自分用の落とし穴を掘ってしまう思秋期の恐さ
私もオッサンなのでオッサンと記すけれど、最近、凄まじい落差で天から地に落ちていく同世代のオッサンを見かけた。真面目に生きていれば輝かしい未来があったはずだが、過去の軌跡を含めて多くが吹き飛んだ。最悪な年越しだな。
オッサンによくあるミドルエイジ・クライシスとは、うつ病や不安障害といったダウナー系の変化だと私は理解している。
しかし、歳を重ねて逆に元気でお盛んになるオッサンも確かに見かける。ダウナー系ではなくてアッパー系の変化とでも定義しようか。その場合には勢い余って自らクライシスに向かってダイブしてしまうこともあるらしい。具体例を挙げると生々しいので省略する。
ダウナー系と比べるとアッパー系のクライシスには一時的な興奮や喜びが含まれているかもしれないが、当然のごとく相応のリスクがある。しかも、結果的には自分で落とし穴を掘って自分が陥るというパターンがよくある。そして、落ちる時は真っ逆さまだ。
いわゆる成功者の周りには様々な人たちが寄ってくる。そのような人たちは成功者の立場や能力、あるいは人脈や金を目当てに集まってくる。そして、成功者が調子を崩して利用価値がなくなれば、助けもせずに距離を置き、次の標的を探して集るだけ。
貪欲な捕食者とも表現しうる人たちにとって、アッパー系のミドルエイジ・クライシスを起こしたオッサンは格好の獲物になる。
加えて、成功者がトラブルに巻き込まれて落ちていく姿を見て同情するどころか、嫉妬心の解放にも似た爽快感を覚える人たちがいる。「人の不幸は蜜の味」という脳の活動は確かに存在していて、同調心理が色濃く広がる日本の社会では、その傾向も強い。
上や前を見ながら進んで足元の落とし穴にダイブするアッパー系のオッサンたちの姿は、普段から地面を這いながら生きている自分から見ると何とも言えない無常を感じる。
真っ逆さまに落ちていく当人には大きな危機だ。仕事も家庭も崩壊し、生きる気力さえ潰えることだろう。だが、無関係な他者にとっては文字通りに「他人事」でしかない。「ざまあみろ」と笑っている人がいるかもしれないし、実際にネットでそのような醜さを投げ込んでいる人たちがたくさんいる。
他方、ダウナー系の精神の淵に沈み、地面に這いつくばりながら先に進んでいるオッサンたちの生き方が安泰なのかというと、確かに自分で落とし穴を仕掛けて自分で落ちるというパターンは少ないことだろう。精神の沼に沈んで這い上がり、地面ばかりを見て生きているわけだ。自分で落とし穴を仕掛ける余裕もない。
老いが進んで感じることがある。自らの努力が着実に実を結び、若年から老年まで調子良く人生が進み、何の後悔もなく達成感に充ちた終焉を迎える人はどれくらいの割合なのだろうかと。
その割合を調べることは不可能だが、大まかに分けると二つのパターンがあるように思える。
ひとつは可能な限り良いポジションから人生がスタートし、可能な限り高い場所にたどり着いた人たち。もうひとつは、「この程度で十分だ」という自分だけの標準線を設定して丁寧に生きた人たち。
言葉で表現するのは容易だが、生きる中でそれらのパターンをトレースすることは難い。前者の場合には、当人の努力だけではなく様々なタイミングが関係する。後者の場合には、自分が満足する基準を保ち続けるために相応の心がけと努力が必要になる。
結局のところ、「ああ、これは素晴らしい」というエピソードと、「ああ、これは違ったな」というエピソードが波のように寄せてくることが人の生き方の自然な姿なのだろう。かといって幸と不幸が交互にやってくるはずもなく、幸ばかりが続く人もいれば、不幸ばかりが続く人もいる。
それらの波が完全なる確率論であるはずもなく、自分の取り組みや判断によってたくさんの波が生じる。そのため、人は自らの生き方を振り返って後悔したり、反省するのだろう。当然といえば当然のことだ。
落とし穴を作らないように丁寧に生きるといっても限界があり、結果としてそれがトラップになっていることさえ気付かなかったり、リスクを承知しながらも進まざるをえない時だってある。
ミドルエイジという不安定な年頃だからこそ、落とし穴にはまらないように慎重に進む必要があることは分かっている。けれど、その落とし穴がどこにあるのかよく分からず、自分自身が落とし穴を掘ったことを認識することさえ難しい。
なるほど、華麗な学歴や職歴がある人たちでさえ崖に向かってダイブすることが珍しくないという事象には、自分で掘った落とし穴が自分で分からないという加齢的な変化が関係しているのだろう。
そして、自分もそのような人生のステージに入ったということか。仕方がないので、このまま地面を這いながらダウナー系で悲観的に進むことにしよう。落とし穴があっても勢いよくダイブするリスクは少ないかもしれない。