2022/12/26

ツイッターの閲覧数の開示によって映し出された人の心理

米国の大富豪のイーロン・マスク氏がTwitter社を買収し、CEOとして様々なシステムを変更している。それらの変更に伴い、各ツイートの閲覧数が他者にも制限なく表示されるようになった。ツイッターに興味がない人にとっては何の意味もないかもしれないが、この変更によって私はようやくひとつの謎が解けた気がした。

私自身はツイッターのアカウントを有しておらず、このSNSは人の内面の沼だと理解した。ペルソナが剥がれた人々の本性が剥き出しになって投じられ、まさにカオスのような状態になっている。しかし、どうして一部の人々がツイッターにのめり込むのか、私には理解することが難しかった。


ツイッターが斜陽に差し掛かり、その存在さえも消え失せた時に録を読む人たちのことを考えて記すと、ツイッターは日本語の場合には140文字以内の文章、かつ数枚の写真を併せて発信することができる簡易ブログだと解釈して差し支えがない。

大して立派な機能があるブログとは言えないが、ツイッターにはネットユーザー同士をリンクさせるという機能があり、他のユーザーをフォローしたり、逆に自分が他のユーザーにフォローされることによってネットワークを構成することができる。

ツイッターを含めたSNSというブームの前には、ブログのブームがあった。その前は、手作り感があふれるホームページというブームがあった。

つまり、重複性があったとしても、人々の波としてはホームページからブログというツールに移行し、SNSというツールに移行したわけだ。

SNSというツールにおいてツイッターと双璧を成していたのがフェイスブックであり、フェイスブックは主に実名で日常をネットに発信するというスタイルだ。ツイッターの場合には匿名性が確保されており、ひとりで複数のアカウントを有することも可能。けれど、欧米のユーザーはツイッターであっても実名で発信することが少なくない。

イーロン・マスク氏がTwitter社を買収してからよく分かったことがある。それは、ツイッターというSNSを世界で最も利用している人々は米国のネットユーザーであり、その次は日本のネットユーザーなのだそうだ。

世間体を気にする割に我が強い日本人の底意地の特性と、匿名性を有し文章力がなくても構わないツイッターの特徴が見事にマッチした結果として世界的にも珍しい現象が起きているのかなと私は考えていた。

だが、イーロン・マスク氏が指示したシステムの変更によって、私が想像していた範囲よりもさらに深遠な世界が存在していたことが分かった。なるほど、これは興味深い。

多くの人たちが指摘していて、私もその考えに賛同するところだが、ツイッターで繰り広げられている意見や近況の投稿が日本人の特性を完全に映し出しているとは思えない。むしろ、承認欲求が強い人たちがネット上で使っているツールこそがツイッターだと私は理解している。

浦安市民のツイッターアカウントを特定することは容易だ。停電だとか、大雨だとか、まあそういったインシデントの際には、匿名のユーザーであっても自分が浦安に住んでいることを一時的に発信したりもする。

本人にとっては良かれと思って発信しているのかもしれないが、「なるほど、この人は浦安市民だな」と興味深くリストを作成している人がいたりもするわけだ。海楽地区だとか堀江地区だとか日の出地区だとか明海地区だとか、地元住民だからこそツイッターユーザーが住んでいる地区名までがよく分かる。

そして、本人は匿名のツールだと思って使っていても、実際にはリアルな状態を観察されていて、「なるほど、この人は頭の中でこのようなことを考えているのか」と把握されていたりもする。

私がリアルで出会った、あるいはリアルな状況を把握しているツイッターユーザーはたくさんいる。その多くが承認欲求がとても強い人たちだ。リアルでは謙虚に振る舞っていたりもするが、一皮を剥がせば我が露呈する。友達になれそうにない人たちという表現で全てを察してもらえることだろう。

自分は他者よりも優れた存在なのだとか、自分はこんなに素晴らしい体験をしたとか、まあそういった内容を発信し、他者からのレスポンスをもらって悦に浸る。そのサイクルが本人によって有意義であれば、他者がとやかく言う筋合いはない。

だが、それぞれのツイートの閲覧数が無制限で表示されるようになって私が驚いたのは、「リツイート」や「いいね」といったレスポンスと閲覧数に解離があるという点だ。

例えば、リアルな姿を知っている浦安市民がツイートして、リツイートが全くなく、いいねが数件という投稿があったとする。他のユーザーからのレスポンスがなくて寂しく、それなのにどうして頑張ってツイートを連投するのかと私は疑問に思っていた。

しかしながら、何の面白みもないと私が感じた数行のツイートであっても、閲覧数が50回とか100回とか、一体、どこの誰がアクセスしているのか不思議に感じるくらいにアクセスされているツイートが多い。

つまり、この閲覧数こそがツイッターユーザーを熱中させる、あるいは依存的にサービスを利用させ続ける機序になっていたわけだ。これまでは各ツイートの閲覧数は非公開だったので分からなかった。

承認欲求が強い人たちにとって、ブログで意見や近況を発信し、毎日のアクセスが数件あるいはゼロという事態は屈辱でしかない。自分が他者から認めてほしくて仕方がない人たちだからな。

だが、ツイッターを使って発信すると、自分の投稿についてのべ50人や100人といったレベルのネットユーザーがアクセスしてくるわけだ。アクセスしてきた人たちが、ツイート主の考えや生き方に賛同しているとは限らない。ただ習慣としてアクセスしているだけといったケースもあることだろう。

しかしながら、自分が投稿したメッセージを多くの人たちが閲覧してくれていることが分かったならば、半ば依存的にツイートを連投する理由も分かる。

リアルに知っているツイッターユーザーの実名でネット検索しても、ヒットすることが少ない、あるいはほとんどない。つまり、ネット上においては存在していないことと同義に近い。

だが、匿名であってもツイッターを利用すれば、多くの人たちが自分を見てくれる。その事実は自己の承認欲求を充たすに余りあるインパクトがあり、併せて他者のツイートにアクセスすることで承認欲求を他者に与える。

つまり、膨大なネットワークの中でツイートの閲覧というサイクルが循環し続けている。このギミックこそが、世界的にみてツイッターのユーザー数が多い日本の現状を裏支えしていると私なりに思った。

他方、私の場合にはどうか。実名でネット検索すると数万件がヒットするので、むしろネットという存在が鬱陶しい。100人どころではない人たちから観察されていることだろう。

深遠なる人の心の淵は自分以外は知りえない。だが、ネット上で自分のことを発信する人たちにおいて承認欲求が小さいはずがなく、自分のことをより知ってもらえる方向に人々が流れたということか。

その筋であれば、ブログからツイッターに移行したネットユーザーたちがブログに戻ってこない理由がよく分かる。

自分が経験したこと、自分が考えたこと、そのような自分の内面をネット上に投影したところで、他者のレスポンスどころかアクセスさえ芳しくなければ、一体、自分は何をやっているのだろうかと徒労感を覚えることだろう。

他方、ツイッターの場合には、リツイートやいいねが付かなかったとしても、自分のみに表示される閲覧数のアナリティクスによって他者からのアクセスを知ることができる。自分のツイートに対する閲覧数を紹介するようなユーザーはネット上に見当たらず、あくまで自分だけが知りうる情報だったわけだ。

フォロワー数が多くても、実際にはあまり多くの人たちからアクセスしてもらえないツイッターユーザーもいたりする。ツイートの閲覧数を無制限で表示するというシステム変更は、極めて興味深い情報開示だな。

米国はともかく、日本においてこれだけツイッターというSNSが普及している現状には、「自分が他者からどのように思われているのか」という点を気にする国民性が反映されているように感じられる。

自分が発信したツイートにたくさんの閲覧数が表示されると、あるいはこれまで通りの閲覧数が表示されると気分が楽になり、ツイートを連投するというループに入るということか。

自分が生活している浦安市がツイッターでのシティプロモーションに力を入れているとは思えない理由も分かった。

浦安市の公式ツイッターの閲覧数も当然ながら表示されている。1回のツイートの閲覧数は5000回程度。17万人近い市民が生活し、3万人近いフォロワーがあるツイッターアカウントであっても、多くの人たちは浦安市からの発信に関心を持っていない。

大雨だとか停電だとか地震だとか、まあそういった自分の生活に関係する内容については積極的にアクセスするかもしれないが、自分に関係がない内容には関心を持たない。それが人の習性だ。

浦安市の偉い人が色々と理由を並べていたけれど、要は17万人の市民の中で一部の人たちしか見ないようなツイートで頑張る必要はなくて、前時代的な紙媒体の「広報うらやす」を街中にばらまいた方が○○を考えるとアピールになるという話だろう。

確かにツイッターは即時性があり、文才の有無どころか、罵詈雑言であっても発信することができる。発信されたツイートはタグが付加されることもなく延々と流れ、同じ時間を生きた人たちの間で共有され、その後はツイート主でさえも振り返ることがないままネットの澱みに蓄積する。1年前のツイートなんて誰も気にしないし、余程のことがない限りネット検索でもヒットしない。

ネットの黎明期を思い返すとオッサンだと言われそうだが、確実にオッサンなので気にせずに言うと、ツイッターというツールは、かつてのホームページあるいは現在のブログのようにネット上に存在する箱庭のようなパーソナルスペースではなくて、ただひたすら「今」の自分を誰かに認めてもらって満足する手段になっている気がする。

その活動を裏支えしているのは、自分の承認欲求を充足させたいというネットユーザーの気持ちであって、人の生き方における価値を考えた場合には、情報を発信することにも、情報を受け取ることにも大した意味がないのかもしれないな。

Twitter社が、「サーバの負担になるので過去のツイートを全て削除します」とアナウンスしたところで、以前からツイートし続けていた人たちが過去の自分の内面を回収して他のツールに移行させる術はない。あまつさえ、自分にツイートに対する閲覧数なんて何の意味もない。

ネット上に投影した自分の内面や近況さえもバックアップのない幻のような状態になっているわけだ。振り返っても意味を感じられないことに執心し、限られた人生の時間をそれに費やす。まあそれも人の自由だ。

ならば、自分はどうして録を記してネット上で公開しているのかというと、公開したところで大勢のユーザーからのアクセスがあるわけでもなく、日記のようなものをネットに遺しているだけのこと。

自分の公的な生き様については、頼んでもいないのに他者が情報を発信してくれる。ツイッターで必死に自己アピールを繰り返している人たちには羨ましいことだろう。

だからといって私自身の承認欲求が充たされるはずもない。他者からの承認はビジネスシーンにおいて役立ちはするが、プライベートな場面で承認されたところで形になるメリットはない。

加えて、匿名のアカウントが自分と繋がっていることを知っているのは概ね自分だけだ。架空に近い存在の自分をネット上でアピールして、他者からのリアクションを受けることに何の意義があるのだろう。

毎日のようにHYPSENTにアクセスしてくださるネットユーザーは確かに存在しており、このような長文かつ駄文は時間の無駄になるだろうと私本人はとても恐縮していたりもする。

自分の人生が終わる時、昔の自分は何を考えていたのかを振り返るためにログを残しているだけの話であって、閲覧数がゼロになっても何ら気にしない。ブログサービスが閉鎖される時には、これまでのエントリーをエクスポートして保存することもできる。

自分が発信した情報を自分が納得しうる数の他者に知らしめて、それで満足し、そのループが繰り返され、時間が過ぎれば全てが幻のようになったというSNSは多々存在する。ツイッターがそのような状況にならないとも限らない。

日本ではユーザー数が多いけれど、米国を除く他国でツイッターがあまり流行っていないという状況は、このシステムに相応の意義がないと多くのユーザーが感じ取ったからではないだろうか。

自分の生き方について、自分よりも世間体を重んじて判断する傾向がある国では盛況かもしれないが。