣にはインソール沼がある。靴の中敷きで履き心地が変わってくるので侮り難い。幸いなことに、ニューバランスは足に合わせたインソールを作成するという会社から始まったので、たくさんのインソールがラインナップされている。しかも値段がリーズナブルだ。それら全ての種類を購入しても1万円に満たない。
ということで、それら全てのインソールを購入して自分に適した製品を見つけた。インソール沼を泳ぐことなく、最初から埋めている。
そして、次なる沼はノルディックウォーキング用のポール沼だ。
海外では定番のLEKIのポールをいくつか入手し、確かに素晴らしい品質に満足している。しかし、それらはアルミ製のポールだ。
舗装路でノルディックウォーキングを行うと、ポールから手首にそれなりの衝撃がやってくる。アルミ製ではなくてカーボン製のポールはどのような使い心地なのだろうかとLEKIの公式サイトにアクセスしてみたところ、なんとトレイルランニングからトレッキング、ノルディックウォーキングまで幅広く対応している「クロストレイル」というフラッグシップモデルがリリースされていることを知った。
しかも、このフルカーボン製のポールには、ポールの長さが固定されているモデルがある。自分に最適なポールの長さが分かっている中上級者向けのモデルなのだそうだ。
ポールの長さを調整するための部品なんて必要ないという、なんとも趣味人の心をくすぐるフラッグシップモデルだ。
タイミングが良いことに、このカーボン製のポールは、先日に手に入れたLEKIの可変式のアルミ製ポールとジオメトリーが同じで、シャークグリップも同じ設計。つまり、可変式のアルミ製ポールで自分に適した長さを見つけておくと、店頭で試用しなくても最適なポール長が分かるということだ。
これは何かの導きだろう。欲しくなった。
パワーウォーキングを始めたのが数ヶ月前、ノルディックウォーキングに至っては今月から始めたばかりなので、どう考えても自分は中上級者ではない。しかし、人生の残り時間が少ないことを実感すると、身体が動く間に試してみたい気もする。
これから結婚するとか、これから子供が生まれるとか、まあそういった輝く未来がある若い男性ならば、趣味品なんて我慢せよという話だ。
だが、五十路になってくると訳が違う。魅力的な趣味品を試さずに、いつか手に入れようと我慢している間も老いが加速し、還暦祝いで手に入れたところで残りの時間が少ない。
あまつさえ、今この瞬間に脳血管が詰まったり破裂して歩けなくなったり、人間ドックで癌が見つかって趣味どころの話ではなくなるかもしれないわけだ。
通販でLEKIのカーボン製のポールを探していたら、介護用品やお遍路用品を取り扱っているショップに在庫があった。写経用品とアスリート向けのLEKIのポールが同じショップで売られている日本は、実にシュールだ。
海外では若者を含めた高負荷のアクティビティであるノルディックウォーキングが日本に入ってきて、歩き方だけはノルディックスタイルの低負荷なポールウォーキングがシニアの間で流行し、結果としてオリジナルとは程遠い和風のノルディックウォーキングに進化した。
高齢者が普段着あるいは長袖長ズボンのハイキングスタイルでリュックサックを背負い、集団で連なって会話を楽しみながらのんびりと歩いている。ノルディックウォーキングとは高齢者の運動だと日本の社会が認識してしまっている。
カレーやラーメン、餃子など、外国の文化が日本に取り入れられ、あらぬ方向に進化し、オリジナルと違った姿になることはよくある。
和風のノルディックウォーキングはシニアに適した運動ということで、そのためのポールがシニア向けのショップで販売されている。独特の進化以外は実にロジカルだ。
このショップでは、電話による注文で代引きも可能というシニア向けのクラシックな発注システムが採用されている。注文の度に住所を伝えるのは面倒かもしれないが、職業人をリタイアすれば時間は豊富にあり、他者と会話する機会にもなるということか。
「歳はとりたくないものだ」と嘆いてシニアになることに抵抗感を抱えるオッサンたちは日本中にたくさんいる。けれど、今の私は積極的にシニア時代に向かって突き進んでいるように感じたりもする。
ミニベロのサイクリングと同じように、ウォーキングが趣味から日常の一部になればいいと思う。そのような心の拠り所を細かく蒔いて維持しておけば、老いに伴う喪失感や虚無感が少しは軽くなるかもしれない。