2023/01/23

全身バキバキの筋肉痛

浦安市から江戸川の左岸を自転車で走り、流山市にある「魔王の塔」と勝手に名付けた焼却施設をランドマークにして戻ってくる往復60kmのサイクリング。ロードバイクであれば大した苦労はなく、ミニベロであっても無理なく楽しめるコースだ。

...と思っていたのだが、2ヶ月近いブランクは五十路近い身体に大きく響いたらしく、眠って起きたら全身の筋肉がバキバキに硬直して動けない。関節痛がないことは、すなわち自転車のポジションがうまく出ていたという証左なのだろう。やはり、インドアと違って実走は満足感がある。


うつ病にかかった中年がサイクリングで何とかしようとするブログは散見される。しかし、ミドルエイジクライシスを真正面から受け止めてサイクリングで何とかしようとするブログは少ない。というか見かけない。

だからといってミドルエイジクライシスを迎えているサイクリストがいないのかというとそうでもなくて、「ああ、このオッサンは...」というパターンがネット上に溢れている。本人が自覚していないだけの話だろう。

とかく自分をアピールして他者に絡もうとする時点で、すでにオッサンの典型的なループに入り込んでしまっているのだが、自分では気が付かないのだろう。三十路や四十路の延長でそのままなのだからと。

確かにその通りだ。三十路や四十路の頃と同じ感覚でそのまま生きているはずなのに、なぜかオッサンになると違和感が生まれる。他者と距離をとって孤独に歩んだ方がオッサンとしては格好良く感じたりもするが、なにせオッサンは寂しがり屋だったりもするわけだ。

全身が筋肉痛になって、「よし、まだまだ私はこれからも強くなる」と感じるはずもなく、ずっと苦しんでいるぼんやりとした虚無感が漂う。その感覚を前向きに受け止めるという表現は自分でもおかしなものだが、この筋肉痛が健康的であることは間違いない。自分はまだ生きている。鬱屈した悲壮感が分かりやすく減った。

直近の小さな発見としては、頭を吹き飛ばされるように感じる強烈な浮動性の目眩を軽くする方法が分かった。視線を下方向で固定するという強引な方法ではなくて、より分かりやすいこと。

それは、毎日飲んでいたコーヒーの量を減らす、あるいは飲まないという単純なことだった。カフェインの過剰摂取というわけではなくて、紅茶を飲んでも目眩が酷くなることはない。それなのに、コーヒーを多めに飲むと目が回る。つまり、カフェイン以外の何かの成分に反応している、あるいはその成分とカフェインとの相乗効果に反応しているということか。オッサンの生理学的なメカニズムは自分でも分からない。もはや何でもありなのか。

私の場合には早々に夫婦仲が冷めてレス生活が続いたので、男性ホルモンを使う場面がなくなり、「おい、これどうするんだよ」というフィードバックの中で更年期が加速したのかもしれないな。フラストレーションをスポーツで解消するとか、それって中学や高校の男子生徒かと自分で指摘したくなる。

楽しいと感じることが目の前から消え失せて、自分は何のために生きているのだろうとか、この先に何か意味のあることが待っているのだろうとか、まあそういった思秋期のオッサンに特有の精神の淵にどっぷりと浸かっている。若い人たちから見れば笑い話だろう。自分でも笑う。若い頃には想像したことなんてなかった。

世の中には早朝のジョギングを欠かさず、大金を払ってジムに通い、「LEON」を定期購読して自らに磨きをかけ、自分の生活がいかに充実しているのかをツイッターで発信しているオッサンが本当にいたりもする。

そのようなオッサンに限って不倫やパパ活に勤しんでいたりもする。オッサン同士であれば分かることだ。妻以外の女性と楽しそうに電車に乗ったり街中を歩いていて、知り合いとすれ違う確率はゼロではない。

もはや涅槃に至りそうな私から見ると彼らは凄いとしか言えないが、他の言葉を考えてもやはり凄いという感想しか浮かばない。テストステロンが大量放出されてストレスにも強く、人生が楽しくて仕方がないことだろう。

朝に目を覚まして、とりわけ心躍ることもなく身支度して、長時間の通勤で苦しんで、仕事して、長時間の通勤で苦しんで、飯を食って寝るだけ。頼んでもいないのにカレンダーの日付だけが先に進む。

多くのオッサンたちが生き方を変えようとしている。仕事にしても、プライベートにしても。どこかを変えれば生きることが楽しくなるのだろうか。その気力さえも湧いてこない。

「自分はこのように生きたい」と考えたところで、妻から全否定されて、そこに義実家が喧しく干渉してきて、結局のところ何も変わらない。このような生き方に厭きてしまい、生きることを諦めてしまったのだろう。

この状況を変えるためには、義実家との縁を切る必要がある。しかし、妻がそれに応じるはずもない。この一家は宗教性を帯びた共依存を形成している。

では、自分はこれからをどのように生きるのか。過去の自分の判断が間違いだったと後悔し続けながら生きるのか。それだったら、さっさと時間を止めてしまった方が楽なのではないか。

といった、アンニュイなオッサンモードが続くだけ。余計なことを考えても仕方がなく、それでも余計なことを考え、時計は回り続ける。

たぶんなのだが、このステージは自分の人生の波としては底に達しているのだろう。もっと危機的な状況は若い頃にあったが、その当時には自分の生き方を変えるだけの選択肢があり、時間があった。今はない。

落ち込んだ時に重要な判断を下そうとすると失敗するので、今は考えすぎることなく、言いたいことは飲み込んで、とにかく休日に自転車に乗り、全身をバキバキにすることにしよう。

起床して重い身体を引きずって一日を過ごすよりも、身体中の筋肉の存在を感じ、腹を空かして何かを食べる方が健康的だ。間違いなく。

それで何かが変わるとは思えないが、クライシスの井戸に向かって真っ逆さまに落ちるリスクが減るように思える。話のテーマも取り留めもない、ただの感想だけれど。