パワーウォーキングを開始する
最近になって気になることがある。それは、職場のエース級の人たちが次々に離職して別の生き方を選んでいることだ。疲れているのは私だけではなかったらしい。大活躍した人たちがいなくなって一時的にパワーダウンしても、すぐに人員が補充され、全体としては恒常性が保たれる。彼らのようなエースでさえ、組織においては歯車でしかなかったということか。
それにしても、往復3時間の通勤地獄が厄介だな。1日の物理的な仕事の時間と活力を根こそぎ奪ってしまう。人口過密な上にディズニー客が押し寄せる住環境は最悪だ。
さらに、昨年末、妻と義実家の共依存について激論が勃発してからは夫婦の会話がほとんどない。妻が自宅で暴れた2015年頃に比べれば安定しているが、その時よりも張り詰めた雰囲気が家庭に広がっている。
人間の精神というものは、適度なストレスやプレッシャーがある方が健康的だと私は考えているけれど、物事には限度がある。目眩や耳鳴りがするストレスや吐き気や頭痛がするプレッシャーは健康的ではない。
大きなタスクで失敗すると職業人としての信用を失うわけで、とはいえたくさんの小さなタスクで失敗すると助けを求めてきた人たちの人生に悪影響を生じてしまう。本人だけでなく家族の人生を含めて。私に託されたミッションはとても重く、同時に自分が生きていることを実感する。
バーンアウトでの過去の経験に基づくと、このままの疲労が続いて私のメンタルが崩れた場合、最初に生じるのは判断力の欠如だ。簡単なことさえ判断することができなくなる。
その後にやってくるのは感情の枯渇。モチベーションの低下と自己否定。文字が滑って読み取ることができなくなったりもする。
最後に、希死念慮がやってくる。
転生系の魔法アニメで例えると、迷宮で戦っているうちにポーションを使い切り、自分自身に回復魔法をかけながら、かろうじてHPの枯渇を回避している状況だな。あと一撃で終わる。
いや、むしろ転生系によくある過労もしくは事故によって絶命し、これから転生する状況か。無様すぎて笑う。
ただでさえ私は疲れているのだから、異世界に転生して勇者とか賢者になって魔王と戦うとか、まあそういった疲れる展開は勘弁したいものだ。
そのように空想していたところ、最近の転生系アニメでは、生まれ変わってから農業だとか料理だとか、まあそういった分野でのチート能力が授けられ、スローライフでのんびり生きるというテーマの作品が高評価を受けている。もちろんだが、主人公の近くには優しくて美しい女性が連れ添っている。
制作者側も視聴者側のニーズをきちんと把握しているということか。安直すぎて笑う。
もはや自転車のペダルを回してリフレッシュする気力さえ残っていない。自宅で眠っていても途中で目が覚めてしまうので、睡眠時間も十分ではない。
とにかく積み重なったタスクを必死にこなすだけ。オッサンの弱音を吐きたくても聞いてくれる人がいない。心身共にガス欠状態だ。
仕事については休日の出勤や在宅残業を織り交ぜながら地道に対応していくしかない。どんな仕事でも最初の取っ掛かりは大変だが、没頭しているうちに楽しくなる。そして、頑張りすぎると倒れる。この仕事ならば過労死しても本望だが、家庭のストレスがトッピングされた疲れで倒れたくない。
今回の年末年始の不調は、かつてのクライシスと比較して重症というわけではなく、しかし徒労感や虚無感は経験したことがないくらいに大きい。
子供の頃にガッチャマンの再放送を視聴し、いつかは社会を守るヒーローになりたいと憧れて、まあそういったヒーローっぽい仕事を目指した。しかし、守ろうとした社会とはこのような存在だったのかと、大なり小なり失望を感じていたりもする。
人は困った時には自分のことしか考えなくなり、不満を溜めて批判を放ち、シニカルな思考を隠さなくなる。
社会が安定している時には目立たなくても、社会に混乱が訪れるとおかしな思考や行動に走る人たちが目立つ。これが人の多様性なのだろう。
仕事とはいえ、そのような人たちまで守る意味があるのか。
職場を離れてしまうエース級の同僚たちは、さらにハードな場所で高みを目指すというよりも、スローライフを求めているように感じる。結局のところ、疲れてしまったのだろう。
加えて、私の場合にはプライベートで穏やかな家庭を望んで結婚して子育てに入ったけれど、この家庭は私が望んだ姿ではないと実感してしまった。このような家庭を続けることに意味があるのだろうかと。
昨年の春先からのストレス性の不調に加えて、仕事でも家庭でも色々な悩みを抱えつつ、しかしタイトなスケジュールをこなしているのでサイクリングで怪我をするわけにもいかないと、趣味を抑制しすぎた。これが良くなかった。
この年末年始から続く徒労感や虚無感は、明らかにストレスと運動不足によって脳と身体との調和が崩れてしまっていることに起因するのだろう。
サイクリングどころか、自室でスピンバイクに乗ってペダルを回すモチベーションさえ生じない。自分はどうしてペダルを回すのか、なぜに回さなくてはならないのかと気怠くなってしまう。重症だな。
サイクリングやスピンバイクトレーニングに厭きたというわけではなくて、全身にかかる重力が増えたかのようにあらゆる行動が億劫になる。うつ病になった人は布団から起き上がれなかったりもするが、このモチベーションの消耗は自分でもよく分からない。
では、自分よりも明らかに老いていて、自分よりも明らかにストレスを受け、自分よりも明らかに激務をこなしている人は、どうやって疲れを軽減しているのだろうかと不思議に思った。
その手本となる人物がいる。うちの職場のトップだ。尊敬をこめて、私は彼のことを心の中でキングと呼んでいる。同業者の中でも卓越した能力と実績を有し、もはや神のような存在になってしまっている。
私は職場で古株なので、彼とは顔見知りだったりもする。飄々としていながらも、自らの我を制御することができ、どんなに過酷な状況でも顔色を変えない。イエスマンでトップに登り詰めたわけではなくて、実力によってトップになった。
以前、ロードバイクで浦安から都内まで通勤していた頃、夜の帰り道に軽やかな足取りでオッサンが歩道を走ってきた。どこかで見た姿だと思っていたらキングだった。彼の趣味はマラソンやジョギングで、毎年フルマラソンを走破していた。
このような場合、職場の上司に挨拶をすべきかどうか悩む。私はそのまま浦安に向けてロードバイクで帰るわけだが、おそらくキングはジョギングで都内を走り、夜の職場に戻って汗を拭き、もしくはシャワーを浴びてから仕事を再開することだろう。
「夕飯でもどうだ?」なんて誘われたら徹夜コースだ。幸い、私はヘルメットを被ってアイウェアを装着している。出世欲もない。ということで、私は知らないふりをして走り去った。
話は現在に戻り、共働きの育児が一段落した私は、鏡の前で自分の姿を見つめていた。この数年で急激に老いた。そして、キングも老いた。エース級の同僚たちが次々に離職するような状況だ。ポーカーフェイスのキングもさすがに疲れたのだろう。
仕事の休憩時間に、キングと同じくマラソンやジョギングを趣味としている同僚と会話を交わした。その同僚は若い頃から走っていたのだけれど、膝を壊して走れなくなったそうだ。
そして、キングも足を故障してしまい、走れなくなったそうだ。私はその話を聞いてとても寂しくなった。いつまでも完全無欠の人なんていないだろうけれど、彼ほどの偉人であっても日常を続けられなくなるのかと。
走ることを趣味として、また心身の健康維持として楽しんでいる人たちにとって辛いことだろう。
その二人のランナーに共通しているのは、健康診断でメタボ判定されたとか、急に思い立ってランに目覚めたとか、そういった人たちではないということだ。10年以上も走り続けて、毎年のフルマラソンを完走し、ずっと走ってきた人たちだ。それでも、筋力の低下や関節の消耗には抗えないということか。
しかし、その同僚から興味深い話を学んだ。五十路に入って膝を壊して走ることができなくなったので、歩けばいいと考えて、ウォーキングに切り替えたそうだ。
確かに、河川敷を自転車で走っていると、遊歩道を歩いている高齢者の姿をよく見かける。ウォーキングなんてシニアの運動だと私は思っていたし、まあ自分だってシニアになる日が近いとも思っていた。
しかし、いくら老いたとしてもウォーキングで満足せず、ペダルを回して風を感じるようなジイサンになりたいと私は考えていて、それなのに疲れたからとペダルを回さずにいた。自分でも笑う。
その同僚のウォーキングとは高齢者のウォーキングではなくて、心拍数までを上げる「パワーウォーキング」という運動なのだそうだ。彼が休憩時間に昼食をかねてウォーキングに出かけたところ、同じくパワーウォーキングでトレーニングしているキングの姿を見かけたそうだ。
何か大切なヒントがあるように感じた。
オッサンの趣味には大きく分けて静的と動的の二種類があって、その違いは運動という要素があるか否かだと私は考えている。映画や音楽、カメラ、コレクション、食べ歩き、ギャンブル、釣り、プラモデル、盆栽といった静的な趣味は運動という要素が少ない。なので、モチベーションを奮い立たせる必要はないことだろう。
他方、ジョギングやサイクリング、ウォーキングといった動的な趣味の場合には相応のモチベーションが必要になる。趣味の時間を楽しんでいる時よりも、趣味が終わった後の爽快感や疲労感を楽しむという要素があったりもするわけだが、その前後で楽しみが分かれていることでモチベーションが分断されるのかもしれない。
ミニベロであれスピンバイクであれ、ペダルを回す気力すら枯渇してしまっている私に足りないことは何かというと、「一歩を踏み出す」という感情や思考だ。これは今になって認識しているわけではなくて、2016年から2018年頃にかけてバーンアウトを経験したのでよく分かる。
当時は仕事や家庭において感情やモチベーションが枯渇したが、不思議なことにペダルを回すというモチベーションだけは残っていた。当時はロードバイクに乗るという趣味に熱中していたこともあったのだろう。
今はロードバイクからミニベロに乗り換え、「速く走りたい」という欲求がなくなった。そのことが現在のモチベーションの低下とどのような関係があるのか、今はまだ分からない。ミドルエイジクライシスの不調の沼では何が起こるか想像もつかない。
全てのことが億劫になって動けなくなる前に一歩を踏み出す必要があることは分かっている。しかし、人口密度が高い上にディズニー客が押し寄せる浦安という街が本当に嫌いなんだ、私は。住みたくないし、街中に出たくない。義実家と妻によって引っ張り込まれたが、私個人としては地獄だ。
だが、このままでは潰れることが分かりきっているので、キングや同僚の真似をしてウォーキングを始めてみることにした。何だかシニアのような気がして抵抗があった。オッサンからジイサンに移行するという現実を感じた。
私はロードバイクどころかミニベロで100kmを走破している。たかだか歩くだけで大した運動にならないだろうと思った。パワーウォーキングなんて大袈裟で、ただ速く歩くだけだろと。
新浦安駅の付近からスタートして...そうだな、千葉市の海浜幕張駅くらいまで歩いてみようと出発した。
服装は普段着。靴も普段履き。せっかくだから先日のサイクリングで挫折したチェアリングも試してみようと、大きめのバックパックを背負い、その中にヘリノックスの折り畳みチェアとコーヒーを注いだ保温ボトルも入れておいた。
市川塩浜駅を過ぎて5km程度を歩いた時点では散歩の延長だった。サイクリングでは落ち着いて眺められない357号線沿いのディストピア的な風景を観察し、寒くはあるが春が近づいていることを察した。
浦安という人口過密の場で生活し、街に出ると周りに人がたくさんいるという状況に私はうんざりしている。だったら住むなという話だが、私はこの街に住みたくなかったし、今でも住みたくない。
だが、357号線沿いを歩くなんて人は珍しい。視界に人が誰もいない。
たまに東京方面から江戸川サイクリングロードに向かうロードバイク乗りが私を追い抜いていった。後ろ姿だけでもかなりメタボな体型だ。年齢としては三十路の半ば。最近になってロードに乗り始めた四十路前の父親といったところか。この道は、いつか来た道だな。
ニッカーパンツを履いて、派手なロードバイクに乗った若者が、何の合図もなしに私を追い越していった。ロードに乗っている俺って格好いい的に格好をつけていたが、フレームにはキャニオンと書かれていた。
経験のあるサイクリストであれば大笑いすることだろう。私も大笑いした。
しかし、以前は自分でもイケていると思って乗っていたロードバイクだが、歩行者目線で観察するとどうにも不格好だな。ヨーロッパのサイクルレースのように手足の長い外国人が乗っていると様になるロードバイクだが、胴長短足の日本人が乗ったところで同じように映るはずもない。しかもアマチュアだ。
そういえば、バックパックに携帯の音楽プレーヤーを入れていたことを忘れていた。自転車に乗っている時に音楽を聴くことは危険だが、歩いている時ならば大丈夫だろう。
様々な音楽を流し、なるほどこれは有意義だと様々な思考に浸る。
とはいえ、頭の方は快適ではあるけれど、身体は確実に(良い意味で)疲れてきた。ウォーキングなんて老人の運動だと思っていた私の先入観は砕けた。
一歩一歩を踏みしめているうちに、サイクリングでは感じられないジワジワとした疲労を感じ始めた。自転車で走っている時には、力を加えたい時にも休みたい時にも自由自在だ。心拍や筋力のピークも自分で決められる。
しかし、ウォーキングの場合にはコツコツと歩を進めるだけなので力の入れ加減に波がない。ただ地道に歩くだけ。ペダルを回すことは生きることに似ていると思っていたけれど、むしろ歩くことに似ている。まあそうだな、幼児が立ち上がり、その次にやることなのだから。
早足で歩いていると、心拍が地味に上がり、汗ばみ、普段履きのシューズでは足の裏に痛みに似た疲労が蓄積する。適当に被ったキャップが蒸れ、折り畳みチェアを入れたバックパックが重く感じる。
私はウォーキングを侮っていた。
よくよく考えると、足を故障して走れなくなったとはいえ、フルマラソンを走っていたキングや同僚が代替的に選択したトレーニングだ。負荷が軽すぎて意味がなければ、そもそも歩かないだろう。
前回のサイクリングに引き続き、どこか適当な場所でチェアリングを楽しもうと思っていたけれど適当な場所が見つからず、そもそも運動の途中で休んで再開することができないと判断した私は、ただひたすら修験者のように歩き続けた。
ふくらはぎどころか背筋や腰までが痛くなり始め、休めば楽になるのにずっと歩き続けている。
自分はどうして歩いているのだろう。純粋に歩きたいと思ったからではなくて、生きること全体に疲れて億劫になり、一歩を踏み出す気力を求めたからだ。
では、その目的は達成できたのか。些細なことではあるけれど、達成することができた。
他者から見れば何の意味もない成功体験。それを積み重ねることで自分への信頼に繋がる。自己否定は簡単で、意図しなくてもネガティブな思考のループは回り続ける。
一方、正しい意味での「自信」を取り戻すことはとても難しい。これが間違った、これで失敗した、どうして駄目なんだ、運がなかった、機会を逸したと、自分を信じる前に嫌な思考に押し流されてしまう。その流れに少しでも抗ってどこかにしがみつき、たまにやってくる喜びを感じ、再び流される。まあそれが自分にとっての生きるプロセスなのだろう。
被っていたキャップが蒸れすぎて辛くなり、もう見た目なんてどうでもいいとキャップを外し、立ち止まって空を見上げる。
見上げた空は相変わらずの水色で、しかし久しぶりに空を眺めたことに安堵した。昨年の春先から浮動性の目眩に苦しんできたので、それを堪えてずっと下方ばかり見ていた。空って、こんなに広かったのか。
心身が疲れ果てて、もはや外に出るということさえ面倒になっていたが、少しは前に進めた気がした。
千葉市まで歩いてやろうと気軽に出発したけれど、市川市を越えて船橋市に入ったところで家に帰りたくなった。
海老川にかかる大きな橋を歩いていると、ららぽーとTOKYO-BAYが見えてきた。
この橋は異様なまでに高い位置に伸びていて、その割にフェンスが低い。自転車で走っている時にはあまり意識したことがなかったが、橋から落ちたら命を失うことだろう。
自分の精神が疲れている時には、このように大きな橋の上から下を眺めることで自分の状態がよく分かる。元気な時には何も感じない。
しかし、疲れていると遙か下の水面に引っ張り込まれるような感覚が生まれる。それは恐怖と安堵が混じったような不思議な感覚で、恐怖の方が強ければまだ救いがある。後者が強い時には危うい。
バーンアウトで苦しんでいた時にも荒川に引っ張り込まれる感じがした。そこで感じたのは安堵であり、恐怖をあまり感じなかった。ここに飛び込めば自分は楽になれるだろうと。
しかし、今は違う。怖いと感じるのだからまだ回復の見込みがあるのだろう。
ららぽーとを過ぎると南船橋駅がある。357号線沿いは人の姿さえ疎らなディストピアのような光景だったが、この付近は人が多い。行き交う自動車はミニバンに乗った若い家族連れが多い。
それにしても、船橋市内のららぽーとでよく見かける家族連れは、どうして黒のベルファイアやボクシーといった強面の車に乗っていて、どうして父親たちも強面なのだろう。
このインフレが進む世の中では、ららぽーとで買物をするよりも、イオンやベルク、ヤオコーに行った方がより安価に買物をすることができる。私はNISAやiDeCoといった積立投資ならびに節倹生活を始めてからは、ららぽーとでは買物をしないことにした。
そもそも、維持費のかかる自動車に乗って、割高なショッピングモールに行って、割高なファストフードを買って飲食するという思考自体が私にはない。まあそれも人それぞれだ。
南船橋駅からJR京葉線に乗る前にスマホのナビを確認したところ、走行距離、いや歩行距離は10km程度だった。ミニベロに乗って60km程度を走った時よりも明らかに全身が疲れている。その疲れはとても心地良く、筋力を使い、カロリーを消費していることを実感した。
足の裏や甲は疲労が蓄積し、靴擦れを起こし、不格好な歩き方になっている。階段を上がるだけで足どころか全身に負荷がかかる。これはこれで健康的だ。
私はまだ生きていて、これからも生きようとしている。何だか安心した。
南船橋駅から新浦安駅までは電車で数駅程度。歩くと結構な距離で時間がかかったけれど、電車に乗るとあっという間だな。
遠く離れた人に連絡したければ瞬時にメッセージが届き、欲しい品物があれば翌日に配達される。そのように便利な世界で住んでいても、人の生き方は必ずしも速くは流れない。
もちろん、そのように高速化された世界を望んだのは自分を含めた人々で、社会のデジタル化は時代の潮流だ。
けれど、江戸時代どころかずっと昔の人たちと同じように自分の足で歩いていると、何だか分からないけれど落ち着く。
このようにウォーキングに出かけていれば、いつかは自転車のペダルを回そうという気持ちになることだろう。
ウォーキングを侮って普段着で出発したので、自室に戻った頃にはボロボロの状態になった。この失敗は無様でも悲観的でもなくて、サイクリング以外の楽しみが得られたことを嬉しく感じた。
私は電車が嫌いだけれど、自転車を携行していなければ適当な場所に行って歩き、適当な場所から帰ることができる。
黙々と歩き、自分はどうやって生きるのかとか、自分は何に悩み苦しんでいるのだろうとか、ただひたすら思考に没頭していると、やがて考えることさえ停止して、「身心脱落」という状態になる。
禅宗には「只管打坐」という概念がある。ただひたすら座ることでその境地に至るという智恵だが、禅とは必ずしも座って沈黙するという話ではなくて、座禅は手段に過ぎない。身心脱落の状態になれば楽になる。
それが只管打坐ではなくて、只管打歩であっても構わないわけだ。確かに昔の修行僧は長距離を歩いていたし、道元が遺した言葉の中にも様々な場面に禅の場があるという記述がある。
彼の考えでは、悟りの境地という特別な世界に至るために修行に励むのではなくて、すでに人々は悟りを内在しており、身心脱落、つまり自我を消すことでその世界が浮かび上がると解釈していた。
意訳すると、余計なことは考えるなということだ。
だがしかし、現実論としては反省点が多々あった。
普段着でパワーウォーキングに出かけると、服やキャップが蒸れ、シューズの中で足に疲労が蓄積する。
ウェア自体はサイクリング用品で十分だが、パワーウォーキングの場合にはランニング用でクッション性の高いシューズが必要になるらしい。普段靴で10kmを歩いただけで足が大変な状態になった。
また、今の時期は必要ないかもしれないが、ランニング用の通気性のあるキャップが必要だな。思ったよりも汗をかくので頭部が蒸れる。また、バックパックはできるだけ軽量のものを使う必要がある。
それと、パワーウォーキングでチェアリングは無理だ。休みなく歩き続けていると、椅子に座っている場合ではない。
シューズとキャップならば、新浦安駅前のスポーツオーソリティで値下げ品が手に入ることだろう。この店でシューズが手に入らなければ、新町のニューコーストにある東京靴流通センターに在庫があるはず。そういえば決算セールが開催されているはずだ。
シューズのスペアを含めて一式揃えても2万円程度。2万円は安くはないが、生きるためのモチベーションとしては激安だ。
必要な品が徒歩圏内ですぐに手に入るのが、新浦安という鬱陶しい街のメリットでもある。定価に割引が適用され、さらにクーポンで値下げしてもらい、簡単にウォーキング用品が整った。確かに便利な街だな。
鬱屈とした日常に少しの光が差し込んだ気がした。