2023/03/19

ようやくウォーキングのスタイルが固まる

先週に少しだけミニベロに乗って走ったので、今週末はウォーキングで汗を流すことにする。サイクリングで出発する前には一歩を踏み出すような気持ちの勢いが必要になるけれど、ウォーキングの場合には日常生活の延長だな。適当に身支度を整え、ドアを開けて出発することができる。

千葉市の海沿いにウォーキングやジョギングに適した場所があり、電車に乗ればすぐに着くという環境は恵まれている。今の私は浦安という地理的空間に存在するだけで心拍数が上がり、目眩が襲い、吐き気を催す。「そんなに浦安が嫌なら、千葉市に引っ越しなさいよ!」と妻から怒鳴られそうだ。


新浦安という街はとかく人通りが多く、周回レースのように自動車や自転車が行き交い、鬱陶しくて喧しい。轟音を響かせながら上空を飛行機が通過し、義実家が自宅に突撃し、ディズニーが地域住民を無視して花火を上げた時には発狂寸前になる。

このような街は私にとって住むに値しない場所だ。しかし、さっさと引っ越したくても下の子供が浦安市立小学校に通っているので引っ越すことが難しい。

住んでいるだけでストレスによって健康を害する住環境に10年以上も耐えた。耐えたというよりも、満身創痍でボロボロになった。

夫婦関係が良くないオッサンあるあるだと思うけれど、休日に家の中にいると具合が悪くなり、家を出て街を離れると急に心身が楽になる。

家庭がある自宅こそが最もリラックスするという理想が崩壊し、家から出ると気分が楽になって元気になるオッサンの姿は無様だ。何のために家庭を持ったのだろうな。結婚する意味はあったのか、自分でもよく分からない。

さて、本日のパワーウォーキングは浦安の新町からJR京葉線の市川塩浜駅まで歩き、そこから電車で千葉みなと駅まで移動、そこから新習志野駅まで歩いた後で電車で新浦安駅まで戻ってくるという変則的なルートを考えてみた。

市川塩浜駅までのウォーキングは順調だったけれど、海浜幕張方面の電車に乗ってしまったので、千葉みなと駅にたどり着く前に途中下車することになった。乗り換えるのは面倒だ。私には二本の脚があるので歩くことにした。

歩き始めの時間は相変わらず頭の中で負の思考がループする。自分が置かれている状況への怒りだとか悲しみだとか、まあそういった気持ち悪い何かを自分の背中から後方20メートルくらいまで引き摺っているような感覚がある。

しかし、千葉市内にある海浜大通りはいつもながら快適で、新浦安の混み合った海沿いがとても異様に思えるくらいだ。どれくらい違うのかというと、海浜大通りが豪華な子供向けのキッズパークだと仮定した場合、新浦安の海沿いはデパートでよくあるクッションフロアの狭い遊び場のようなものだろうか。

千葉市の海沿いは堤防があったとしても立派な海岸であり、海の存在をダイレクトに感じることができる。また、海辺で個々の時間を過ごしている人たちの表情が素敵だ。リラックスしていることがよく分かる。

なぜだろうか、今日は色彩が頭に入る。

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それにしても千葉市は開放感がある。遊歩道を歩いている最中に多くの人たちとすれ違うという鬱陶しさもない。ただひたすら歩くことができる。

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大学の一般教養の生態学や行動学の講義だったろうか。生物には個体の生存において適した集団の「密度」があり、薄すぎても濃すぎてもよろしくないという当たり前の話だった。

その当たり前とも言える密度を本気になって数理学的に解析した研究者がいて、多くの生物に類似したパターンに当てはまらない種があった。それがヒトなのだそうだ。

明らかにストレスを受けて疲れたり、リソースを奪い合ってしまうにも関わらず、ヒトがどうして生物としての密度を踏み越えてしまうのかというと、そこには社会的な「都合」というものがあるという当たり前の解釈だった。

そんなこと当たり前じゃないかと学生時代の私は感じた。まさか自分がそのような「都合」を背負って生活するなんて予想してもいなかったし、浦安という街の人口密度はヒトがストレスなく生活しうるリミットを超えてしまっている。

そもそも、浦安市の人口密度において、定住人口以外の観光客の数は含まれているのだろうか。16万人の定住人口に加えて、5万人とか10万人といった数の観光客が押し寄せている。

また、浦安市の人口密度において、ディズニーや鉄工団地といった居住に適していない面積を市域として算入していないか。人が住まない土地を計算に加えると人口密度が薄くなる。

場所にもよるけれど、住民が体感する新浦安の人口密度は計算上の数値よりはるかに高い。私は都心で生活したこともあるのだが、息が詰まるほどの人口密度を感じたことがない。新浦安の住宅街の混み具合は凄まじい。

10km程度を歩き続けて、ようやく日々のストレスのノイズが頭の中から消えていったように感じた。

パワーウォーキングの速度は遅めのジョギングと同じくらいだと私は理解している。歩くことに疲れてきたら、あえてジョギングに移行してスピード感覚を掴んで、再びウォーキングに戻る。

歩くことに疲れたら走って休むという不思議な関係であり、そのまま走った方が楽かもしれない。しかし、いきなり走り出したオッサンが関節や骨を故障して挫折するという話は無数にある。もはや若くない。

ウォーキングシューズ沼を泳いだ後で見つかった厚底のシューズの調子は良好。キャップはフィット感がありつつ通気性があって快適だ。これから暑くなるとコンプレッション系の薄手のタイツ、それとドリンクボトルを腰に取り付けるバッグが必要になってくることだろう。今のうちに探して購入することにしよう。

スタートが昼過ぎだったので、すぐに日が傾いてきた。海浜大通りの海辺では、おそらくシーバスを狙っている釣り人たちの姿が増えてきた。

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美しい夕焼けを眺めたところで、自分の中に将来への希望が生まれるはずもなく、かといって徒労感が広がるわけでもない。

海浜大通りを折り返して検見川浜駅から電車に乗り、新浦安駅に戻ることにした。検見川浜駅の付近には住宅地が広がっていて、浦安市と比べて街灯が少ないからなのか、町全体が闇に包まれているように感じた。

日が沈めば暗くなるのが自然で、夜中も煌々と歩道が照らされている街の方が不自然だと思った。

幕張でイベントがあったのだろうか、途中の海浜幕張駅から多くの若者たちが電車に乗り込んできた。

しかし、毎日の通勤でディズニー客に突撃されている浦安市民の私にとって、この程度の突撃は大したことがない。頭にネズミの耳を取り付けてハイテンションで騒いだり、大きなキャリーバッグで押してくるような若者は見当たらない。皆、礼儀正しいものだ。

そして、新浦安駅に到着した。

カオスだった。もうこの街に住みたくない。

しかし、昨年の木の芽時のような絶望的な状況と比べると、今年の木の芽時は疲れが少ない気がする。完全に疲れをコントロールすることは難しく、現に疲れているわけだけれど、ウォーキングという活動がその回復に役立っていることは間違いない。

本日の歩行距離は16km程度。まだ身体が慣れていないので、20kn超を歩くのは数カ月後だろうか。

歩きながらふと感じたことがある。

実走のサイクリングは爽快で、黙々と歩き続けるウォーキングも充実感がある。とりわけ、気ままに歩いて適当な駅から電車に乗るという自由なコース選択が面白い。

この中間があればいいなと思った。つまり、輪行を多用するサイクリング。とはいえ、10kgを軽く超えるような自転車の場合、折り畳み自転車であっても輪行は重くて疲れる。

世の中ではブロンプトンが人気だけれど、ブロンプトンは重い。輪行袋への収納が義務づけられている日本の鉄道では、ブロンプトンのリアキャリアに付属しているキャスターを活用することが難しい。

ブロンプトンを手に入れたところで、それを担いで駅構内を移動するという気力が湧かない。

気軽にサイクリングを楽しみ、気楽に電車で移動することができるような折り畳み自転車がないものだろうか。

新たな沼の近くにやってきた気がしなくもないけれど、現在の私は生きることに厭きているわけだ。明らかに。生き続ける上でのモチベーションになりそうな何かを探すことは、無価値ではないように思える。

実際にウォーキングを始めてから人生が少しだけ変わって前向きになった。オッサンの日常なんて、その繰り返しだろう。