2023/01/19

高嶺の花は枯れないらしい

昔の話になるが、大学に合格した私は、寂れた田舎町の実家で大きなボストンバッグに身の回りの物を詰め、新幹線の駅に接続する在来線の列車に乗った。そこから新幹線に乗り、首都を目指した。当時の私の前には自らの選択や成り行きによって進むことができる無数の並行世界が広がっていた。

オッサンになった今では日常になった東京の街が、当時はとても大きく見えた。乱立するビルや人の雑踏の中で自分が砂粒のように小さな存在であることを実感し、それでも安定した職に就き、伴侶と共に家庭を築き、この都会で生き抜こうとした。


何度も婚活に失敗し続けて、結果としては幸いにも結婚して子供が産まれたわけだが、これは自分が望んでいた家庭像ではない。妻の実家が私の家庭を飲み込んで、形としては世帯ではあるけれど夫婦の会話なんて何もない状態になっている。

しかし、いつものような湿った内容ではなくて、少し踏み外した内容の録を遺す。平凡な毎日とは言うけれど、たまには変わったことがある。生き続けることのせめてもの楽しみだろう。

世の中には「高嶺の花」という表現がある。中学生とか高校生の男子が学校のヒロインのような女子に憧れて、しかし自分は無理だと諦めたりもする。

大人になって結婚相手を探す時も同様だろう。あまりに飛び抜けた美人は交際を申し込んだところで確実に失敗するだろうと、最初から察して動かない男性が多いと思う。

では、そのような高嶺の花が中年に差し掛かり、世帯を築いてどのような男性と連れ添っているのかというと、ごく普通のオッサンだったりもするわけだ。普通の職場で働き、普通の容姿で、普通に腹が出ていたりもする。

そのようなケースでの男女の出会いがどのようなものだったのかというと、職場の同僚だったとか、友人の紹介があったとか、親戚同士が仲介したお見合いだったとか、普通と言えば普通。

しかし、例外もある。

父親でありオッサンになった後の私は、「元ヤンキーの夫が、どうして美人で気立ての良い妻と連れ添うことが多いのか?」という極めて卑屈で失礼な質問を船橋市出身の元ヤンキーの父親に尋ねたことがある。彼は同世代で、相当に知性が高く、とても面白い人だ。

学生時代であれば胸ぐらを掴まれるような質問だが、その父親は社会的に成功し、浦安市の新町の父親と比べても見劣りしない年収を稼いでいる。乗用車はベンツだ。

しかも、彼は美人で気立ての良い妻と連れ添っている。キレないだけの心の余裕があることを知った上で私は尋ねた。

今さら知ったところで私の生き方が変わるとは思えないが、純粋な疑問としてその解を私は知りたかった。そして、彼は大して熟考することもなく答えた。

「余計なことを考えないからじゃないでしょうか? 魅力的な女性がいたら交際を申し込んで、ダメだったら他を探すだけ。自分がその女性と釣り合うかなとか、断れたら恥ずかしいとか、そういった余計なことを考える前に実行すれば話が早いですから」

船橋市出身の元ヤンキーの父親からのシンプルな返答を受けて、私の中で構成されていた価値観というか人生観というか、まあそういった「柱」が砕け散った。自分でも笑う。

その答えは真理に至っている。そうか、やはりそうなんだ。

結婚という社会の仕組みにおいて、男の学歴や職歴どころか、容姿や収入といった物差しさえも大した意味を成していないということだ。

与謝野鉄幹先生が残した「妻をめとらば 才たけて みめ美わしく 情あり」という有名なフレーズがある。そのような条件を充たす女性がいるのかというと、実際にいる。ただし、そのような女性と結婚することは困難だと多くの男性は考える。

では、ローカルな状況において周囲の男性が全て敬遠した場合、そのパーフェクトな女性はどうなるのか。

そのような女性が、学歴や職歴、容姿、収入などの要素が揃ったロイヤルストレートフラッシュ的な男性と連れ添うというパターンは少ないことだろう。そのような男性には女性が集まり、早々と結婚してしまったり、他の女性にキープされても仕方がない。

なるほど、船橋市出身の元ヤンキーの父親の言う通り、余計なことを考えずに高嶺の花に突撃した男が好機に恵まれたりもするということか。

結婚適齢期の独身男性が、先述の高嶺の花の表現の通り、集団の中で際立って魅力的な女性を見かけた場合のパターンは大きく分けて二つある。

自分とその女性が釣り合うのかと考え、いやはや自分には交際や結婚が難しいと引いてしまう男性。

そして、私の人生観を打ち崩した船橋市出身の元ヤンキーの父親のように余計なことを考えずに猪突猛進で求婚する男性。

私は間違いなく前者であり、五十路が近くなってきた人生の段階において、その選択の「答え合わせ」をする時期に差し掛かった。

ここからが馬鹿な話になるのだが....長らくレスが続いて禁欲的な状況にも慣れ、すでに自分はオスではなくてオッサンどころかジイサンだと我ながら失望していたのだが、辛うじてオスの性質が残っていることを知って安堵した。安堵するなよという話だが。

結婚適齢期だった頃の私は、文字通りに高嶺の花のような女性を見かけたことがある。比喩表現ではなくて集団の中で輝いていた。美しい上に頭も良く、スタイルも良くて運動も得意。

もちろんだが互いに独身だったので私にもチャンスがあった。しかし、「ここまで美しいのだから、間違いなく結婚を考えている交際相手がいるのだろう」と当時の私は考えた。論理的な思考だ。

しかし、船橋市出身の元ヤンキーの父親いわく、その思考こそが間違っていて、交際相手がいてもいなくても付き合ってくださいと女性にお願いするところからがスタートなのだそうだ。インテリは余計なことを考えて想像を膨らませて、可能性を自分で閉じてしまうのではないかと。

なるほど。元ヤンキーたちはこのようにインテリという語彙を使うのかと感心しながら、確かに住宅の物件探しと婚活がよく似ているように感じたりもする。男女ともに。

婚活サイトなんてこの状況が露骨に反映されている。自分の年収がどれくらいで、肩書きがどのようなもので、見た目はこのような感じで、「さあどうですか」と男性が女性に提示するわけだ。部屋の広さがどれくらいとか、設備がどの程度とか、二階以上とか。試しに見てみるとか。マンションの物件探しのようだ。

逆もまた然り。婚活では三十路かどうかで候補の女性を線引きしたりもするわけだ。マンションの築年数は住み良さと相関しないところまで似ている。

船橋市出身の元ヤンキーの父親の洞察の場合、男性は女性を好きだと思ったから連れ添いたいという流れで、住宅の物件探しのような状況とは異なる。

他方、住宅の物件探しのような婚活の結果として夫婦が生まれた場合、とりわけ大きな恋愛感情を経ずに家庭を持ってしまったというケースがあって当然だ。

結婚という制度は恋愛感情だけでは成立しえない。家庭を維持するための経済的な支えが必要であったり、子供を育てたりもするわけで、だからこそ婚活業者は男女を品定めし、分かりやすい物差しを提示するのだろう。

しかし、その延長として夫婦の不和が生じたり、こんなはずではなかったというケースになったりもするのだろう。結婚後に妻が豹変し、夫を攻撃するなんてよくある話だ。

確かに浦安市の新町において路上やショッピングモールで妻から怒鳴られている夫を見かけることはよくある。そのような夫たちの多くは高学歴で、容姿も整っているし、大手企業などに勤めているのだろう。

しかし、一度結婚すればカゴの中の鳥のようなものだ。妻から怒鳴られようが貶されようが、結婚したのだから仕方ないと諦めるしかない。カゴから出て大空へ飛び去るには精神力と金が要り、失望と痛みを伴う。

もとい、先日、婚活の頃に対象外となっていた高嶺の花的な女性に真面目な案件でお世話になり、ご挨拶して感謝申し上げた。

以前から変わらない、というか歳を重ねてさらに深みを増した美しさに衝撃を受けた。結婚適齢期だった当時の私は、ここまで美しいのだから交際相手がいるのだろうとスルーしていたわけだが、周辺の話では現在でも独身のままなのだそうだ。

このご時世では、結婚することが社会人として進むべき道だとは思えない。それは団塊世代の論理だろう。結婚して必ず幸せになるのであれば、どうして3分の1の夫婦が離婚するのかという話だ。

生涯独身であっても、とりわけ本人に問題があったわけではない場合もある。確率論的な機会がなかったり、職業人としてのキャリアアップを優先したり、まあ人それぞれの都合がある。

それにしても、「美人は歳をとっても美人だ」とか「美人な妻は正義だ」とか、まあそういった男たちの表に出ない感想はくだらない与太話だと若い頃の私は考えていた。しかし、同じ時間軸の中で生きていると、そのような与太話は訓言のように感じる。

五十路が近づけば男女ともに白髪が目立つようになるけれど、その女性の髪は以前と変わらず輝いていた。メンテナンスを続けているのだろう。スタイルも変わっていない。言葉に出すとセクハラになってしまうので言わないが、肩から腰から足首まで、もはや芸術的な美しさを醸し出している。

その美しい後ろ姿を眺めて私はゾクッとした。「ドキッ」という陳腐な表現よりも、脳に響く「ゾクッ」という表現の方が適している。もちろんだが腰下の卑猥な話ではなく、論理思考を超えたところにある衝動というか、まあそういった何か。

自分で意識して一時的に目を閉じないと、視線が釘付けになってしまうくらいのインパクトがあった。神々しい。

仕事ができて、頭が良くて、しかも美しい。まさに「才たけて みめ美わしく」という妻の条件を充たしている。男目線の上からな鉄幹師匠の条件はともかく、ここまで魅力的であれば多少は性格が悪くても我慢できる。

自分が考えていることを相手に伝えて、瞬時に理解され、その反応が返ってくることは心地良い。頭の回転が速いからこそ、先読みで会話しているのだろう。

人はひとりで生まれてひとりで死ぬけれど、生きる上では二人が一組になっている。

このような女性と街中を歩いたり、食事したり、自転車に乗ったり、買物に行ったり、会話のキャッチボールを楽しむことができれば、さぞかし幸せな時間になるのだろう。

というか、そのような夫婦関係を維持している父親が現実に存在しているわけだ。何たることだ。そのような男たちは現世で幸運に恵まれたのだから、次の世界では地獄の業火で焼かれればいい。

それにしても、夫婦とはガチャを回すようなものだと思ったりもする。交際時には全く分からないことが結婚後に浮かび上がり、その時点で考えても仕方がないような状況になる。サンプル数が1なので、その傾向が普遍的なのかどうかは分からない。

それでも、今の自分は父親としての責任とは何かと考え、そのレールを踏み外さないように生きている。仮面夫婦だろうが、父親の演技だろうが、そのような話は戯れ事なのだろう。

父親になったからには、子供が自立するまで父親の責任を果たす必要がある。その責任を放棄する父親はたくさんいて、私はそのような父親になりたくない。けれど、現実はとても厳しい。

生き続けるレールの上には、ほぼ無限に連なる大小のハードルが並び、それらを飛び越え、時になぎ倒し、頻繁に引っかかって自ら倒れ、傷だらけになりながら前に進む。

進んだ先に何があるのかというと、何もない。その先にもレールが続き、途中で自分が老いて倒れて朽ちた時点でそこがゴールになる。その場所にゴールテープがあるわけでもない。

だが、両目は前を向いているので、ポエムではなく現実的に考えてみると、結婚生活で苦しみ続けて老後を迎えるよりも、さっさと次の生き方に舵を切り、別の女性と連れ添って生きるという選択肢があったのかもしれないな。

過去形ではなくて、現在進行形か。

船橋市出身の元ヤンキーの父親の意見に基づくと、余計なことを考えずに突撃するのは若人だけではなくて、中年であっても構わないわけだ。残りの時間が限られているのだから、悶々とするよりも飛び立った方がいいという考えも理解しうる。

とはいえ、常に思考が回り続ける私の場合、考えるなといっても思考を放棄することは難しい。結果、脳裏に焼き付いた美しい女性の後ろ姿を思い返しながら、玉虫色の思考の中で悶々とするだけだな。

むしろ、余計なことを考えずにオッサンのままで生き、余計なことを考えずにジイサンになった方が面倒事が少ない。

余計なことを考えずに生きるステージを見誤ったらしい。