2023/03/23

理想的なオッサン像

通勤客とディズニー客で相変わらず混み合っている帰宅時の駅で改札に向かって歩いていたら、背後から誰かに足元を蹴られて靴が脱げた。ウォーキング用のシューズにLock Laces製の伸縮性のある靴紐を取り付けていたので脱げやすかったということもあるが、意図的にカカトを蹴らないとこの状態にならないだろう。

春先の駅や電車はおかしな人がたくさんいる。ディズニー客の鬱陶しさに苛ついた通勤客もいる。私が早足で歩いていたことが気に入らなかったのだろうか。私は脱げた靴を拾わず即座に振り向き、蹴ってきた人物を捕まえて駅員のところに行って警察を呼ぼうと思った。視線の先には、白髪頭でスーツを着ていない普段着の中年男性がいた。私よりも5歳程度は年上だろうか。明らかに五十路のオッサンだ。


春先の混み合った駅構内で苛つき、つい目の前の利用客の足を蹴ってしまったとする。靴同士の接触なんて首都圏の電車の乗り換えではよくあることだ。

見知った顔なんてひとりもいない、全員がモブキャラクターのような雑踏において、とりわけ階段を上っている時や、改札を通過する時にやたらと距離を詰めてくる輩は珍しくない。

また、私もオッサンなのでオッサンと書くが、このオッサンもミドルエイジの思秋期にいるのだろう。そもそも、この帰宅時間において、このオッサンはどうしてスーツではなくて普段着なのだろうな。仕事用のカジュアルという格好でもない。

だが、靴が脱げて飛んで行くレベルの蹴りは暴行や傷害の意図があると見なされて当然だろう。しかも、蹴られた側が看過せず、仁王立ちして睨み付けながらロックオンしてきたわけだから、このオッサンとしても意表を突かれたのかもしれない。

礼儀正しく、我慢強く、常識的な人間であれば、他者の足を蹴るようなことはしない。このオッサンはそれらを裏返した内面を有している。ミドルエイジクライシスで苛立っているかもしれないし、職を失って街を彷徨っているのかもしれない。だが、このオッサンの都合は私には関係がない。

私の体格は小さい方ではなく、武道の心得もある。さっさと捕まえて駅員のところに引っ張り込んでやろうかと思った。

ところが、そのオッサンは逆ギレすることもなく、片足が靴下のままメンチを切り続けている私に対して適当に頭を下げて謝ってきた。謝るのなら最初から蹴るなと思ったが、そのオッサンは急ぎながら改札を抜けて乗り換え口とは反対方向に逃げていった。

木の芽時のストレスで疲れていたのか、人生に虚しさや諦めを感じる思秋期のフラストレーションなのか、私の脳裏に危ういイメージが浮かんだ。蹴られて脱げた靴をそのオッサンに投げ付けるとか、すぐさま走って追いかけてオッサンの背中にドロップキックを浴びせるとか。

かなり疲れている。

そういえば、私が都心で生活していた頃、あまり治安が良くない地下鉄の駅構内では、そのような利用客同士のトラブルを実際に見かけたことがある。サラリーマン同士が胸ぐらを掴み合って怒鳴っていたり、昔であればチーマーとか今であれば反グレのような格好の若者が、接触した男性の背中に跳び蹴りを加えていたとか。

駅構内には防犯カメラがあって常に録画されている。また、最近では情報解析技術が進化しているので、トラブルがあった場所から自宅に帰るルートまでが追跡される。昔だから何とかなったということか。

今回に限らず、妻の実家がある浦安に引っ越すことになって往復3時間の通勤地獄に耐えることになったので、駅や電車でおかしな人から迷惑を受けることなんて日常茶飯事だ。「浦安に住んだから、こんな地獄に落とされた」と恨み節が口に出る。

ストレスが過度にかかると、耳鳴りや目眩、吐き気が襲ってくる。私が苦しんでいるのに気にしない妻子の生活を支える必要はあるのか。やはり、下の子供が成人した時点で別居するしかないな。

さて、思秋期に入ったオッサンが虚無感や徒労感、そして現実的な苦しみを乗り切るためには、日常に何らかの「楽しみ」や「新しさ」を取り入れる必要がある。

オッサンが急に何かを始めたり、逆に何かを止めてしまうということはよくあるのだが、そのような突飛に見える判断や行動には、未だ解明されていない高次脳機能科学的な機序が背景にあると私は勝手に考えている。

現代の医療や公衆衛生といった社会のシステムがなかったならば、私のようなオッサンの寿命はすでに尽きる頃だ。そもそも日本人の平均寿命が50代に入ったのは戦後になってからの話だろう。つまり、個体レベルで考えると、生物学的にはプログラムされていないステージをこれからの私が生きると解釈して矛盾しない。

いくら社会が高度化したところで、時間とともに染色体の末端は確実に削れている。この末端はテロメアとか分裂時計と呼ばれていて、この部分を解析するだけで年齢が分かったりもする。細胞の時限装置は着実に時を刻んでいるわけで、その速度は昔の人たちとの間で相違はない。

したがって、体力だけでなく気力が老いてきても、生きることそのものに疲れることがあっても、それはオッサンの変化としては不自然ではない。社会の環境がなかったとしたらすでに死んでいてもおかしくないわけだ。

ならば、私の足を蹴ってきた先述のおかしなオッサンも、行動原理としてありうるパターンというわけか。原始社会であれば外敵に喰われていたかもしれないし、江戸時代であれば無礼者と刀で袈裟斬りにされたかもしれないわけだ。

オッサンという時期をどのように生きるのか。そのテーマについては私の中で大まかな答えが得られている。今から振り返ると単純なことだけれど、この答えにたどり着くまでが大変だった。若者が思春期で思い悩むかのように、オッサンも思秋期で思い悩む。

若者の場合にはそこから刺激的な夏が待っているけれど、オッサンの場合にはその後に寂しい冬が訪れる。冬の後で春は訪れない。一年草かよと突っ込みたくなる。

五十路を意識し始めた頃の私は、「自分が職業人としてどのように生きているのか」とか、「これが望んだ家庭の姿なのか」とか、まあそういったことを深刻に考え続けた。

そして、無理を重ねてでも「プロとして輝き続けたい」とか、「格好良いオッサンになりたい」とか、「甲斐のない家庭であれば放棄するか」とか、まあそういったよくある思考の淵に落ちた。

オッサンになってトライアスロンやフルマラソンで頑張るとか、筋トレでムキムキになるとか、あのような行動パターンは、老いに抗いながら自分をより良く魅せようとか、まあそういったよくあるオッサンの取り組みだと私は理解している。小金持ちであることをアピールするオッサンたちも同様。

つまり、彼らの思考やモチベーションの中には、常に自分だけでなく他者が存在している。他者に自分の存在を伝え、他者からの反応によって自分の存在を確認しているように思える。だが、心身共に老いていくオッサンの場合には、より強く他者に自分をアピールする必要が生じ、結果として実体を伴わないペルソナだけが増殖したりもするわけだ。

しかし、よくよく考えてみると、オッサンが過ぎて老人になった時でさえ、自分の存在を他者に伝える必要があるのかというと、その必要はないように思える。活動を終えて世を去ることは生物の宿命だ。

オッサンがジイサンへの過渡期だと解釈すると、自分をアピールするとか、他者によって自らの存在を確認したいというベクトルは逆なのではないか。

定年退職した男性たちが、急に社会での居場所を失ったかのように真っ白になってしまう機序には、そもそもオッサンからジイサンへの移行に備えて価値観を変化させず、自らの存在論の中に他者を必要としたまま老後に入ってしまうことが関係しているのではないか。

老後のビジョンとして趣味や旅行、移住などを考えているオッサンは多いかもしれない。老後を待つことなく、人生は一度きりだと判断して現段階で脱サラしたり、高価な趣味品を買うオッサンもいることだろう。

しかしながら、オッサンからジイサンへの移行において準備する内容は、現段階での急激な舵取りではなく、老後の前向きなビジョンでもなく、自らの価値観の中から「他者」という存在を薄めることではないかと思った。

他者に気を遣わないように生きるという表現では、老害と揶揄される状態と誤解されるかもしれない。他者に絡むことなく、他者からの反応を期待せず、「ひとりで丁寧に生きる」という価値観。

そのような生活に細やかな「楽しみ」や「新しさ」を取り入れ、全体としてルーティン化させる。自己顕示欲や承認欲求なんて捨て去って、自分のスタイルを整えて維持する。

そのイメージを映像作品で例えると、深夜食堂の「マスター」や孤独のグルメの「井之頭五郎」の姿が思い浮かぶ。彼らの生活においても他者との接点はたくさんあるわけだが、生きる上での価値観において他者を必要としていないように私には思える。

彼らは派手な成功を求めたり、将来の華やかな夢を持っているわけではなく、地道に丁寧に生きている。また、生き方に無理がなく、自然体のスタイルが確立され、他者を巻き込まずに自分自身が納得して生きているように感じもする。

軸が振れることなく、まるで生きることを味わっているかのような彼らの姿には、オッサンの虚無感や悲壮感を覚えない。

興味深いことに、両者のストーリーには「妻」という要素がない。深夜食堂の場合にはマスターと中年女性とのプラトニックな付き合いはあったりする。若者たちから見れば彼らの生き方は色気が足りなくて無機質に見えるかもしれないが、現実論として妻子から歩くATMとして扱われるオッサンになれば分かることもある。

そして、多くのオッサンたちがマスターや井之頭五郎の生き方に共感したからこそ、これらの作品が受け入れられたのだろう。

この状態のオッサンからジイサンへの移行は負荷が少なく、むしろバリアフリーだと理解して差し支えない。無理に趣味を探して継続する必要さえなくて、気が付くと日常の一部になっているような存在が趣味になればいい。

しかし、日常の一部になるような趣味という論点については、私の中でまだ結論に至っていない。

孤独のグルメの井之頭五郎の場合には食事が趣味だ。食べることは人間の欲求や生活の一部なわけで、彼の趣味は生きることに限りなく直結しているように感じる。

では、深夜食堂のマスターの趣味は何かというと、全シリーズを視聴しても趣味らしい趣味が見当たらない。しかし、夜から朝にかけてたくさんの人たちを迎え、その人たちの人生に触れることが趣味になっているように思える。つまり、彼の趣味は仕事とオーバーラップしているということか。

現在の私の場合には、どのような存在が日常の一部として細やかな「楽しさ」や「新しさ」をもたらしてくれるのだろうか。その答えはまだ分からない。趣味を続けているうちに日常になるのだろうか。

ところで、駅でおかしなオッサンから足元を蹴られてウォーキングシューズが脱げて飛んだので、ミドルカットのトレッキングシューズをポチることにした。

往復3時間の通勤地獄、とりわけ駅構内の頻繁な乗り換えは、平地のウォーキングというよりも階段を上り下りする軽登山だなと感じていたりもした。混雑した駅構内は快適でもないし見晴らしも良くない。だが、これは軽登山のトレーニングだと意図的に思い込めば、通勤の苦痛が微妙に減るかもしれないと思った。

何より、足首を固定するようなトレッキングシューズであれば、おかしなオッサンから足を蹴られても靴が脱げないことだろう。

先に道具から入るのは不思議なことだけれど、配達されたトレッキングシューズを履いてみると、房総半島に行ってウォーキングを試してみようかなと感じた。鋸山や養老渓谷の辺りはウォーキングというよりもトレッキングに相当することだろう。

歩くことに変わりはないので、楽しみ方の幅が広がるかもしれない。その契機となったオッサンに少しは感謝しようか。