2022/12/04

いつもの年末、いつか過ごした時

2022年が明けて春を感じ始めた頃から強い浮動性の目眩に苦しみ続け、年の瀬がやってきた。この一年のHYPSENTの録は、浦安住まいに起因する適応障害に耐えながらも、何か楽しく感じることがないかと足掻いているオッサンの闘病記のようになってしまっている。無様だ。

以前から新浦安の住環境や長時間の通勤でストレスを重ねていたところに、コロナ禍で抑制されていた人の往来が再活性化したことが、今回の不調の原因なのだろう。この状況下で仕事が捗らざるも停滞することなく維持することができたのは、五十路が近いベテランの経験論。といえば聞こえはいいが、言い換えれば人生の惰性や慣性のようなものだ。


2016年頃に生じたバーンアウトによる感情の消失から6年が経過した。まだ6年しか経っていないのかという印象があるけれど、鏡に映る老け込んだ自分の姿は、6年間の苦しみの大きさを分かりやすく示している。

この間、「人生は上々だ」と感じたタイミングが一度もない。心身の不調を感じ、生きることに悩み、まるで地面を這いながら前に進んでいるような感覚がある。

比喩表現ではなく現実の場面では、浦安市内を出歩く際や電車通勤の際に斜め下方向で眼球を意識して固定することで浮動性の目眩を抑えている。こんな生き方が幸せなのかと疑問に感じつつ、車内や駅で周りを見渡せば、ほとんどの人たちがスマホを凝視して時間を過ごしている。客観的に考えれば大した相違はないかもしれない。

しかしながら、「人生は上々だ」と調子に乗っている時には足元が見えなくなる。時を経て振り返り、そのような喜びが一過的なものであったり、結果的には金や時間を無意味に消費したり、然したる価値さえないと気付くだけならば、まあそれらも生きる中での経験として蓄積される。

最悪なパターンとして、足元が見えない状態で判断を見誤ったり、無理して心身を壊すと、その後の生き方に大きな影響を及ぼす。

他方、地面を這いながら前に進むという表現通り、常にどこか調子が悪いという状態で生きていると足元がよく見える。あまつさえ、自分は残りの時間をどのように生きるのかとか、人は何を心の拠り所に生きるのかといった哲学的な思考が浮かぶことが多い。

以前から不思議に感じていたことが、(少なくとも自分の頭の中では)相応のロジックによって説明しうるということに気が付くこともある。

例えば、「オッサンのブログやSNSは、どうして面白く感じないのか?」というごく自然な疑問が私にはあった。彼らが30代あるいは40代前半だったころの情報発信は面白かった。しかし、彼らが50代付近になるとブログのコンテンツが面白く感じなくなり、アクセスする機会も減り、たまにブログを訪れてみると更新が滞って卒塔婆状態になっていたりもする。

彼らの多くはブログからツイッターに移行し、日々の出来事や意見を発信している。しかし、それらの発信さえも私には面白く感じない。考えが偏っていて、説教がましく、無理にエピソードを探しているような印象がある。

不思議だなと思っていたら、私自身のブログも考えが偏り、説教がましく、無理にエピソードを探しているようなコンテンツになっていた。

他者への関心が減る一方で、他者に対して上から批評するような思考が増え、しかしこれまでの生き方を反省したり後悔するような機会も増えた。我慢することが難しくなるような感覚もある。

日々の出来事が長い期間を経てルーティン化してしまい、かつてどこかで経験したようなエピソードの繰り返しが多い。変化といえば上司や同僚が変わったとか、定食のメニューが変わったとか。それらの変化だって過去に経験した同じようなことだったりもする。

なるほど、オッサンの髪の毛が白くなったり、肌の艶がなくなったり、体臭が強くなることと同じように、精神面においても自然な変化が生じるということか。それらを総じると「老い」という解釈になるのだろう。

しかし、頭を吹き飛ばされるような強い浮動性の目眩に耐え続けた半年程度の時間において、私はひとつの考えをまとめることができた。心身の調子が良い状態のままであれば深く考えずに過ごしたかもしれないが、心身の調子が良くないことが「普通」という状態においては深く考えることもある。

自分の理解の範囲では、10代や20代で学歴の方向付けがなされ、30代で仕事や家庭の方向付けがなされ、40代で全体的な生き方の方向付けがなされる。そして、60代で老後という方向付けがなされる。

問題は50代なんだ。素になって考えると我ながらおかしい。

40代から50代に移行するステージでは、自分が急激に老いていることを実感する。この変化はとても大きい。けれど、仕事で積み重ねたスキルは維持されて、無理をしなくても働くことができたりする。家庭においては結婚や育児という難所が過ぎ、夫婦関係は冷め、子供なりの生き方が進む。

過去の経験と同じ内容は記憶として残らず、それらのエピソードがスキップされ、結果として時間が早送りで過ぎ去っているように感じる。これから日々のルーティンが増える度に時間の流れがさらに速くなるのだろう。

この50代というステージは、一体、何の方向付けがなされる時期なのか。自分がその時期に差し掛かっているから答えが見えないのか、そもそもの答えがない期間なのか。

試しに、それまでの生き方を振り返って折り返しに入るステージが50代だと仮定してみる。つまり、この時期には共通性のある分かりやすいテーマの方向付けがなされるわけではなくて、それぞれの人たちがそれぞれの残りの生き方を考える期間と解釈すると、すぐにロジックが破綻する。

なぜなら、50代でそれまでの生き方を振り返ったところで、次のステージは60代だからだ。今さら何を考えたところで変化は難しい。

それでも、50代で脱サラするとか、離婚して新しいパートナーと生きるとか、まあそういったトランジションに向かうオッサンは珍しくない。ビジネスの調子が良いまま仕事に没頭し続けて、定年退職して真っ白になるオッサンも珍しくない。だが、いくら抗ったところで、いくら変わろうとしたところで、期待した結果に至るわけでもないだろう。

そういえば、60代に入ったシニアの男性たちから、「とりわけ趣味といった趣味もないので...」というテンプレートのような悩みの一部を伝え聞くことも多い。老後に入る前の趣味の有無で生き方が変わるのか。一体、趣味という存在は生きる中でどのような意味や意義を持っているのか。自分なりの答えが分かりそうで分からない。即答しうる答えが、本当の答えなのか。またもや疑問が増えた。

現時点では、「刻々と生きる」という暫定的な答えしか見つからない。

60代に入った私が自分の50代を振り返ると、「あの時期は○○が方向付けされたのだなぁ」と感じるのかもしれないが、これから50代に入る時期には先が読めない。多くのことがルーティン化されていると感じているにも関わらず、自分自身に老いという変化が生じ続け、仕事や家庭を含めると変動するパラメーターが多すぎる。

50代になって癌が見つかったり、心臓が止まって死ぬかもしれないし、うつ病をこじらせて他界するかもしれない。一方、自転車でペダルを回しすぎて循環器系や筋骨格系が万全の状態のまま老後に突入するかもしれない。終わりを意識しつつ、しかしその終わりが思ったよりも遠い可能性もある。何だこの時期は。

50代というステージが自分にとってどのような時期なのかが分からないまま、そのステージに入っていくのは何だか気が重い。しかし、どうせ分からないのなら、毎日の出来事を受け止め、過去や未来にあまり執着せず、時間を刻むように生きる。

それで何かが得られるのかというと、これまでの日々の延長が続き、さらに老いるだけだろう。なので、オッサンたちは悩んだり焦ったり、時には奇妙なベクトルに向かって行動するわけだ。

細やかな楽しみを生き甲斐にすることだって、生き方そのものがルーティンに埋め尽くされて退屈になることを避ける、あるいは耐えるための智恵かもしれない。

そのように考えると、老後の生き方を方向付けるステージは60代ではなくて、実際は50代なのかもしれないな。職業人として現役の時期に老後を考えるなんて悲しくもあり面倒にも感じる。老後のことはリタイアした時に考えようと誰もが思い、実際にリタイアした時に考えても遅いと感じるわけだ。

仕事をリタイアして子供が巣立った後の日々は究極のルーティンが続く。趣味でもないとやってられないということも分かる。その時に備えるなんて、時の流れは思ったよりも速い。