2022/10/16

飛行機で地方を訪れ、ディズニー客と同じ道程で帰ってくる小旅行

メンタルが弱いのか強いのか、春先から続く浮動性の目眩に今でも耐え続けている。その原因は往復3時間超の通勤地獄と人口密度が高すぎる新浦安という街での生活。原因が明確なだけに目眩が生じる場所も限られていて、通勤電車の中や駅構内、自宅から新浦安駅までの歩道、そして最も苦痛を感じる新浦安駅。

気温と気圧が低く、湿気を伴う雨の日のこと。あまりに厳しい目眩に襲われ、出勤時に立っていることさえ難しくなって吊り革にしがみつき、帰宅時には駅のベンチで座り込んで吐き気を抑えた。どうしてこんな目に遭うんだ。ここまで辛い状況であっても気を遣わない妻子に絶望したが、もはや何に苦しんでいるのかさえ分からない。そこで、数日ではあるが浦安という「嫌な街」を離れて考えることにした。家出と同義だな。


バーンアウトだ思秋期だと暗い録を遺し続けている私だが、限定的なニッチに存在している職業人としては日本でオンリーワンに近い希有な人物だったりもする。

自分を尊大に感じているという意味ではなくて、若い頃、誰も関心を持たない不人気な仕事があり、「誰もやらないからお前がやれ」という上司からの適当な指示が降ってきた。

その仕事は本当に人気がなく、誰も関心を持たなかった。仕方がないのでそのまま続けていたら10年が経ち、自分ではなくて世の中が変わり始めた。そして、20年が経つと専門家になっていた。

そろそろ後進を育てるべきだと思いもしたが、人気がない分野なので若い人たちが寄りつかない。

夢多き若人たちは、誰が見ても華々しく、自分を高みに引き上げてくれるような舞台を求める。その方が出世のチャンスがあるだろう。

しかし、派手な舞台は多くの人たちが同じことを考えて目指すわけで、当然ながら競争が激しくなる。頂点に立つことができるのはごく僅か。夢潰えた多くの人たちの末路は失望と嫉妬が混じり、無様に映る。

その状況は日本に限った話ではないらしく、気がつくとオンリーワンになっているニッチな人たちは世界中にいる。競争相手が少ないニッチに逃げ込むのは容易なことだが、そこで生き続けることは容易ではない。

海外においても、「ああそういえば日本にはアイツがいたな」という程度で私の存在が認知されていて、会ったことも一緒に酒を飲んだこともない外国人からメールが届いたりもする。

「お前だれやねん」と返事を送ってもいいのだが、よくよく考えると光栄なことなので無碍に断るのもよろしくない。

海外からの問い合わせはオンラインというか、メールオンリーで適当に対応している。

しかし、日本国内の場合には実地で話を聞かせてくれという依頼が届いたりもする。通勤と日常の生活だけで精一杯なのでオンラインで適当に対応してきたが、オンラインではなくて真面目に取り組む場合には出張の機会がたくさんある。身銭を切る必要もない。

くたびれた白髪頭のオッサンの話を聞いたところで意味があるのか分からないが、陰が薄すぎるために実在していないのではないか、AIなのではないかと若人たちから思われているらしい。

もちろん仕事をこなすという意味はあるけれど、とりわけ地方出張の場合には「旅」という要素が含まれる。というか旅だ。乗り物に乗って地方を訪れ、その場所の料理を食べ、宿に泊まり、地域の空気を感じる。

このまま浦安住まいを続けていたら、いつか私の精神が崩壊することは分かりきっている。妻の実家が浦安というだけで住みたくない街に住むことになった。激しい浮動性の目眩は、厳しいストレスを受けている私の脳が悲鳴を上げている証拠だ。

ならば、厳しいストレスから離れて自分の脳を休ませることも大切だなと私は思った。

最近では通勤経路だけでなく、自宅の中でも激しい浮動性の目眩が生じるようになってきた。夫であり父親である私が苦しんでいても妻子が気を遣わない現状に絶望し、もはや全てが嫌になった。

目眩でフラフラになりながら自室で旅支度を整え、スーツを着込み、まるで浦安に押し寄せるディズニー客のようにキャリーバッグを引きながら街中を歩き、ディズニーがなければ用意されなかったであろう充実したインフラを利用して羽田空港に向かう。

早めにたどり着いた空港でモバイル端末を取り出して、仕事の準備。最近ではオンライン会議が普及し、ベンチが並んだ出発ロビーで喧しく端末に向かって話すビジネスマンが目立つ。この人たちに職務の秘匿義務はないのだろうか。

自分の斜め前方で端末に向かって指示を出しているオッサンは、おそらく小規模の会社を経営する実業家だろう。派手な柄のスーツでシャツの襟が立っている。

なぜに彼が日焼けしているのかは分からない。語尾を上げながら話すことに意味はあるのか。そもそも、電話で済むような話にも関わらず、オンラインで顔を見せて指示を出さないと部下が動けないのだろうか。10年後に会社が残っていることを祈念しよう。

その男があまりにうるさいので場所を変え、別のベンチに座る。すると、端末の充電が可能な場所でケーブルを引いて必死にモバイルに向かって話しているサラリーマン。

「車検の時期が...」とか「納車を考えても今しか...」と必死になっている。どうやら、外車のディーラーのようだ。彼の職業人生の柱は車を売ることだ。それは否定しない。

ここで車を買ってもらえるかどうかの瀬戸際のようだ。しかし、これ以上の値引きという手札は残っていない。様々なおまけやサービスで押している。あとは勢いくらいか。サラリーマンの言動に熱が入る。

おそらく彼の双肩には営業ノルマだけでなく、妻と子供と住宅ローンが乗っている。管理職として地方から東京本部に呼び出されて叱責された後、部下では対応が難しい案件が空港でやってきたということか。

先ほどの日焼けマッチョと同じで、なぜに電話で済む内容をオンラインで顔出しで話すのだろうか。その方が相手に熱量が伝わるのだろうか。その場で彼が土下座を始めたらどうしようかと気になった。

水平方向に頭を吹き飛ばされるような浮動性の目眩に耐えながら、相変わらずの空港スタッフたちからの営業スマイルに対してマスクの上だけの愛想笑いを返し、隣の乗客と密になった状態で席に座る。飛行機の場合にはコロナ対策が難しいけれど、これがアウトなら満員電車もアウトだ。

離陸した後にはヘッドホンを装着し、モバイルプレーヤーで人間椅子の曲を流す。この半年、通勤中に聴く音楽は人間椅子が9割を超えている。浦安から都内への通勤地獄でイージーリスニングなんて聴いている余裕がない。地獄をテーマにしたヘヴィメタルが似合う。

しかし、この状況で聴きたい「青森ロック大臣」がプレイリストに入っていない。「りんごの泪」は入っていた。

人間椅子の「地獄への招待状」を聴きながら思った。ここで飛行機が墜落して自分が死ぬことになったとして、何か思い残すことはあるだろうか。そろそろ終わらないかなと願う感情の存在を感じる。もう十分に苦しんだ。

酷い時には数分毎に生じる激しい浮動性の目眩によって、精神が憔悴しきっているらしい。家族からの労いや支えがないことも疲れを増大させている。

この目眩がどの程度なのかというと、例えば悪天候で飛行機が垂直方向に落ちて「スーッ」と血の気が引くような感覚があったりもするが、その感覚よりもはるかに大きな苦痛と違和感が水平方向に生じる。

身体全体に重力がかかるのではなくて、頭だけが弧を描いて吹き飛ばされるような感覚。よくこれで正気を保っていられるものだと我ながら思う。

余程に疲れているのだろう。ハードロックを聴きながら機内で眠りについた。

頼んでもいないのにコーヒーを運んでくるキャビンアテンダントの作業音で目を覚ました。私が座っているエリアの担当は、自分よりも少し若い美人な女性だった。

おそらく40代でこれだけ美しいプロポーションを維持するとは、さすがプロだと感心する。

引き締まったふくらはぎと細い足首を覆う黒色のストッキングが官能美を映し出している。彼女のような妻がいる夫の人生はどれだけ幸せなのかと想像する。欲求不満のオッサンによくある下衆な思考だな。

しかし、私は気が付いた。

完璧なメイクを施した彼女の額に、血管が浮いている。

本人の感情として歓迎しているわけでもない乗客たちに愛想を振りまくのは大変なのか、あるいはチーフとしてまとめている部下の中に嫌な人がいてストレスを蓄積しているのだろうか。もしくは、朝に夫と喧嘩して色々と苛ついているのだろうか。体調不良で疲れているというシンプルだが重い理由かもしれない。

周りの乗客は気が付いていないのだろうか。彼女は額に青筋を立てながら笑顔でコーヒーを配っている。実にシュールだが、さすがプロだ。

某国のマッシブなキャビンアテンダントたちのように、無愛想に飲料のカップをテーブルに投げ落とせば楽になるだろうに。

墜落しても気兼ねがないと思いながらも無事に航空機が着陸し、機内からデッキに降りた私は、酷い訛りがある地方民たちの列の後を歩きながら、心身の回復を感じていた。

目眩が消え去った。

なるほど、これは興味深い。この目眩が心因性であることは分かっていたが、嫌な街から離れれば離れるほどにストレスが減り、もはやネズミの影響を受けない場所に来ると目眩もなくなるということか。

ネズミの魔法結界の中で生活しているわけだから、疲れて当然なんだ。

これまでは出張先で適当に見かけた飲食店に入り、適当に飯と酒を味わって適当に過ごしてきた私だが、最近の節倹生活が出張にまで影響を及ぼしている。

観光客目当ての割高な店に入らずに、スマホで近所のスーパーを検索し、現地の人たちが通う店に入ってパックの食材を眺める。

浦安市内のスーパーと比べて半額以下の値段で新鮮な魚の刺身が手に入る。凍結融解を繰り返してくたびれた刺身ではなくて、包丁でカットした断面が残っている。

加えて、地元のスーパーは実に面白い。「こ...これを食べるのか?」と驚くような食材が並んでいたりもする。

それらの食材を購入してホテルまで持ち帰り、日本中どこにでもあるイオンで購入した安いパック酒とともに味わう。酔っ払えば酒の味なんて分からない。

滞在した宿は、いかにもな感じの安いビジネスホテル。高い宿に泊まっても眠れば同じだ。

だが、いくら部屋が余っていたとはいえ、ダブルベッドルームをシングルとして提供するのはいかがなものか。あくまで私の推察だが、フロントの係員は、私が場末のホテルに滞在し、これからデリバリーを頼むと誤解している。

どうやらホテルの選定を間違ったらしい。私は潔癖症の気があるので、不特定多数と濃厚接触している女性と触れ合うどころか、普通の温泉で知らないオッサンと同じ湯に浸かることさえ抵抗がある。嬢を頼むはずがない。

それにしてもこの部屋はエキセントリックだ。窓の外にはホテルの看板が取り付けられていて、カーテンの隙間から照明が入り込む。しかも、カーテンを開ければ隣のオフィスビルの社員が見える。つまり、この部屋はカーテンを開けることを前提としていない。

旅行に来たカップルが宿泊したら何と無粋だと気分を害するはずだ。酔っ払って眠れば関係ないか。

宿泊先のホテルの自室にて、スーパーで購入したパック入りの料理を並べ、酒を用意したところで箸を買い忘れたことに気が付いた。ホテルのフロントに連絡したところ、フロントまで割り箸を受け取りに来いという返事があった。普通ならば客室にホテルマンが届けるだろう。どうしてホテルマンが客室に来ないのか不思議だ。ホスピタリティの欠片もない。

そういえば、以前に地方に出張した時、間違いなくビジネスホテルで宿泊を予約したのだが、手が届かなくらいの高い位置に50センチ四方の小窓しかない部屋に通されたことがある。あの部屋もベッドが広かったな。なるほど、場末のホテルはそのような仕組みなのか。

私の人生は、自分で考えて自分で決めるとロクなことがない。

とどのつまり、その地方でラブホテル代わりに使われているビジネスホテルに一人で宿泊することになったわけだな。

しかし、翌朝に目を覚まして白い飯と味噌汁を味わって機嫌を直した。この国はどこに行ってもそれなりに旨い料理を食べることができ、旅先でいきなり襲われることもなく、安全で清潔だ。体調を崩しても保険証があれば不安がなく、安心して一人旅にでかけることができる。

日本は世界で最も成功した社会主義国家と揶揄されることがある。もちろんだが日本は社会主義を標榜しているわけではない。しかし、それらの国々が理想とする理念や原則を実現した国家として映るのだろう。

世界でも類を見ない急角度の累進課税によって形成された一億総中流の社会。過度な公平を望み、普通であることを求め、しかしマウンティングが気になり、けれども同調的圧力が広がる不思議な社会だ。結局は自分のことばかり考えているのだろう。

他国で生まれ育っていたら、自分はどのように生きていたのか。成功者としてより豊かな生活をなしえたのか、それとも格差の中で苦しんでいたのか。

ホテルに連泊している間、私は自宅に連絡することはなく、妻や子供たちから私に電話がかかってくることもない。その程度の家庭だ。

家庭内別居の形が続いたためなのか、私は妻子を心の拠り所にしていない。ホテルに滞在していても妻子の姿が頭の中に浮かばない。

民法に基づくと夫なので相応の住居や生活費を用意しているが、妻も子供たちも私に何ら感謝していない。父親は妻子のために生きて当然だと受け取っている。妻の方針の結果だ。私はそれを良しとしない。否定し続けていたら家庭像も崩れ去った。

我が家の場合には、妻がいて、自分の遺伝子を持つ子供たちがいて、しかし私自身はどこかのオジサンという形で同居しているように思える。惰性といえば惰性であって、諦めといえば諦め。

愛する妻子が待つ家庭であれば、辛い通勤であっても耐えることができるのだろうか。私の場合には、どうして毎日何時間もかけてネズミの国がある街と職場を往復するのか分からない毎日を送っている。

男の人生の豊かさは何によって決まるのだろうか。もしも私がこの地方の田舎で職を得て、充実した家庭生活があったなら、それは豊かな生き方なのだろうか。まあ、それは間違いないだろう。

とはいえ、私も地方出身なので言えることだが、地方は刺激が少なくて暇だな。旨い料理や広々とした風景、自然や温泉など、心身の疲れを癒やすには適しているけれど、いざ生活してみると時間の流れが遅い。

ひとりの人間が何通りもの生き方を併行することなんてできやしない。なので、こうやって旅に出て、少しでも併行世界を疑似体験するということか。

自分の傍で寄り添ってくれる存在がいれば、少しはこの虚しさも減るのだろうか。残念ながら妻はそのような人物ではないし、期待もしていない。妻の影響を強く受けた子供たちも同じ。

仕事については滞りなく完了し、多くの人たちが関心を持たないニッチな職業人に相応しい五月雨の拍手を受けた。

この空気は慣れたものだが、いざ困った時には藁にもすがる勢いで私に連絡してくるのだろう。人は現実に直面するまで現実を理解しない。適当に受け流して帰路につく。

それにしても、地方空港に向かうバスが混み合う。この人たちは現地の人々だろう。一体、どこに向かうのか。

どの空港においても言えることだが、出発ロビーの広々した窓から見える風景は中年親父の人生の達観を促す。自分はどうしてここにいるのか。ここまで生きて、自分は何かを得たのか。何も得ずして世を去る日が近づいているのか。

普段は通勤地獄や「嫌な街」での生活で心身を磨り減らし、強烈な目眩に苦しんで考えることさえ難しい。目眩がない生活は、こんなにも快適なのか。

羽田空港に向かう帰路の航空機はとても混み合っている。なぜにこの人たちはこんなにも元気なのだろう。

羽田に到着すると、とりわけ天気が悪いわけでもないのに私の気持ちが沈み込む。新浦安が近づいてくると目眩が戻ってきた。重症だな。

にも関わらず、新浦安に向かう地方の人々は一気にテンションを上げてくる。「浦安だ!」と騒いでいる若い母親や子供たちの姿まで見かける。

私はその浦安に住んでいる。この人たちのように飛行機に乗らなくても、自宅から自転車に乗ってディズニーにたどり着くことができる。だからといって刺激的な生活があるわけでもなく、鬱陶しい毎日が続く。

日本を代表する遊園地がある街は、そこから離れた場所に住んでいるからこそ刺激的に映る。人々の欲求を叶える人工物を否定はしないが、それがある街で生きることが幸せとは言えない。

実際に浦安に住んでいると、まるで宗教かのようにディズニーを妄信している市民がいたりもする。しかも、女性や子供ではなくて、40代のオッサンが「ディズニー!」と盛り上がっていたりもする。私から見ると彼らは気持ち悪いオッサンでしかないが、当人たちはそれが当然だと信じ込んでいる。浦安ライフが楽しくて仕方がないことだろう。

地に足を付けて考えることさえ難しい街。人々の様々な欲求が全国から集まる街。集まる人たちをビジネスターゲットとして金儲けを考える人たちによって変化し続ける街。

そんな街が、穏やかに豊かに生活する上で適していると言えるか。妻や義実家は思考がおかしい。私の感覚として、このような街は住むに値しない。

早い話、この街でディズニーをめぐる狂想曲が流れようが、私が市外に引っ越せば住むだけの話。引っ越した後は二度と浦安に近づかない。

夫婦関係が破綻していない状態で義父母が死んだ時には、仕方がなく浦安を訪れて葬儀に出席し、火が消えるくらい多量の焼香を盛るかもしれないが、私はこの街を嫌悪している。体調を崩して苦しんでいるのだから当然だろう。

街を離れれば一気に体調が復活し、街に戻ると再び増悪する。このような生き方を私は望んでいない。