「君の名は。」よりも強烈な母校の同窓会からのメール
この作品はとても大ヒットしたアニメ映画なのだそうだが、私は気にしたことがなかった。なるほど、公開が2016年か。その時期の私はバーンアウトを起こして死にかけていた。自分なりに頑張って生きていたらしいのだが、あまり記憶が残っていない。ということで、「君の名は。」を視聴したところ、確かに素晴らしい作品であり、自分はさらに死にたくなった。ネットを眺めてみると、この衝動はよくあることらしい。
「天気の子」や「君の名は。」に共通しているのは、子供から大人に変わる大切なステージ、それと男女の淡い恋愛をテーマにしていることだな。視聴すればすぐに分かることだ。
では、そのようなテーマの作品を視聴して、どうして死にたくなるのかというと、人生を方向付けた岐路を再認識して、現在における自分と照らし合わせ、決して引き返すことができない「時間」という存在に絶望するからだろうか。それは意識下の思考だけではなくて、自ら意識することのない深層心理にまで広がる。
あくまで自分なりの解釈だが、結婚という社会の仕組みは必ずしも男女の愛情を基盤としていない。むしろ、生活設計という点では住居の物件探しと同じようなものではないかと思ったりもする。
結婚に至る過程では相性が良いとか、これが最良な選択だと思って先に進むけれど、男女ともに様々な思惑の上に婚姻という関係が成立するわけだ。互いにペルソナという仮面を被って。
その後、ペルソナが剥がれて互いの本性が表面化し、軋轢だとか対立だとか、まあそういった諸々が浮上し、婚姻という社会制度の中で男女が生活することになる。それが嫌で関係を解消することもあり、単純計算では3組に1組の夫婦が離婚するという世の中になっている。
では、新海監督のふたつの作品がなぜに私の思考を揺さぶるのか。高校時代の恋愛というものは、男女のペルソナの影響がとても少ない。少ないというか、本性が剥き出しの状態なんだな。
男性について言えば学歴だとか職歴だとか、まあそういった「物件情報」は伴っていないし、女性においても自らを飾る必要がない。婚活において不条理なまでに当たり触る年齢という条件も関係がない。社会が人に押しつけるレッテルが貼られていない状態での男女の関係というか。
うちの妻は、女子中学からエスカレーターで女子高校に上がり、大学を経て就職して結婚した。その間、ずっと実家暮らしだった。妻は、このような純愛モノの映画には全く感じないそうだ。そもそも恋愛を経験したことがないまま家庭を持った。私という存在はマンションの物件のようなものだろう。もう諦めた。
「君の名は。」で男女が入れ替わっていることに気が付いた前半のシーン。最も盛り上がる場面で流れるRADWIMPSの「前前前世」という曲のYouTubeでの再生回数は3億回に近い。それほどまでに多くの人たちの心に突き刺さったということか。
幅広い世代についてはよく分からないが、五十路付近のオッサンとしては大きく分けて二つのパターンがあることだろう。高校時代に淡い恋愛を経験していなかったけれど、「このような世界があったなら」と全てが空想ベースで振り返る人。
もうひとつは、淡い恋愛に至った、もしくは心の中だけで意中の女性がいたという人。「あの時、こうしていれば」と、考えても仕方がないことを考えたりもする。
しかも、高校から大学に進む、あるいは社会人になる過程は個人において激動のステージだ。たくさんの判断すべき事象が押し寄せる時間に、よく分からないけれどとにかく先に進むような感覚があった。
オッサンになった自分が振り返れば違ったことに気が付いても、若人の頃の自分は分からなかったことは多い。人生だとか結婚は「ガチャ」と表現されることがあるけれど、その過程には個々のレベルでの「縁」があるように私には感じられる。
仏教用語では、「因即縁」という表現だろうか。完全なる確率論でガチャを回したのではなくて、その結果に至る理由や背景がある。その中には自身の判断も含まれる。
つまり、自らの生き方を方向付けるステージの可能性だとか潜在性だとか、まあそういった自由が広がっていた時期の気持ちと、物件探しのようなペルソナのない男女の純粋な恋愛を懐かしむ気持ち。振り返ることなく心の中に収まっていた思考を根こそぎ引っ張り出されるので、先の作品を視聴すると死にたくなるのだろうな。
過去の淡い気持ちと現実の状態を対比してしまい、深層心理を含めて全てをリセットしたいという自暴自棄なスイッチが入るということだ。
とはいえ、五十路に入ろうとしている私においては、過去を懐かしんだところで、軌跡を後悔したところで何の意味もない。残りの時間は20年程度だ。今さら引き返すことなんて不可能だ。たかだかアニメの恋愛作品で感動したとしても、もはや自分の子供たちがそのステージに入るだけの話。
新海監督の作品がいくら素晴らしかったとしても、それは空想の世界でしかない。これがオッサンの現実だと諦めて出勤していたところ、プライベートなメールにメッセージが届いていた。母校の高校の同窓会からのメールだ。
送り主は、私が高校に通っていた当時の国語科の女性の先生だった。クラスが違ったので直接的に教わったことがなかったが、30年近く前からずっと同じ学校で教壇に立っていたらしい。
ということは、私が高校に通っていた時、その先生は20代だったということか。失礼ながら、四十路くらいの貫禄があったな。彼女は学生時代に陸上の選手だったそうで、校庭で槍を投げてもらったら、どこまでも飛んで行って焦った。
しかし、高校の同窓会メールというものは、要は自分の子供や知り合いの子供を母校に入学させてくださいというプロモーションなのだと私は理解している。
私の場合、こんな故郷には二度と戻るまいとボストンバッグひとつで首都圏を目指し、そこで職を得て、家庭を築いて生活している。今さらUターンなんて考えたくもないし、子供が母校に入学するはずもない。
だが、その先生からのメールは単なるプロモーションというよりも、自らの教師人生で関わった人たちに何かを伝えたいという熱い気持ちが加味されているように私は感じた。というか、熱すぎる。昔から熱かったな。
その同窓会メールには一枚の写真が添付されていた。日が沈んだ高校の屋上から市街地を見渡したような写真だった。首都圏の夜景と比べればあまりに地味だけれど、とても懐かしい夜景だった。
だが、直近に視聴した新海誠監督の作品が、自分の深層心理に大きな影響を及ぼしていたらしい。
通勤中にその写真を見た私は、忘れていた記憶を鮮やかなまでに思い出し、内面から崩れ去った。乗り換えの駅で辛うじて下車し、もはや亡霊のような状態のまま歩いて、気が付くと職場にいた。
オッサンが語るとキモいことこの上ない話だけれど、当時は私も若かった。
高校の卒業式の日だったな。式が終わって学校を去ろうとしたところ、校門の前で一学年下の後輩が待っていた。半年くらい前まで交際していた女子だった。
交際といっても手を繋ぐことさえない清い関係で、携帯電話も普及していなかったので手紙でやり取りしたり。お互いに交際とは何かという疑問に突き当り、自然に関係が元に戻った。
しかし、私が卒業していなくなる時に彼女の気持ちの中で何かが変化したのか、あるいは単に挨拶に来てくれたのか、自分にはよく分からなかったけれど嬉しかった。
二人で街中を出歩き、日が暮れかけた頃。
街の高台にある公園で、私は人生で初めて女性と唇を重ね、初々しく手を繋いで二人で街の夜景を眺めた。
私は大学入学のタイミングで故郷を離れるので、これからの関係を考えると切なくも複雑な気持ちだった。
当然だが二人とも学生服だったわけで、今から考えるとスゲぇと思わざるをえない。おそらくオッサンのパパ活や不倫よりもハードルが高いことだろう。やったことないけれど。
国公立大学の二次試験は高校の卒業式の後だった。親になった自分から見るとなんてことだと思う。
しかし、私は大学入試を受ける前から確実に合格するという気持ちになっていた。「この人と生きていく」という存在が見つかったので、大学入試は職業人になるための手段でしかない。二次試験の受験会場で問題を眺めた瞬間、私は勝利を確信した。実家に帰った直後に親には合格したと伝えた。当然だが合格発表の前だ。
私立大の滑り止めを用意せず、国立大の第一志望にストレートで合格。いやはやなんとも若かったな。
どこかの録で記したかもしれないが、その女性とは大学に進んだ後も何度か生き方が交錯したが、結婚には至らなかった。彼女は関西地方の国立大学に進んだのだが、首都圏で就職して働いているらしい。
今から思うと、少しのタイミングや判断によって夫婦になっていたと思う。彼女はとても穏やかな人だったので、家庭で大声を上げて暴れることはないだろうし、聡明な人だったので、子供の学力で悩むこともなかったのだろう。
一歩を踏み出せなかったのは私自身の甲斐性のなさによるもので、色々と都合もあった。それらもまた「因即縁」なのだろう。
今から振り返ると、当時の自分はどうして些細なことにこだわっていたのだろうかと思ったりもする。そのようなことにこだわらずに、さっさと結婚しておけば、今のような後悔はなかったわけだ。
考えたところで意味がないけれど、ペルソナがない状態で出会い、引かれ合った男女が夫婦になっていれば、3組に1組が離婚なんて社会にはなっていない。
先が全く見えない迷路の中で必死に出口を探し、ようやくゴールしたのが現在の状況だ。
しかし、婚活だとか現在の生き方だとか、まあそういった様々な記憶を放り出して、同窓会のメールで母校の先生が送ってくれた写真の夜景を見つめると、若かりし日の淡い気持ちが思い出される。
その後の自分の生き方に感謝したいこともあるし、自分自身を殴りたくなることもある。繋いだ手を離すべきではなかったとオッサンが振り返ったところで遅すぎるわけで、今さらオッサンとオバサンで再会してホテルに直行しても何の意味もない。過ぎ去った時間は長い。
なるほど、強烈に心に刻まれている街の夜景を構成しているは、当時の街の灯りだけではなくて、自分たちの生き方そのものだったということか。ポエムに浸ったところで笑い話でしかないが、その後の生き方をもっと真剣に、というかもっと楽観的に考えて進むべきだったのかもしれないな。
だが、楽観的に考えて進んだとしたら、今の生き方はなかっただろうし、「これでいいのだ」という投げっぱなしジャーマンのような結論に至る。
深く考えることなく、自分の人生にも美しいエピソードがあったということを心の中に収めておくだけだな。子供たちに話せば「父さん、キモいよ」と言われるだけだ。
子供が思春期になると、「人はなぜ子供を産み育てるのか」という命題に直面する。こんなことなら子供なんていらなかったのではないかと。
まあその繰り返しで人類が続いてきたことも確かで、翻って結婚後の成り行きがネットで晒されて少子化に至っているのかもしれないが。
タイムリープが起こって、高校時代の彼女と手を繋いで夜景を眺めた時点に戻りたくないかと言われると、確かに戻ってみたい気もする。そこから人生をリセットしたいような。
オッサンになってレトロスペクティブに振り返ることができるからそのような気持ちになるのだろうけれど。
まあそういった思い出したくない記憶までを引っ張り出してしまった結果、死にたくなるという感情に至るのだろうな。新海監督の作品は素晴らしいけれど、人が作り出す内容としてはあまりに深淵であり、良い意味で残酷だな。
そして、母校の同窓会メールはさらに素晴らしくて残酷だった。担当の先生が投げ込んだ槍が自分の記憶や感情に直撃した。刺さるどころか貫通して崩れ去った。凡庸な毎日の中でとても大切な機会をもらったことに感謝したい。