2023/03/09

ウォーキングシューズ沼なんて健康的で安いものだ

ずっと考えても答えが見つからないことがほとんどだが、希にあまり考えなくても答えが見つかり、どうしてこうなったと後方視的にロジックを遡ることがある。それらの答えは往々にしてシンプルで、余計な考えが介入する隙間もない。

昨年の木の芽時からストレス性の強い浮動性の目眩に襲われ、年末までずっと苦しみ続けた。サイクリングで走りまくれば何とかなると思っていたが解決に至らず、サイクリングに出かける気力さえ枯渇した。これは困ったということで歩きまくることにした。実にシンプルな答えだ。


私は大学に入った頃から斉藤和義さんの曲を聴き始め、今でもよく聴いている。

彼がリリースしたアルバムの中でも「ジレンマ」という作品は人の内面に蓄積する葛藤と虚無感を巧みに表現している。

とりわけ、「幸福な朝食 退屈な夕食」というアルバム収録曲は凄まじい。淡々と刻まれるリズムと歌詞が頭に響き、やがて自らの内面と同化して浸透していくような感覚がある。

不思議な曲だなと思っていたのだが、作家の伊坂幸太郎先生もこの曲にインパクトを受けたらしい。会社勤めを続けながら小説を書いていた頃の伊坂先生は、通勤中にこの曲を聴いて退職を決め、専業作家として歩むことにしたらしい。

この曲で特に心に刺さるフレーズがある。「僕が誰であろうと 君には関係ない」という歌詞と、「君が誰であろうと 僕には興味ない」という歌詞。この二つのシンプルなフレーズだけで、この社会の現状を映してしまっている。

昨今のネット社会では、さも自分の生活が充実しているかのようにSNSや簡易ブログで発信する人たちが多い。そんなはずがないだろ。生きていれば苦しい時や腹立たしい時、悩んでいる時があって当然だ。

しかし、そのような部分を隠して、自分は幸せだ、自分は楽しくて有意義に生きているとアピールする。それらに何の意味があるのだろう。

その人が誰であろうと、私には興味がない。リアルどころかネットでさえペルソナを被って疲れないのだろうか。ペルソナの背面にあるのは自己愛なのか、承認欲求なのか、虚栄心なのか。それとも、劣等感や寂しさの裏返しなのか。

一方、自分が考えているほどには他者が自分に関心を持ってくれているはずもなく、私が誰であろうと他者には関係がない。

その概念を拡大させると社会のモラルが崩壊してしまうわけだが、他者を鏡として自分の存在を確かめたいという気持ちを捨てることで、生きることが楽になったりもするわけだな。

新たな趣味として取り入れた「ウォーキング」が心身の不調を軽減させる効果があることは間違いない。歩きまくることでストレスが減るなんておかしな答えだ。答えが見つかった後で理由を考えるのもおかしなことだ。しかし、間違いなく答えが見つかった。

それにしても、ウォーキングという趣味は自分をアピールする内容としてはあまりに地味だ。

若者たちの飲み会にて結婚適齢期の女性が男性に趣味を尋ね、「最近は、ウォーキングにはまってるんだ、今度、一緒にどうかな」という返事がやってきたら、その男性は高い確率で女性からドン引きされることだろう。若い男性の趣味がジムや筋トレならば多少は女性から期待されるかもしれないが、若いのだから歩かずに走れよと。

あまつさえ、盛んなオッサンがキャバクラに行って嬢から「ご趣味は?」と尋ねられて、「ウォーキングだよ」と堂々と答えるシチュエーションもアレだ。健康志向かよ、人間ドックでメタボ判定かよ、酒飲むのかよといった言葉を噛みこらえた愛想笑いだけが嬢から降ってくることだろう。

世の中には100kmという距離を歩く人がいるらしい。ロードバイクで100kmとか、ウルトラマラソンで100kmを走破するのであれば格好が良いけれど、100kmも歩き続けるようなウォーカーは思考がおかしな人として判定されても不思議ではない。

しかしながら、私の場合には生きる上でのストレスを軽減するためにウォーキングが適していた。それが答えだった。

そのストレスを細かく分析していくと、答えの理由が分かる。ストレスの根本は、妻の実家がある浦安市という嫌な街での生活にある。長子を妊娠した妻が精神的に不安定になり、浦安に引っ越すのであれば何とかなるという話で引っ越すことにした。それは妻にとって何とかなるという話であって、私にとっては何ともならず地獄のような日々が続いた。

そして、地獄の中で苦しんでいる自分の姿が「無様だ」と感じること、それが精神的疲労に繋がっている。どうしてこんな生活になったのだと後悔したり、結婚すべきではなかったと自己を否定したり。

そのストレスをさらに突き詰めていくと、往復3時間の通勤が実質的な問題になっている。

浦安は東京の隣にあるが、鉄道でのアクセスは良くない。浦安市の当代島地区に住んで、職場が東京の江戸川区にあるような人は最高のアクセスかもしれないが、JR京葉線で東京に入り、そこから何度も地下鉄を乗り継ぐような人には面倒な立地だ。

JR京葉線の場合には舞浜駅があるので、ネズミの耳を頭に取り付けた人たちが押し寄せる。この人たちは車輪が付いた大きな鞄を引きずり、皆が同じデザインの派手なビニール製の袋を手に提げ、恍惚とした表情で歩いている。そのほとんどは夢と魔法というイメージによって興奮しており、地域住民に配慮するはずもない。

人の感じ方は人それぞれだが、素面の地域住民である私にはディズニーやディズニー客に宗教性を感じる。

サイクリングで千葉県内のとある宗教団体の施設の前を通りがかった時、大勢の人たちが同じ格好で同じ物を持ち、幸せそうな表情で歩いている姿を見かけたことがある。

施設にはシンボルとなるモニュメントがあり、施設の外にまで環境が波及していた。どうしてそこまで熱心になるのか分からないが、その人たちにとっては大切で幸せな場所であり活動なのだろう。

日常から切り離されたエリアの中で個々の自我が溶けて塊を形成し、その状態に人々が幸福感や充足感を得るという構図が、ディズニーと宗教においてよく似ている気がする。

当然だがディズニーは宗教ではない。しかし、熱心なディズニーファンが「信者」と揶揄されることがあるのは事実だ。信者と揶揄される背景には、他者から見て宗教性が感じられるからだろう。まるで信仰の対象のように舞浜に集まってくる人たちの脳には何が見えているのだろう。

自然とかけ離れた人工的な環境の中で悦に浸り、大金を払って幸福感を得る。そのことに何の意味があるのだろう。

もしかすると宗教とディズニーにおいて人々の脳のよく似た場所が活性化し、よく似た感覚を受けているのかもしれない。

「ジーザス・イン・ディズニーランド」というタイトルが付けられた海外の真面目な社会学の専門書の内容を思い出した。この本はポストモダニズムについて論じていて、ディズニーが宗教だと直接的に指摘しているわけではない。

社会が発展し、信仰心が薄れ、消費に傾いた人々が何を心の拠り所にして生きるのかという内容だった。かつてのキリスト教圏では信仰の中にジーザス、つまりイエスがいたわけだが、近代化した社会においては信仰の外に心の拠り所を求めるケースが増えた。

人によっては心の拠り所がディズニーという空間そのものであったり、この世界に登場するキャラクターだと解釈すると、興味がない人には狂気すら感じるディズニー客のテンションも理解しうる。

しかし、最近ではディズニー客が舞浜地区に収まらず、新浦安全体に溢れてしまっている。この状況は住環境として深刻だ。自分が住んでいる新町エリアの日の出地区や明海地区にディズニー向けのホテルが次々と建設され、ネズミの耳を頭につけた人たちが新浦安駅や住宅街に押し寄せている。

キャリーバッグを引いたディズニー客が、歩道で横に3人並んで道を塞いだり、酷いときには交差点で横に7〜8人も並んでいる時さえある。ここはディズニーの中ではなくて、一般の街中だ。どのような思考なのか理解しがたい。モラルがぶっ壊れてしまっている。

コロナ禍が明けた現在ではディズニー客の勢いが凄まじい。ディズニーに宗教性を感じている私にとっては苦痛を覚える。

もはや浦安市の新町エリアは閑静な新興住宅地とは言えない。光るネズミの耳を頭に付けたまま練り歩いて警官から職質を受けない街は、新浦安くらいだろう。その状態のままディズニー客がイオンで食料品を買っていたりもする。他の地方であれば明らかに不審者だが、この街では地域住民がディズニー客からモブキャラクターとして扱われる。

こんな町が住み良いはずがない。地域住民と観光客の動線を交差させてしまった浦安の行政は無能だと言わざるをえない。

自宅と新浦安駅を自転車で往復しようとすると、大通りの歩道を我が物顔で歩くディズニー客がとても鬱陶しい。この人たちとしても観光を楽しんでいるので一方的に邪魔だと文句を言うことはできず、ただひたすらストレスが蓄積する。

その後、新浦安駅に入るとディズニー客が通路を塞ぎ、途中の経路で派手な買い物袋を下げた人たちがいなくなったと思ったら、そこからは都内の地下鉄の構内を歩き続け、ホームで立ち続け、混み合った電車でストレスを受け続ける。職場にたどり着いた時点で疲労困憊だ。

妻としては慣れ親しんだ郷里で生活しており、精神的に共依存している実家もある。しかし、自らの苦しみを耐えてでも妻に快適な環境を用意した私に対して感謝も労いもない。

千葉県出身の女性と結婚して、都内から千葉に引きずり込まれた男性において、よくある話なのだろう。JR京葉線で安酒を飲みながら電車に乗っているオッサンたちの姿には、かつて希望を抱いて家庭を持ち、いつしかそれが疲れと諦めに変わってしまった千葉都民の悲哀を感じる。

仕事が多忙、かつ往復3時間もストレスフルな通勤に費やしていると、浦安に戻ってきてから運動に励む気力も体力も残っていない。千葉都民のオッサンたちの腹回りを眺めれば分かることだ。彼らの多くが運動不足でカロリー過多。カロリーを摂取してしまう理由も分かる。これだけストレスがかかるのだから仕方がない。

通勤時に最も絶望的になるのは、陽の光も届かないコンクリート作りの地下通路をスマホゾンビたちと一緒に頭を下げて歩いている時だ。大切な人生の時間をこんなに無駄なことに使って、何が幸せなんだと。

それでも、家族が自分に感謝してくれれば頑張ろうという気持ちにもなるが、妻や子供たちは私に何の気遣いもない。下の子供が成人した段階で別居することを決めているわけで、頑張る気持ちさえ湧かない。

しかしながら、ウォーキングを趣味に取り入れた場合には、このように鬱屈した毎日の解釈が変わってくる。

自宅と新浦安駅の自転車での往復。このルートにディズニー客が押し寄せるのでストレスになっていた。ならば、最初から自転車に乗らずに歩けばいいという話だ。

すると、浦安市の新町から新浦安駅までの距離は片道だけで1kmを超える。駐輪場に自転車を停めて係員に挨拶する必要もなく、バス停で立って待つ必要もなく、自宅から駅まで直行直帰だ。

パワーウォークで自宅と新浦安駅を往復すれば、自転車やバスを使った場合と大して時間も違わない。

その後、駅構内をスマホゾンビに苛つきながら歩くのではなくて、スマホゾンビなんて気にせずにパワーウォークで追い抜かせばいい。

すると、あれほど悲壮感が漂っていた往復3時間の通勤の見方が変わってきた。駅構内の乗り換えだけでも往復2km以上も歩いているわけで、自宅と新浦安駅の往復を含めると通勤だけで5kmの距離を超えるパワーウォークが可能なわけだ。

ウォーキングであっても、合計の活動時間が20分間を超えたくらいでトレーニング効果が生じるそうなので、運動不足の毎日において貴重な活動になる。

加えて、自分としては暇つぶし程度でインナーイヤーのヘッドホンを耳に取り付け、ノイズキャンセリング機能を起動させ、様々な曲を流しながらウォーキングに取り組んでいた。この些細なことがストレスの軽減に繋がっていたらしい。

私が新浦安の街中を通行すると、どうしてストレスを受けるのか。人口密度が高くて鬱陶しい街のデザインによるものだと私は考えていたのだが、実際には「音」が関係していた。

新町の住宅地と新浦安駅を往復する場合、区画整理された埋め立て地ではシンボルロードという大通りを通行することになる。古くから町が形成されたような土地であれば複数の道があったりもするが、埋め立て地では状況が違う。

あらかじめ幅の広い歩道、その中央に片側3車線の自動車道が設置されている。自動車道は引っ切りなしに車が通行し、継続的にエンジン音が響いている。しかも、羽田空港を離着陸する航空機の音が響いていたりもする。とにかく喧しい街だ。選挙シーズンはさらに喧しい。

聴覚過敏を有している私は、ディズニー客による狂気を帯びた大声だけでなく、このような環境音によってストレスを受けているらしい。それらをヘッドホンで遮断すると疲れが減る。どうしてこんな単純なことに気が付かなかったのか。ああそうか、自転車に乗って通行していたのでヘッドホンを付けることができなかったからだな。

ところで、様々な機材を使うことができるサイクリングと比べて、もちろんだがウォーキングでは特にこれといった機材は必要ない。ウォーキング用のシューズがあればいいなという認識で、まあ走るわけでもないし適当なもので構わないだろうと思っていた。

しかしながら、ただ単に歩くだけの運動だからこそ、シューズの存在感が半端ない。最初の5km程度は大して意識しないのだが、足に合わないシューズを履いていると、10kmを超えた頃から足の甲やふくらはぎ、膝にまで疲れや痛みが蓄積し始めたりもする。

足とシューズの間で違和感があるというだけでも、ずっと歩いていると気になり続ける。

結果、新しいウォーキングシューズを購入し、長い距離を歩きながら何だか違うと感じ、再び新しいウォーキングシューズを購入し、長い距離を歩いて何だか違うと感じ、再び以下略という「シューズ沼」にはまることになった。

散歩程度であればウォーキング用のシューズが用いられるようだが、パワーウォーキングの場合にはランニング用のシューズが適しているらしい。

ところが、ランニング用のシューズの場合には走ることを想定しているので、当然だが衝撃吸収性や反発性が設計に加味されている。しかし、歩く場合にはランニング用のシューズのソールが固く感じる。

かといって柔らかすぎるソールのシューズの場合には足に力が入らない感じがある。

理想としては歩いているだけで心地良く、「よし、どこまでも歩いて行こう」という気持ちになるシューズ。しかも、防水仕様で通勤にも使えるシューズ。なんとも抽象的な条件なので、ネットで検索してもヒットしない。

スポーツショップに行って試着すればいいじゃないかと思って試してみたわけだが、足とシューズの相性は10km程度を歩いてようやく分かる。なので、試着では足りない。

ということで、気になったシューズを片っ端からポチり、自室の中はランニングシューズだらけになってしまった。まさに沼だ。

だが、サドル沼やステム沼、ホイール沼、タイヤ沼といった多数の沼が存在しているサイクリングという趣味と比較して、ウォーキングという趣味での沼はシューズだけだ。その他にあるとすればバッグ沼くらいか。

そして、「よし、これを履いてどこまでも歩いて行こう」という気持ちになることができるシューズが見つかったので、足に合わなかったシューズはメルカリで売りさばくことにした。

ところが、サイクルシューズの場合には出品すればすぐに売れるけれど、ランニングシューズはさっぱり「いいね」が付かない。それぞれのランナーがシューズ沼を泳いで自分にフィットするシューズを見つけているからなのか、そもそもの種類が多すぎて購入者が現れないのか、その理由は分からない。

仕方がないので、沼を泳いだ後に残った不要品はゴミ袋に入れて廃棄することにした。

それにしても、安物とはいえ10足以上のシューズを次々に買っているにも関わらず、夫の不可解な行動について何も関心がない妻の精神構造を理解しえない。

普通の妻ならば、「どうしたの?」と夫に尋ねてもおかしくない状況だが、まあこれが家庭内別居という状態なのだろう。互いのパーソナリティが全く合っておらず、互いにコミュニケーションを拒否している。よくもまあ結婚したものだ。

夫が何をしようと妻には関係なく、妻が何を感じようと夫には興味がない。ただそれだけ。

ただし、夫である私がストレスによって潰れた場合には、婚姻関係は破綻し、妻や子供たちは経済的に苦しむことになる。そのリスクを何ら理解していない我が妻子には失望しかないが、私は妻子のために生きているのではなくて、自分のために生きている。

自分が望んでいないストレスによって潰れるなんて無様でしかなく、ただストレスに耐える必要もない。少しでも抗うことで心の疲れが減る。ウォーキング用品なんて、寛解の見通しがない薬漬けよりもずっと安上がりだ。

その一方で、節倹生活をゲームのように楽しんできた私にとって、今回のシューズ沼は論理的ではない出費になったことは間違いない。

実際に歩いてみないと足とシューズのフィッティングが分からず、モデルの終売を考えると気に入ったシューズのスペアを買い込んでおく必要もあるので、自暴自棄になったわけではない。しかし、新しいシューズを捨てるという行為が愚かに感じる。

考えても仕方がないので、現実から少し離れよう。

そういえば、最近の日本の社会は江戸時代に回帰しているように私には感じたりもする。各論について指摘すると角が立つので言及しないが、まるで江戸時代やそれ以前のような構造だ。この社会は外圧がかからない限り、形状記憶合金のようにデフォルトに戻ってしまうらしい。

風俗面について考えると、好色なオッサンたちが金を出して女性との時間や接触を買っている姿は、江戸時代から何ら変わっていない。新宿では若い女性たちが道端に立って春を売っているらしい。江戸時代の街娼とよく似ているが、その背景にあるのは貧困ではなくて、ホスト通いにあるそうなので、江戸時代よりも狂っているように感じられる。

あまつさえ、かつては援助交際と呼ばれていた春を売る行為が、最近ではパパ活という名前になって広がっているらしい。いわゆる私娼だが、このような行為は江戸時代どころか奈良時代から現在まで続いている。

しかしながら、パパ活でオッサンが女性に手渡す金額の相場を眺めて驚いた。1回で5万円から10万円だと?

それだけの大金を払ってまで私娼との時間を過ごしたいオッサンがいるからこそ、実際にそのシステムが成り立っているのだろう。世の中は不景気やインフレに苦しんでいるけれど、オッサンの煩悩は社会の状況さえ超越するらしい。

今回のウォーキングシューズ沼で私は5万円近くの金を使ってしまった。自分に適したシューズが見つかったので、スペアは無駄にならないし、今後は消耗品としての補充だけだ。けれど、沼で買い込んだ余分な出費が心に重く乗っている。

にも関わらず、世の中には、たった1発の発射だけで10万円を払ってしまうオッサンがたくさんいるということか。男の煩悩は奥深い。

心身の健康の維持に必要な消耗品のフィッティングのために5万円を費やし、それによってストレスを減らし、家庭の不和も減らすという意味であれば、パパ活よりも健全で理にかなった金の使い方だと信じ込もう。

比較対象の設定において若干の飛躍があるように思える。