10年単位の時間枠
一方、他者から見ると大して意義深くないことであっても、自分の内面から生じる「気付き」は、本人にとっての生き方を方向付ける道標になったりもする。たった数日間ではあるけれど、プチ家出によって半年以上続く浮動性の目眩から解放された時、私はとても単純なことに気が付いた。
人生50年だとか、70年だとか、100年だとか、まあそういった寿命があるとして、おそらく定年延長があるだろうから65歳をもってリタイアすると仮定する。そこから5年くらい生きて70歳で世を去ると、「若くして」という印象はなくなる。このライフプランの場合、20歳から年金を納め続けて、たった5年の給付なのか。
この場合、ミドルエイジクライシスだとか、思秋期だとか、まあそういった中年時代の憂鬱を存分に体感している私としては、あと20年くらいの時間が残されているという解釈になる。その時間が短くなるかもしれないし、予定通りかもしれないが、色々と考えるのが面倒なので70年の寿命だと見積もってみる。
そして、70年のうちの50年という時点から、自分の生きた軌跡を後方視的に眺めた場合、不思議な規則性があることに気が付いた。他者からは「そんなこと、当たり前じゃないか」という突っ込みがあることだろう。
それは何かというと、様々な人生の節目が概ね10年くらいの「時間枠」によって構成されていること。
この10年の時間枠は人生の様々なステージで出現する。そして、いざ時計が回り始めた場合、その結末を変えるための猶予は早期の3年間が大まかな目安になる。
3年以内の猶予枠でリセットせずに10年の時間枠が過ぎてしまうと、いくら後悔しようが努力しようが取り返すことが非常に難しい。
個々の人生には、このようなユニットが数多く存在し、それらが組み合わさることで人の生き方が形作られる。当たり前といえば当たり前のことだな。
とても分かりやすい事象は、個々の人たちに「学歴」という基準が生まれる時間枠。自分の子供たちの進学プランを考えている時に薄々感じていたことだ。
人によって早い遅いがあって当然だけれど、中学3年間、高校3年間、そして大学4年間という合計10年間で学歴が形作られる。
もしくは、日本の大学は卒業よりも入学が難しいわけで、大学合格の段階で学歴が決まると考えた場合には、小学4年生から始まる中学受験の準備をスタート地点として、余計な世話だが1浪する時間を加えると、ちょうど10年間になる。
子供から大人になったばかりの20歳前後において、人間に学歴というレッテルが貼られることになる。これは日本に限った話ではなくて、他国でもよくある話だ。だから必死に机にしがみついて子供たちが勉強し、親が熱くなったりもする。
そして、学歴というレッテルが本人の能力を必ずしも反映していないにも関わらず、まるで人間の品質保証マークのように扱われ、就職にも影響を及ぼし、結婚式でも紹介され、葬式においてさえ誰かの話のネタになるかもしれないわけだ。
レッテルを誇示するだけで中身や実績が伴わない人もたくさんいる。学歴社会の弊害だ。
しかも、この10年という時間枠は、本人がその枠の中に入り込んでいる時には意識することが難しい。まるで自分が大きなカプセルに包含されているかのようだ。あまつさえ、その枠の中に自分がいつ入ったのかも実感することが難しかったりもする。枠の存在に気が付くのは、その枠を通り過ぎた時。
私がふと気付いて自分で「なるほど」と思ったのは、これらの特徴だな。
先ほどの学歴の話で言えば、10年の時間枠がスタートして、これは違うと気が付いて3年の猶予枠で浪人なり再受験を試みて方向を変えた人がいたとする。しかし、その試みは大なり小なり覚悟と忍耐を伴い、失敗するリスクもある。それらを避けたまま学校を卒業して社会人になり、もはや学校に戻ることができなくなったとする。
その時点で「ああ、もう少し勉強しておけば良かったな」とか「自分は本当は○○学部に行きたかった」とか「夢は○○になることだったのに」と後悔しても遅い。
「大人になって苦労するから、今のうちに勉強せよ」と自分の子供たちに言ったところで、子供たちは何のことやらと本気にならなかったりもする。経験した大人が知る時間枠について、子供が気付いていない。
このパターンは学歴に限った話ではない。新卒で就職してからの10年間は、個々の職業人生の方向性を決める上でとても重要なステージだ。大卒の企業人であれば、この10年が過ぎた後で30代の前半になる。新卒の就職活動において本人が望んでいない職場に採用された場合であっても、数年かけて転職して方向を変えることもあるだろう。方向転換に失敗してさらに厳しい職場を転々とするかもしれないし、方向転換せずに我慢を続けて過労やストレスによって潰れるかもしれない。
さらに過酷なことに、複数の10年の時間枠が順番にやってきて、それらをひとつずつクリアするというわけではない。複数の時間枠が併行する形で訪れる。
10年かけて職歴を重ねながら、併せて10年間程度の「婚活」という時間枠があり、子供が産まれれば「育児」という10年の時間枠が併行してスタートする。育児という時間枠には3年間の猶予枠が存在せず、リセットすることもできない。なので厳しい。
夫婦についてはどうなのかというと、10年も経てば引き返すことが難しい状態になる。30代で結婚して、これは違うと40代で離婚したとする。40代で再婚して幸せに生きている夫婦だってたくさんいるはずだが、男性の場合には養育費だとか住宅ローンだとか、そもそもの出会いだとか、まあ色々と大変なことだろう。
ということで、結婚の場合には籍を入れた後で早々と離婚したりもするわけだな。長期にわたって夫婦で対立してストレスを溜めて苦しむよりも離婚した方が潔く感じたりもするし、子供がいる場合には潔すぎるだろうと思う夫婦もいる。だが、よくよく考えると、このパターンは先述の3年間の猶予枠に相当する。
私の家庭の場合には、育児に入って妻が家庭内で暴れ始めた時点で離婚し、私が30代の間に再婚することができれば違った生き方があったはずだ。しかし、小さな子供がいても離婚に踏み切ることが父親として正しいことなのか分からなかったので、そのまま生きた。
子育てに入ってフェミニストであることが露呈した妻は、「離婚については、全て男が悪い。男が責任を取るべきだ」という主張に偏向しているけれど、妻の家庭内暴力やモラハラによって精神的に追い詰まり、家庭を捨てて逃げるしかなかったという男性もいるはずだ。どうしてこの社会は妻から夫への暴力について存在しないような扱いになっているのだろう。
そして、職業人として若手の10年の時間枠が終わった段階、あるいは中堅の10年の時間枠が終わった段階では、転職だとか脱サラだとか、まあそういったステージに入ったりもする。
本人の気持ちに区切りが付いたと感じて新天地を目指すのかもしれないが、その区切りに要した時間を逆算すると10年程度に相当してはいないか。
組織にもよるが、出世競争においても30代半ばから40代半ばまでの10年間で大勢が決まる。幹部への道がなくなった職業人は、同期や年下の上司に従って働いたりもするし、諦めて転職することもある。私の場合はこの時間枠で家庭に起因するバーンアウトを起こして出世どころではなかった。
また、私は男性なので女性のことはよく分からないが、40代から50代において生じる「男性の更年期」だとか「ミドルエイジクライシス」だとか「思秋期」だとか、まあそういった不安定な精神状態がどうして生じるのか、自分がその境地で苦しみながらも、興味深く感じる。
そのような気分の落ち込みをもたらす理由のひとつは、間違いなく身体的な衰えなのだろう。自分自身を鏡に映すよりも、同世代の友人や知人、あるいはメディアに映る公人の姿を観察した方が「老い」を実感することができたりもする。
「へぇ、あいつはオッサンを通り越してジイサンに近づいているな」と感じた場合、自分にも同様の変化が生じているということだ。
その老いに抗おうとして、40代とか50代でジョギングだとか筋トレを始めてマッチョになってしまうオッサンがいたりもする。その背景には老いに対する「焦り」があるかもしれないが、いくら頑張ったところで白髪頭もしくは禿げ頭。皮膚の張りや艶もなくなっている。
外的な特徴だけでなく、内臓や脳神経系、および内分泌系にも老いが訪れる。そもそも明治時代や大正時代の日本人の平均寿命は43~44歳程度だったわけだ。昔ならば寿命とされた時期を超えてから焦っても仕方がない。
だが、器質的な衰え以上に気分が沈み、生きることについてぼんやりとした不安を感じるのはどうしてだろう。
私なりの解釈としては、これまでにいくつも併行していた複数の時間枠が減り、現時点でどの時間枠にいるのかが分からないという感覚がある。
いや、複数の時間枠が減っているわけではなくて、確実に存在しているはずなんだ。子供たちの育児という時間枠は過ぎ去ったが、大学受験を中心とした学歴を重ねる10年の時間枠がスタートしている。
五十路に入れば老後の資産について真剣に考える必要があり、この課題についても10年の時間枠が適用される。
つまり、10年の時間枠が存在していること自体が精神の安寧をもたらすわけではないということか。50代において経験する時間枠に意味がないというわけではなくて、「楽しくない」という感覚があったり、自分の取り組みだけでは解決しえないという徒労感や虚無感があるからだろうか。
男性が50代に入ってから脱サラしたり、身体を鍛え始めたり、ネット上で自己愛をアピールしたりと、それまでの軌跡から変化に転じることが多いのは、10年の時間枠を自分の意思で作り出そうとしているという私なりの解釈になる。
高度成長期の日本で現役世代として働き、現在では70代になっている団塊世代の男性たちの場合には、50代におけるこのような精神的疲労を感じることが少なかったのかもしれない。なぜなら、彼らには「仕事」という10年の時間枠があったからだ。
現在の男性たちにも仕事という時間枠があるけれど、「逃げ切り世代」と揶揄されることもある彼らの世代の場合には、往々にして50代が職業人生のクライマックスだったわけだ。管理職に昇格してそれなりの収入を得て、部下を率いてリーダーとして働くという姿があったことだろう。
そして、定年退職した後の団塊世代の男性たちは、現役時代とは別人のように活力が減り、真っ白な灰のようになって生きる意味を探し、思考の淵で彷徨っているように感じられる。管理職として組織から必要とされたステージから妻にさえ疎まれるステージに転じ、やることと言えば自治会の担当など。その落差に苦悩しているように思えた。
現在はどうか。バブル崩壊の余波は今でも残り、就職氷河期以降の採用減もあって現場の人材が足りない。コストカットや効率化も限界だ。仕事において生き甲斐よりも疲れを覚える50代が明らかに多い。
なるほど、50代に入った男性がキャンプなどのアウトドアの趣味を始めるという最近の風潮は、あながちブームというわけでもなくて、仕事や家庭といった範囲で生じる10年の時間枠とは別に、自分が「楽しい」と感じる時間枠を自分で作り出すという意味があるということだな。
10年の時間枠でソロキャンプを楽しんだ後は、孫を連れてキャンプを楽しむというステージ、あるいは過疎化で投げ売りになった「山」を丸ごと購入して小屋や畑やキャンプサイトをつくるというステージに移行することもできる。
もちろんだが、50代に入ってからの10年間においても仕事に没頭し、定年退職後のプランなんて全く考えない男性たちもいることだろう。それなりの学歴を有し、それなりのステータスの職業に就き、それなりの出世を求め、それなりの地位にいる男性の方が人生における仕事の比重が大きいはずだ。
しかし、学歴や職歴は職業人生をリタイアした後にリセットされる。老後の資産は大切だろうけれど、それまでに得た社会的なステータスなんてものは意味がなくなる。老いてもなお死ぬまで現役という人を否定はしないが、皆がジイサンになる。ただそれだけだ。
ここまで延々と考えて分かったことがある。五十路の場合の10年の時間枠については、自分が拒否しない限り、仕事においても家庭においてもほぼ自動課金のような形で降ってくるということだ。
それらの時間枠が楽しくも意義深いと感じているオッサンがいるかもしれない。しかし、大勢のオッサンたちはそれらの時間枠を空虚に感じ、まるでベルトコンベアに乗ったように繰り返される毎日のルーティンに「焦り」を感じる。焦りに加えて、後悔や失望、諦めを帯びるかもしれない。
私の場合には、その精神世界がまるで重い荷物を背負って錆び付いたレールの上を歩き続けているようなイメージになるのだろう。
この状況を打開するにはどうすればいいのか。その答えが分かれば苦労はない。多くの五十路のオッサンたちが漠然とした悩みの淵に落ち込んでいる。
とどのつまり、思秋期の葛藤を緩和するには、10年くらいの時間枠で楽しむことができる何かを見つけることが有用なのかもしれない。いや、有用というよりも、その時間枠が生き甲斐を保つ上で必要なんだ。
私の場合はどうなのか。ミニベロに乗ってペダルを回すことくらいしか思い浮かばない。ロードバイクという趣味を10年程度楽しんでミニベロに乗り換えたということについても、やはり10年の時間枠が適用されている。
しかし、車種はともかくサイクリングという趣味については10年の時間枠を過ぎてしまい、刺激を感じるというよりも日常の一部となってしまっている。
数年後に浦安という「嫌な街」を脱出し、電車通勤の地獄から解放されて自転車で通勤する日が来れば、その時点で何かを感じることがあるのか。あるいは、居住地を変えることでサイクリングルートも変わり、趣味において新たな展開が生じうるのか。
以前からやってみたかったミニベロに乗って遠距離の安宿を訪れ、そこで一泊して帰ってくるというサイクリングでも始めてみようか。
職業人生をリタイアした老後には、そのスケールがサイズアップして折り畳み自転車と共にさらに遠くを旅したり、キャリアを積んだ自転車にキャンプ用品を乗せて野宿するというベクトルに進むことだろう。この趣味の場合には人生の終焉まで繋がりが保たれる。
よし、暫定的にはこのプランで行こう。
何か前向きなイメージがないと、仕事でも家庭でも責任ばかりが増えるオッサンの人生なんてちっとも楽しくない。