お菓子おじさん
紙袋の中に予備の紙袋を入れておくことも忘れない。手持ちで運んでいるうちに取っ手の部分の紙がへたることがあるので、手渡す時には真新しい紙袋に交換する。
数年前...現在が2019年だから2016年の終わりだったろうか、記憶があまり残っていないのだけれど、私にとって大切な武器になっていた仕事の能力が突然使えなくなった。
当時の私は仕事で深夜残業を続けながら、夫婦共働きの子育てを続け、往復3時間を超える長時間の電車通勤に耐えていた。毎日の睡眠時間は4~5時間しかなかった。
地道に取り組んできた仕事が軌道に乗ってきたので手を抜くわけにはいかなかったし、かといって妻や子供たちの環境を変えてはならないと気を張っていたのだろう。
夫婦共働きの子育ては独身時代に想像していた以上に過酷で、夫婦仲もテンションが張る。
情けないことだが、子供たちの前で怒鳴り合いの夫婦喧嘩もよくあった。
仕事と家庭で心身が削れていることが分かっていたのに、それをどうすることもできずに耐えているような状態だったのだろう。
自由に使えなくなった能力が何かについては追々書きとめることにして、総論として考えればうつ病ではなくてバーンアウトのような状態になりかけていたのだろう。
家庭と通勤で疲れてしまいましたとボスに相談するのは気が引けたが、うちのボスはいわゆるイクボスなので親身になって相談に乗ってくれた。
そこから2年間は浦安から都内までロードバイクに乗って通勤することにした。ロードバイクのトレーニングにもなるし、動的なマインドフルネスでストレスを減らすこともできると考えたからだ。結局、2年間で2万km程度を走った。
そのような生活で仕事の効率が上がるはずもなく、職場の多くの人たちに助けてもらった。人の有り難さを知り、職場の良さを実感した。
今までは自らの能力や実績を高め、時に誇示して優位に立とうとか、そういった気持ちがあったのだけれど、いざその能力が鎖に縛られた状態になると惨めなものだ。
鼻っ柱が折れて、私はとても謙虚になったと思う。それはそれで良かったのではないかと振り返る。
しかし、職業人としては勢いが削がれたことに変わりはなく、その苦しみを妻に伝えたところで、共働きの子育てで相談に乗ってくれる余裕もない。このまま夫が潰れたら、子供の中学受験どころか浦安に住み続けることさえ難しくなる重大な事象だ。
夫の心身の健康は自己責任で何とかしなさい、しかし年収は今まで通り維持しなさい、通勤は誰だって辛いのだから我慢しなさいというライフスタイルでは耐えられないと思ったが、総じて自らの判断で進んだ人生だ。
仕事で助けてもらったら、もちろん仕事で恩を返すことができれば良かったのだけれど、不甲斐ない状態ではそれも叶わない。
ロードバイク通勤の途中で、少しでも感謝の気持ちを伝えることができないかと思っていたら、道端で洒落た洋菓子店を見かけた。
どこでも見かけるような店ではなくて、喧騒から少し離れたところにポツリとあるような、それでいて凛とした佇まいというか。
その店に入って洋菓子を買ってお世話になった同僚に手渡すことにした。とても喜んでくれた。仕事上の付き合いではあるけれど、友人に近づけたような気がした。
今までの職業人生で他者から助けてもらって、私は本当に感謝していたのだろうかと反省した。
それぞれに役目があって、職業人だから役目を果たすことが当然だと思ってはいなかっただろうか。
誰だって自らの仕事が他者を助けているわけだけれど、その意味すら感じられずに働いていることがないだろうか。
その努力を他者から認められて感謝されると、その日はいつもより違った日になる。そうか、そういうことかと気づいた。
言葉で感謝することは手間がなくて一瞬だが、心に残り続ける言葉を発することは難しい。
美味しい菓子なら食べている間は感謝が続くし記憶にも残りやすい。
なるほどこれはいいと思い、ロードバイク通勤中に少し寄り道して都内の洋菓子店をチェックしてまわり、感謝する機会があれば洋菓子をバックパックに入れて走り、お世話になった同僚に贈ることにした。
お菓子おじさんの誕生だ。
相手が男性であれば少しビターなチョコレート系もしくはガッツリ系。
相手が女性の場合にはアソートの詰め合わせが良くて、しかも勘違いされないように周りの女性たちと一緒に休憩がてらつまめるように人数分を入れておく。
女性の場合には店の名前をネットで検索することがあるので、どこにでもあるような大きなチェーンではなくて、あまり見かけない店の方が喜ばれたりする。
奥さんがいる男性の場合には本人よりも奥さんのことを考える。どこかの女性からもらったのではないかと勘違いされないように、ついでに「同僚からもらったんだけどさ...」という言い訳をしながら夫が妻のことを気遣って買ってきたと勘違いされるように、洋菓子だけではなくて季節の紅茶を添えておく。
すると、家に持って帰って夫婦の会話のきっかけになるようだ。
暑い時期には冷やして食べるゼリーなどがいい。自分で買って食べるには高くて抵抗があるけれど、もらって食べるなら嬉しいというライン。しかしあまり高価だと逆に気を遣うのでその辺りを細かく考える。
それと、ロードバイクで通勤していた時は職場の駐輪場を使うことになるので、盗難はないだろうけれどママチャリなどによって横倒しになるかもしれない。
見回ってくれている警備員さんたちにもお世話になっているということで、警備員さんにもお菓子を配ったことがある。
制服を着ていかつい感じがあるけれど、中身は普通の人なので心配りがあると嬉しいのだろう。いつもより対応が丁寧になった。
2年間のロードバイク通勤は長時間のライドだったこともあって、終電を気にせずに働けたこと以外、仕事は全く捗らなかった。速く走れるようになったが仕事には結びつかない。
そして、バーンアウトの兆候も少しずつ緩和され、そろそろ電車通勤に戻っても耐えられるかなと考えていた頃、ロードバイクで出勤している時に交通事故に遭って電車通勤に戻った。幸い大きな怪我はなくて、今から考えると年間1万kmなんてよく走ったなと思うけれど、当時は生きることに必死だった。
しかし、電車通勤に戻った後もお菓子おじさんは続いていて、今度は辛い電車から途中下車して適当に駅の近くで洋菓子店を探していたりする。
私にとって時間を無駄に費やすだけの無意味な通勤において意味が生まれる。
最近ではその延長で妻や子供たちにもケーキなどを買って帰ることがある。私は甘いものが苦手なので洋菓子を食べないが。