2023/01/14

年賀状に映るミドルエイジの心境と武蔵野線の変なオジサン

都内のサイクルショップで売れ残っていたブルーノ・スキッパーという廉価な小径自転車を手に入れて、自分でカスタムを加えて乗り始めてから早くも1年が経った。私の身の回りには、期待せずに手に入れたものの気が付くと生活の一部となっている品が多々ある。ブルーノもそのひとつなのだろう。

以前から年末年始は趣味のサイクリングを自粛することに決めていて、室内でスピンバイクを漕いだり、ミニベロのパーツやアクセサリーを細かく変えている。輪行の準備はほぼ完了し、自走でのツーリングのために小型のパニアバッグも手に入れた。極端な繁忙期が過ぎればパニアバッグに折り畳みチェアを載せて、最近流行しているチェアリングを試してみようかと思っている。


サイクリングに出かけることができれば、この澱んだ心身の状態も少しは楽になるのだろうか。

長時間の電車通勤や混雑した新浦安の住環境によるストレス、さらに年末から続く夫婦の不和は相変わらずであり、職場以外では所構わず浮動性の目眩が襲ってくるようになってきた。睡眠中に心拍数が上がり、耳栓を付けた状態での自分の拍動音によって目が覚める。

とりわけ、頭にネズミの耳を付けてキャリーバッグを引き、狂ったようなテンションで新浦安駅に押しかける若者や家族連れのストレスが凄まじい。ディズニー客の宿泊地の主体が舞浜駅付近のホテルから新浦安駅付近のホテルに移行したのは、私が浦安に引っ越した後だ。

オリンピックの前頃に新町の空き地の多くにホテルが建設され、舞浜駅だけでなく新浦安駅にまでディズニー客が押し寄せるようになった。程度の差こそあれ舞浜駅付近のホテルの方が料金が割高で、新浦安駅付近のホテルの方がリーズナブルだ。その相違は客層にも影響することだろう。

途中でコロナ禍があったので人気が少なかったが、これからが本番だ。地域住民としてはディズニー客の多さに辟易している。こんな街が住み良いはずがない。

駅や歩道にはキャリーバッグを引いて地域住民の通行を妨げるディズニー客が溢れている。酷い時にはディズニー客が横に3人並んで歩いて歩道を塞ぐ時さえある。凄まじい民度だ。彼ら彼女らにとって、地域住民はゲームのモブキャラクターと同じ扱いなのだろう。

本来ならば住宅地や公園を想定していたであろう土地にディズニー用途のホテルが建設された背景には、浦安市の行政の方針の変更が絡んでいる。浦安市が土地の商業利用を抑止していれば、浦安の新町がこのような状態にはなっていなかった。

これが街の発展か?

当時の浦安市の行政が地域住民の生活環境に配慮していたとは思えない。勢いだけで突き進んだとしか思えないことが、この街ではよくある。

休日出勤が続いたことで、さすがに疲れてきた。とはいえ、休日に自宅にいると心拍数が上がったままになるので、むしろ職場に行った方が脳や心臓を労る結果になることだろう。

仕事が辛いというよりも、往復3時間の電車通勤が辛い。私の1日は21時間しかない。浦安出身の女性と結婚してこの街に引っ張り込まれたことは、私の人生の最大の失敗だ。

休日出勤で疲れて平日に休むのはおかしなことだが、午前中に有給休暇を取得して、昼過ぎに新浦安駅から電車に乗って職場に向かう。

厳冬期とは思えない緩やかな寒さを感じながら、また駅構内で不必要なまでの大音量で響き渡る自動アナウンスにうんざりしながら、駅のホームで考えごとに浸る。

おそらくこのアナウンスの音量は最大に設定されているはずだ。聴覚が不自由な人たちにとってはありがたいことだろう。しかし、聴覚が過敏な人たちには地獄でしかない。

電車を待っている時間に、友人や知人からの年賀状のことを回想していた。届いた年賀状を眺め、各人がそれぞれのミドルエイジを過ごしていることを察した。中年に特有のクライシスかどうかは分からない。だが、中年に特有の加齢に伴う気持ちの変化が生じていることは間違いないことだろう。

若い頃に趣味らしい趣味がなかった友人が、最近になって休日にフィッシングを始めたらしい。年賀状には昨年に釣り上げた大きな魚と大きな寿司桶に入った料理の写真が印刷されていた。

また、別の友人からの年賀状には、最近になってフルマラソンを完走したという一筆が入っていた。その友人は武道家ではあったけれど、ランナーではなかった。

五十路付近になると、老後まで続けられる趣味は何だろうかと考えて、仕事や家庭以外の娯楽であったり、健康を維持するためのスポーツを始めたりもする。とても典型的な傾向なのだろう。素晴らしいことだ。

一方、宛名や裏面まで全て印刷だけでコメントが全くない、まるで親戚のオジサンのような年賀状もいくつか届いた。忙しくなったというよりも、ただ面倒になってしまったのだろう。これも加齢によるミドルエイジの変化なのかもしれないな。

我が家も同じだが、最近では子供の写真が載っていない年賀状が増えた。子供が小さな頃は子供の写真を印刷した年賀状を配っていたけれど、子供が思春期になったり、成人を迎えて独立すると必要がなくなる。まあそういった家庭の変化が年賀状に映る。

仕方のないことではあるけれど、何だか寂しい気持ちで彼らの変化を眺めた。

運悪く、新浦安駅のホームに到着した電車にはオレンジ色のラインが入っていた。8両編成のJR武蔵野線。

蘇我駅を始発とするJR京葉線の場合には、あまり混み合っていなくておかしな人も少ないのだが、武蔵野線の上り方面は舞浜駅まで混み合っていて、おかしな人に遭遇する機会が多い。

武蔵野線は、埼玉方面からのディズニー客が舞浜駅に向かって電車で押し寄せてくるルートであり、さらに流山や松戸といった千葉県内のベッドタウンに住むサラリーマンが東京駅に向かうルートでもある。

ディズニーに向かうハイテンションな若者たちの傍若無人な言動と、通勤で疲れ切っている労働者たちのフラストレーションが武蔵野線の車内に充満している。さらに、運転によるものなのか車両の仕様によるものなのか、断続的な振動や揺れが満員電車に伝わる。

帰宅時の下り方面の武蔵野線には、人の頭に取り付けたネズミの耳と酔っ払い客の臭い吐息が追加される。武蔵野線の沿線にある割安な戸建てのマイホームを購入し、かつて貨物列車が走っていた路線で長時間をかけて都内の職場に通うなんて、私にとっては想像しえない苦痛だ。ストレスで頭がおかしくなる。

武蔵野線をパスして次の京葉線に乗ろうか。しかし、目の前で開いたドアの近くに空間があったので武蔵野線に乗ることにする。論理的な判断だ。

しかし、私はここでも判断を誤っていた。案の定、ドアの開閉口に立って過剰なまでにパーソナルスペースを主張し続ける中年男性に絡まれた。それなりの理由があってドア付近のスペースが空いていたということだ。

彼の年齢は50代半ばだろうか。平日の昼間にスーツを着ておらず、随分と着古されたカジュアルな装いだ。とはいえ、休暇を楽しんでいるようにも思えない。

この人物は満員電車に私が乗ってきたことに腹を立てたらしい。「あ~」という意図的かつ挑発的な溜息を投げかけてきた。溜息としては声が大きい。その後もブツブツと何か言っている。

さすがに不愉快なので、「何ですか?」と私が尋ねたところ、その中年男性はすぐに目を逸らしてきた。だが、私が背を向けると、彼は相変わらずドアにもたれかかって車内を向き、ずっと私を睨み続けてきた。

ああ気持ち悪い。明らかに思考がおかしい。

満員電車であるにも関わらず、この中年男性は立ったまま足を広げ、肘を張って腰に手を当て、いかにも神経質そうな眼差しで周囲を威嚇している。

明らかにおかしい。

この人が他の乗客よりも多めに運賃を支払っているはずがなく、そもそも武蔵野線にグリーン車はない。人混みが嫌ならば、途中下車して途中から同じ路線を走る京葉線の各駅停車に乗ればいい。なぜにそのまま武蔵野線に乗り続けてドアの前でガウガウと縄張りを主張して頑張っているのだろうか。このオッサンは。

武蔵野線は老若男女問わず変な人に出くわすことが多い。なるほど、車両のオレンジ色は警戒色というわけなのか。

ドアの前でガウガウと威嚇しているオッサンの相手をする気力もない私は、彼を無視して背中を向け、さらに絡んできたら警察に突き出すことにした。昔に習ったな。手首を掴んで肘と肩をひっくり返して倒して、首元に膝を落とすという護身術。すっかり忘れたので後ろ手で捉まえて警察を呼ぶしかないな。

しかし、この状況でオッサンが刃物で刺してきたら私の人生が終わる。そもそも彼が常識的な思考を持ち合わせていたら、私はこのように絡まれていない。

私は律儀にバッグを胸の前で抱えているけれど、本来ならば背中を保護すべきだ。背中を向けずにメンチを切り返した方が良いだろうか。近接戦でこの人物に負ける気はしないが、オッサンが刃物で刺してきたらかなり危うい。

そういえば、解剖学的にはゴリラに近い私の実父が、当時は子供だった私に真顔で教えた内容があった。

それは、激高して正気を失った人が刃物で斬りかかってきた場合の対処法。その場合、「素手や棒状の物で戦うと深手を負うので、寝具の布団で相手の刃先をわざと刺して無力化させ、その後で押さえつけろ」という話だった。

実父は若い頃に山奥の工事現場に閉じ込められて集団生活を強いられながら働いたことがあった。その環境は飯炊きの熟年既婚女性がグラビアアイドルと錯覚するくらいの禁欲的な状況だったらしい。

そして、長期にわたるストレスを受け続けた上に酒の勢いで錯乱し、包丁を持って本気で喧嘩相手を刺そうとした同僚がいたらしい。

生活の知恵なのか職場の知恵なのか分からないが、素手もしくは棒状の物で暴漢を抑えようとした同僚は、いくら力が強くてもアッサリと斬られて大変なことになったそうだ。結果、敷布団を丸めて複数人で暴漢に突撃し、動きを止めたところでタコ殴りにしたら解決したと。

実父いわく、「布団が身近にない場合には座布団を重ねて刃先を刺せ」とも言っていた。どう考えても実経験に基づくアドバイスなのだろう。

当時の私は、そのような環境に自らを置く予定はないし、全く関係のない無駄話だと思った。しかし、昨今の電車内での事件を眺める限り、また実際に暴漢が出現した際に座席のクッションを外して防御したという話を見聞きする限り、解剖学的にゴリラに近い実父の経験則は正しかったように思える。

つまり、この状況で明らかにおかしいオッサンが斬りかかってきた時には、自分が持っているビジネスバッグで防御する必要があるということだ。しくじった。通り魔が問題になった頃、ビジネスバッグのPCを入れる部分に防刃用のポリカーボネイト板を挟んでいたのだが、今日は入れていない。

ああ、なんてことだ。浦安になんて住みたくなかった。武蔵野線が入ってくる鉄道で通勤するのは命懸けじゃないか。

毎日、「浦安に住みたくない」「浦安に住みたくない」「浦安に住みたくない」と念じ続けながら生きている。この街の住環境は最悪だ。

ともかく、電車の中でおかしな人に遭遇したら、車両を変更して物理的な距離を取ること。それが難しい場合には自分で戦わず、警察を呼ぶこと。実父のように戦って自分を守るという術も間違っていないが、防犯カメラは車内にも駅構内にも設置されている。15年近い電車通勤地獄で学んだ知恵だ。

武蔵野線でストレスを感じることは正常なメンタルかもしれないが、ストレスを感じたからといって他の乗客に絡むのは正常なメンタルではない。この中年男性の思考はおかしい。

さらに、思考がおかしくても、他者に危害を加える精神状態であっても、切符を買って電車に乗ることができる。私が鉄道を嫌う理由のひとつであり、実際に様々な事件が生じている。

ともかく、この人物が武蔵野線に乗るたびにこのような態度を取っているとすれば、仕事や家庭でも感情を抑えることができていないことだろう。職業人として通用するとも思えないし、仕事や家庭があるかどうかも分からない。

この中年男性は、ミドルエイジ・クライシスをこじらせてしまって感情のコントロールができなくなり、リストラもしくは脱サラによって無職になった人なのだろうか。武蔵野線に乗って職を探しに行くのか、どこに向かうわけでもなく電車に乗っているのかは分からない。

自分がどのような状態なのかを深く考えることもできず、自分の中で生じた井戸の中に思考が飲み込まれてしまったのだろう。

若い頃であれば、このような中年男性を見かけると不快になって腹を立て続けたものだが、同じオッサンになった今では電車の乗り換えくらいの時間で不快感を忘れるようになった。それくらいでないと、この通勤地獄では精神が破綻してしまう。

友人や知人たちから届いた年賀状は、私自身が悩んでいる苦しみを緩和する上でとてもありがたい。「なんだ、変化やクライシスがやってきているのは自分だけじゃなかったんだ」と。

併せて、武蔵野線で遭遇したおかしなオッサンの姿にも少しだけ同じような感覚を受けた。彼だって若い頃は様々な希望や夢があって、前向きに生きていたのだろうと。

しかし、おそらく彼も私と同じで感覚過敏を有しているはずだ。ただの神経質な人というよりも、他者の何倍もの情報が脳に押し寄せてストレスを感じていることが分かる。そして、中年期のクライシスに飲み込まれ、他者を攻撃するようになったのだろう。このようなクライシスには共感しえない。

未だに終わりが見えない思秋期の中で、薄らと感じている私なりの結論がある。それは、「オッサンとは、他者との接触を限りなく減らして丁寧に生き、その流れのまま静かなジイサンに移行して、早めに世を去るルートこそが、最も効率的で苦しみが少ないのではないか」という仮説だ。そう、あくまで仮説。

ネットやリアルで自分をアピールしている自己愛と承認欲求が強めな40代や50代の男性は多い。そして、我が強くて偏屈な60代や70代の男性も珍しくない。両者は同じ時間軸においてリンクしているように感じてならない。

加齢に伴う心身の変化は自分自身の中で生じている。にも関わらず、その変化が外から覆い被さってくるように感じる。併せて、自分の存在が無価値ではないかと感じ、他者を鏡として自分を確認したくなる。しかし、そのベクトルは違うのではないか。

自分が生きることの意味だとか、自分自身はどのような存在なのかとか、自分が生きて何が残ったとか、まあそういった疑問がたくさん積もる年頃なのだけれど、それらのテーマを考え続けているとレールを踏み外してクライシスに突入してしまうことだろう。

「奇行に走る人の多くがオッサンなのはどうしてなのか」という理由もようやく分かった。そして、若い人たちから老害と揶揄される高齢者の一部の言動についても解釈しうる。おそらく、中年から老年までのクライシスが繋がっているのだろう。

とはいえ、世の中は自分が望むようには作られておらず、自分が望むことで人生を変えるステージも過ぎてしまっている。ある程度は割り切って深く追求せず、まあそれが老いというものだと開き直った方が、ミドルエイジの苦しみを緩和することができるような気がする。

まあそれでも、あと少しで年始の繁忙期が過ぎて、サイクリングに出かけることができる。ミドルエイジ・クライシスとか男性の更年期なんてなんて若い人たちには想像することができないことだろう。私自身も若い頃には感じえなかった苦しみだ。内臓や筋肉どころか脳が衰えて不調をきたす。これは厳しい。

私の場合には実家依存の妻との不和というイレギュラーなのかレギュラーなのか分からない悩みも抱えているけれど、どんな中年男性だって心に重く乗っている悩みのひとつや二つくらいはあって当然だろう。

そもそも、家庭が円満で仕事が地獄という構図よりは恵まれている。愛すべき家族のために仕事で自分を犠牲にするという悲劇にはなりえない。仕事が順調であれば、家庭が崩壊しても生き続けることはできる。

だが、自分が潰れると仕事も家庭も終わる。それだけのこと。

いくら夫のことが気に入らないといっても、妻が夫を追い込んで潰して働けなくさせれば、妻本人が経済的に困窮するだけだ。離婚後に元妻が養育費を払えと言ったところで、元夫に金がなければ払えない。完全別居における婚姻費用についても同じことだ。

元妻に対する意趣返しとして金を払わず、文字通りに仕返しとして元妻を経済的に追い込む元夫もいるだろう。

同世代の父親の中には、妻が生涯の伴侶として内面を支えてくれる幸せなパターンがあったりもするだろう。けれど、私の場合には違う。自分のことは自分で守るしかない。それだけの覚悟が固まってきたことは分かる。

それ以上は、次回のサイクリングに出かけた後で考えることにしよう。今は疲れている。