2022/10/23

職業人の需要と供給

この数年は色々な意味で世の中の混乱が続いてきたわけだが、その混乱の余波もあって世の中がさらに大変な状況になってきた。とはいえ、具体的にどのような点で大変なのかということに、①気が付いている人、②気が付いているけれど気にしない人、③気が付くような思考回路がない人がいる。

世の中のことを人々に伝える役目をもつマスコミの劣化が著しいと批判する人がいたりもするが、私はマスコミが劣化したとは考えていない。少なくとも団塊世代が働き盛りの頃からこの状態だった。


私が学生時代を過ごし職業人として働き始める時期、バブルが崩壊して日本の経済が傾いた。それ以来、この国は一度も好景気を迎えておらず、我が子たちを含めて最近の若人たちは景気が良い祖国の状態を経験していない。

若き日の私は、まあそれでも真面目に生きていれば生活は大丈夫だろうと思ったわけだが、何だか雲行きがおかしいぞと気が付いたのは、ちょうど大学院に進学する頃だった。

大学院に進学する若者たちは、将来の職業として知識層を目指す人たちが多い。しかし、大手企業の方針としては博士課程まで修了した人材ではなく、修士課程で修了した人材を新卒で採用するというスタイルが一般的だった。そして、基本は学部卒の採用。大学院教育には期待していない。今でもそうだろう。

米国だけではなくて他の先進国、さらには昔の日本ならば新興国や途上国と見下していた国々であっても、博士課程を修了したドクターには相応のステータスが用意され、企業の戦力として高待遇かつ積極的に採用されている。

「博士なんて融通が利かない、学士や修士を採用して自社で教育した方がずっと役に立つ」というやり方を貫こうとした日本の企業は、次々に外資系企業に食われる結果となった。その理由は分かりやすい。

日本企業の幹部や中堅たちが博士号を持っていなかったからだろう。自分たちよりも高学歴な人材を採用すれば上司の立場が低く見られるとか、扱い方が分からないとか、まあそういった都合ではないか。

博士たちから見れば、学士や修士にどれだけのパフォーマンスがあるのか、具体的に言えばどれだけの修行を積んだのか疑問に感じることだろう。

学部を卒業した段階ではせいぜい1年程度の卒業研究のレベルだ。その後で修士課程に進んだところで、博士課程の大学院生の研究を手伝う形で1年が過ぎ、翌年には就職活動に入る。

半年ほど研究を中断し、就職先の内定が出た後で必死に修士論文を書く。実質的には1年半。それだけの期間でスキルや知識、および洞察力を高めることは難しい。

そんなことは企業の人事も分かっているわけで、どの大学院で修士号を取得しようが採用には関係なく、どの大学の学部を卒業したのかということにこだわる。大学入学というスタート地点での地頭やポテンシャルで選別しているとさえ感じられる。

また、学部の頃よりも有名な大学の大学院に進んだ人を学歴ロンダリングと呼んで蔑むこともある。そんなことをやっているから日本は国際競争に負け続ける。

他方、欧米の場合には、スタート地点がカレッジだろうが、学部の間で他大学に編入しようが、どこまで登り詰めたのかを評価する。学部から大学院に進学する際には、よりランクが高い大学の大学院に挑戦するなんて当然のことだ。居残った方がチャンスと評価が下がることだろう。

加えて、学部卒の学士と大学院修了の博士は待遇が異なる。その他の資格や学位も評価される。職業人としてのスキルを修得していなければ簡単に解雇される。

ということで、とりわけ知識層を目指す海外の若人たちは大学入学後も懸命に勉強し、貪欲にステップアップを目指す。

日本においては六年制の学部への入学は国家資格の取得と直結するので、四年制学部と比べて扱いが異なる。

しかし、米国等では学部が終わってから大学院のような形でメディカルスクール等に進学するシステムが採用されている。スタートで躓いても、努力と才能で方向を変えることができる。躓くと起き上がることが難しい日本とは違う。

とはいえ、日本の六年制の学部でプラチナチケットになっているのは医学部と獣医学部くらいだろうか。

歯学部については定員を増やしすぎたために歯科医師の供給過多が生じ、歯医者が儲かる時代は終わった。薬学部についても同じことが起こることだろう。

もとい、20年くらい前の日本では大学院重点化というフレーズの下に博士課程に進む若者を増やす取り組みがなされた。

無給で働く大学院生は研究室の戦力として重要であり、大学側も喜んで応じたことだろう。大学院の受入枠を増やし、博士号取得者を増やそうという流れになった。

しかしながら、当事者である若き日の私は思った。博士号を取得した後はどうなるのだろうかと。

博士課程の大学院生の受入枠が増えているけれど、その後の就職の際の採用枠が増えていない。大学教員のようなアカデミックポジションが増えるように思えないし、この不況が続けば大学経営も苦しくなり、むしろ採用枠が減る。

ならば企業が博士号取得者を積極的に採用するのかというと、おそらく学部卒や修士卒を優先することだろう。行き場がなくなった博士たちはどうなるのだろうかと。

当時はネットの黎明期だったが、オンラインのメディアでこの点について報じられることはほとんどなく、新聞やテレビでも報じていない。

博士になりたいという若者の夢や理想を膨らませるイメージばかりが先行し、職業としての受け皿が用意されず、若者を利用する大学のセンセイたちが得をするだけではないかと、すでに大学院に入ってしまった後で思った。

これはサバイバルレースのような状態だと覚悟して、必死に働いた。

結果、世の中はどうなったのかというと、40代になっても常勤の職に就くことができず、非正規雇用で生活を食いつなぐ博士が世の中に溢れることになった。

夢を抱いて海外に留学した博士たちが、帰国して無職になることもよくある。消息不明になり、ビルの清掃業で食いつないでいることさえある。

派遣社員の待遇についての課題が浮かび上がった頃よりも早い段階で、博士のワーキングプアはすでに始まっていた。

これはおかしいと気が付いた時にはすでに遅く、しかし問題が露呈するまでには数年〜5年程度かかる。10年くらい経つと、もはやどうにもならないという状態になる。責任者はリタイアしていて、もはや何が悪かったのか、誰が悪かったのかも分からない。

大なり小なり、世の中でよくあることだ。

大学院重点化に限らず、期待通りに進まない予定調和が繰り返され、世の中はあまり明るくない状態になった。まるで増築を繰り返した古い旅館のように様々なことが入り組んでしまっている。

現在の日本の大学院の博士課程はどうなったのかというと、苦しい生活が待っていることが最初から分かっているので、大学院に進む日本人学生の数が少なく、中国や東南アジアなどからの留学生が多数を占めるようになった。

とりわけ国立大学においては独立行政法人化によって資金繰りが悪化し、教員の数さえ減っている。無給で働いてくれる外国人留学生はありがたい存在なのだろう。場合によっては留学生に対して、自国ではなく日本から奨学金が用意される。

大学院の博士課程の若者たちに対して大学側から給料や生活費を支給する国は多い。自国で知識層を育成することが国力に繋がることを知っているからだ。

日本の場合には、大学から日本人の大学院生に提供される金はほとんどなく、良くても謝金程度。狭き門である学術振興会の特別研究員に選抜されないと、博士課程の大学院生は金に苦しむことになる。

その場合には、バイトで生活費を賄うか、実家から支援を受けるか、利子付きの奨学金を受け取って借金を背負うか。国力の一部として博士を育成する他国とは随分と扱いが違う。

ただし、日本の大学院においても日本人の若者が集まってくる分野があるらしい。

それは、「データサイエンス」の専攻なのだそうだ。これからはAIだとかDXに長けた人材が必要とされ、就職先もあるだろうという考えなのだろう。

私の頭の中で大学院重点化の時の記憶が蘇る。流行りのフレーズが広がった時には背景に何があるのかを考える。

人手不足と過酷な勤務形態によって心身を磨り減らしながら働いている日本のシステムエンジニア(SE)たちは、この状況をどのように感じるのだろうか。

他学部に比べれば、データサイエンスを学んだ人材をSEに転用することは容易だろう。

しかし、おそらく若者たちとしてはSEではなくデータサイエンティストを夢見ていることだろう。残念ながら、夢が実現する人の方が少ないはずだ。志望者と社会の受け皿を考えればすぐに分かる。

確かにSEとしての就職先がたくさんあるかもしれないが、多数の人材が就職活動に入れば、当然ながら職業人としての希少性が減り、買い手市場になる。

それでも世の中の変化としてSEの需要が高まるかもしれないが、多くの若者たちはSEになりたいわけではなくて、高収入で格好良く映えるデータサイエンティストになりたいわけだ。

もしくは、デジタルスキルが有用だということで市役所や県庁に就職というパターンはどうか。役所にはビッグデータが集まるので、情報政策に携わることができればデータサイエンティストと呼べるが、専門職の公務員として働き続ける可能性がどの程度なのかは分からない。本人の希望に反して窓口業務に人事異動といったケースになると大変だ。

現実は残酷だが、大学側としても商売なので若人を呼び込む看板が必要になる。

マスコミがそう言っているから、学校の先生がそう言っているから。そのような根拠で若者が将来を決めることは時にリスクを有する。

そして、デジタルに長けた若者たちが供給過多になり、待遇は上がらず、賃金が上がらない日本の企業に見切りを付け、日本人が他国に出稼ぎに行くような時代がやってくることだろう。

英語が苦手であっても翻訳ソフトウェアが進化している。せいぜい管理職が日本語を話すことができれば何ら問題ないだろうし、日本と比べて年収が2倍や3倍だと言われたら、もはや躊躇する必要がない気もする。

他方、デジタル以外の分野について考えると、勤労世代の減少に伴って外国人労働者の受け入れがさらに加速し、社会全体がさらに変化することが予想される。

これらは世の中の流れの一部でしかなくて、もっと大変なことが同時並行で雪崩のように訪れている。私が悩んだところで意味がない話ではあるけれど、この世の中はどうなってしまうのだろうな。

社会で一過的に広がるフレーズやマスコミが報じている内容については鵜呑みにせず、社会全体の動向の背後に何があるのかを察することは生き抜く上で重要だ。

その仕組みは往々にして利益を求める人たちが先導し、変化に気が付かない、あるいは変化の裏側を察しえない人たちが標的になる。

深く考えずに、自分の周りのことを優先して生きるという姿が最も楽かもしれないし、多くの人たちがそのように生きているのだろう。しかし、その風潮がさらに大変な状況を引き起こしているように思えてならない。