2019/11/07

或文豪の文章スタイル

リアルな場面での私、さらには素の私を知らない人がHYPSENTにアクセスすると、「この人は病んでいるのか? その割には文章に流れがあるし、いやしかし生きることに疲れているのか?」という感じで不思議な気持ち悪さを感じることだろう。


ロードバイクサークルでもとりわけ関係の深い友人たちが「仕方ねぇな...」と苦笑いしている姿を想像してしまう。

また、あまり仲がよろしくない人たちは、私が落ち込んでいると勘違いしてせせら笑っているかもしれない。生憎、私は子供の頃からこの調子だ。

ロードバイクサークルのサイトからリンクを張ったので、一見さんは特に引いているかもしれない。

写真を多用してフレンドリーで楽しそうな文章を綴ると、不可思議な初心者が入会を希望して迷惑するし、このログはとりわけサークル紹介を意識せずに書いている。

そもそも今の私にはネットでサークルメンバーを募る気持ちがない。

今まで彼是と努力してみたが、この1年の間、ネットで新規入会を希望してきたのは一人を除いて道理に外れた人たちばかりだった。

入会を希望しておきながら実際にライドに来ない輩も多い。

それなら最初から希望するなとは言わないが、社会人のモラルもマナーもない人と否が応でも繋がってしまうことがネットというものだ。

これなら自治会や公民館の掲示板にポスターを貼ってメンバーを募った方がはるかに楽だ。

また、せっかく良きメンバーに出会えても仕事や家庭の都合でロードバイクそのものに乗らなくなり、グループライドに来なくなることもある。

サークルの規模を維持するためには新メンバーを集め続ける必要があり、どこまでも続くこの不毛な取り組みに私は辟易してしまった。

もとい、読書が好きな人から見れば、プロフィール欄だけで或文豪のテイストを真似していることが分かると思う。いや「或文豪」という書き方だけでも分かる人は分かるかもしれない。

多くの人が感じていても言葉で表現できない頭の中に漂う霧を斬っていくシニカルさ、自らの内面を削り取っていくような危うさ。

物事の残酷さや無常を見つめ、疲れ、飽きて、それでも何とかしがみついて生き抜こうとする姿。

芥川龍之介。

私が彼の圧倒的な情景描写や深淵な内面世界を真似することは不可能だが、芥川風の私小説のような文体、それが私にとって最も書きやすい。

加えて、読みやすいようにできる限り難しい言葉は用いず、見聞きしたことを文章だけで描写する。

SNSが流行り、多くの人たちは写真や動画で物事を説明し、文章を書くことも読むことも面倒になってしまったのだろう。

百聞は一見に如かずとは言うけれど、文章力や読解力が落ちた人が多くはないだろうか。

ビジネスでの連絡は今もメール、つまり文章が主体になっている。

文章を書くことも読むことも日々の積み重ねが大切であって、頻繁に画像と短い文章をネットに発信してもそれらは身につかない。

最近はプライベートで半ばネット断ちをしているので他者のブログを読まないが、以前はサイクリストのブログを繁々と眺めていた。

最も趣を感じなかったのは実業団などのロードレーサーのトレーニング系のブログ。

その人がどれだけの距離やパワーで走ったとか、どれだけのプロテインを飲んだとか、鳥のササミを食ったとか、体重が何kgだとか、何のレースで何位だったとか。

それらからはストイックさと自己顕示欲以外の書き手の内面は伝わって来ない。

一体、これを読んで何を感じるのか。トレーニングのログを公開して同じ趣味の人たちと共有し、互いのモチベーションを維持することが目的だろうか。

努力の成果として「あなたは凄いよ、素晴らしいよ」と称賛してほしいのだろうか。

申し訳ないが、そのようなスタイルに没頭している人たちの生活面の方が気になる。

人生で他に取り組むことはないのか、収入や貯蓄は十分なのか、子育てを奥さんに任せきりではないか、そもそも家庭があるのか。

表彰台でガッツポーズ。人生を振り返って頑張ったことが自転車。

しかし、価値観は人それぞれだ。人生のフィナーレに向けてそのまま生きればいい。振り返っても時間は戻らない。

次に飽きたのがサークルの世話人系のブログ。

どこどこに行ってどんな景色を見たとか、誰々が健脚を披露したとか、この穴場スポットでグルメを楽しんだとか。

各メンバーのハンドルネームが痛い。

「あなたは楽しそうだよ、素晴らしいよ」と共感してもらいたいのだろうか。

ブログには胸焼けがしそうなくらいに大きく撮影された海鮮丼やラーメン、スイーツの写真が並ぶ。

頭にヘルメットをかぶってピチパンを履いた中年男性たちが奇妙なポーズで記念写真に収まり、そのテンションに愕然とする。

趣味なのだから、楽しければそれでいいのだと思う。残り少ない職業人生とともに仲間に囲まれて幸せなサイクルライフ。その仲間たちはいつまで傍にいてくれるだろう。

サイクリストのブログに求めるのは見当違いかもしれないが、私が欲していたのはもっと書き手の内面が自分の中に入り込んでくるようなエントリー。

写真が添えられた小学生の絵日記のような文章ではなくて、生臭いまでのリアリティを書き綴ったような芥川風の文章。

そういえば彼のようなサイクリストのブログに出会ったことがなかったなということで、自分で書くことにした。

私は状況に応じて柔らかな文章やコミカルな文章も書くことができるが、デフォルトは暗い感じの文章を好む。おそらく天性のものではなくて、幼い頃に読んだ本の影響なのだと思う。

私は子供の頃からハイパーレクシアの徴候があって、小学校に入学する前の時期に常用漢字をマスターしていた。

今でもログが長文になることが多いのはその影響だと思う。

芥川龍之介の小説を読み始めたのは小学校一年生の時で、図書館にあった代表作を一通り読み終えたのは二年生の頃だった。

彼の作品群は推理小説や怪奇小説よりも遙かに怖く、子供の脳に焼き付いた。

しかし、当時は両親から虐待に近い、あるいは現在なら虐待と認定される仕打ちを受けていたためか、自ら欲して読んでいた。

心の中に蓄積する何かを昔の人がすでに文章に書き残していたことに驚いた。

人は外面では当たり障りのないことを言い、自らを飾るが、内面はどうなのか分からない。

感情は波のように揺れ動き、他者に嫉妬し、自らに苦悩し、結局は自分のことを優先して動く。

昨今ではTwitterにその内面がよく顕れているように感じる。それが異常だと言えるのかというとそうではなくて、覆い隠していた蓋が外れて内面が吹き出しただけの話ではないか。

性格や人徳、感性や教養、さらには思想や家庭状態までよく分かる。その世界で楽しんでいる人たちはどういった感覚なのだろう。

吐き捨てられる膨大な数の感情の池に浸かって、それが心地よいのだろうか。

しかし、一部の人たちはそのようなネットツールがなかった頃から社会や人間の本性を感じ取り、それらを文章として書き綴ることができたのだろう。そのことが自らを追い詰めてしまうことがあったとしても。

うちの妻は最近の人気作家の小説を好んで読んでいるけれど、たまには芥川龍之介のことをネットで調べると驚くかもしれない。

私は彼ほど立派ではないが、音に過敏なところだけではなくて、幼少期の生い立ちや思考そのものが似ていたりする。

また、彼の妻の名前や性格を確かめるだけでも不思議な偶然性に気づくことだろう。たぶん同じようなタイプなのかなと思う。

彼が作品を残してくれたことで、それらに共感し、教訓として学びながら生きることができる。

彼の女性問題や人生の終焉だけは真似したくないものだ。