2022/10/12

思春期の子供がドアバンしたら、ドアを取り外す

朝、自室から出て身支度を整え、出勤のために新浦安の街中に出ただけで頭を吹き飛ばされるような目眩がやってくる。新浦安駅でごった返す千葉都民とディズニー客の雑踏のストレスでさらに激しい目眩がやってきて、電車や乗り換えの駅構内で猛烈な目眩がやってくる。

素になって計算すると、往復3時間超の通勤地獄において、私は1日で30分以上もホームに立ち尽くしている。貴重な人生の時間をただ立って電車を待つだけで浪費している。目眩の激しさのピークは帰宅時の新浦安駅。そして、自宅までの短い帰路。ドアを開ければ、それが当然かのように妻や子供たちが開き直っている。当然なはずがない。私はここまで苦しんでいる。


夫が長時間の通勤を耐えて職場で働いている世帯においては自然なことではあるけれど、子供たちに対する躾は妻が担当することになる。妻が夫を尊ぶように子供たちを躾けないと、子供たちは父親を軽んじるような思考形式になる。

あくまで結果論でしかないが、私は妻選びに失敗した。この結婚は失敗だった。妻は夫とか父親という存在をリスペクトしない。その流儀は妻の実家も同じだ。義実家は義父の扱いが軽すぎる。

妻の内面で強固に偏向したフェミニズムがどのような経緯で生じたのかは分からない。男性の心情を察するという性質が備わっていない強烈な自他境界を私は結婚前から知っていたはず。結婚すれば何とかなるとか、そういった曖昧な希望的観測に任せてしまったのが失敗だった。

他方、私の実家は家長である父親の存在が絶対的だった。私や兄弟を含めて、子供が父親を貶すと、実母は本気でキレて叱りつけた。我が家にはそれがないので、子供たちが父親を軽んじるような態度を取ることがよくある。

「子供たち」という複数形ではあるけれど、妻の偏向したフェミニズムの影響を強く受けているのは上の子供。中学生になって思春期になったようだが、父親である私は思秋期の真っ盛りだ。思春期には夏が訪れるが、思秋期には冬しか残っていない。

子供が成長する際に父親を嫌悪するという傾向は何ら珍しいことではなくて、小さな頃は可愛かった子供が反抗的になり、父親が心を痛めるということも珍しいことではない。

しかし、私の場合には子育てという活動そのものに適性がなかったらしく、子供が思春期に入って反抗的になっても何ら悲しく感じない。子供に対する嫌悪や憤怒が蓄積するだけ。

色々と気難しいところがあるけれど、家庭の維持を大切にする下の子供のことを考えて離婚を踏み留まった私だが、もしも下の子供がいなかったなら早々に離婚して別の人生を歩んでいたことだろう。夫婦間で激しい対立が続いた2015年頃、上の子供は何ら仲裁に入ることもなく、ただ自分のことばかりを考えて生きていた。

ドラマなどで見かける思春期の子供によくある行動として、親と意見が対立したり、親に対して反発するという意思表示のために子供部屋のドアを乱暴に閉めることがある。「うぜぇんだよ」的な捨て台詞とともに。

その行為はフィクションの世界だけではなくて、現実的にありうる話なのだろう。

私の頭の中では、家庭における世帯主である父親の存在は絶対だ。それは尊大な表現ではなくて、家族を養うという責任を背負う意味も含まれる。その父親に対して子供が立場をわきまえないということは絶望でしかない。また、それを看過する妻は伴侶たりえない。

それぞれの家庭においては、それぞれの流儀があり、それらを否定するつもりはない。しかし、私は妻や子供たちのために自分を犠牲にしすぎた。ここまでボロボロになりながら、我慢を続ける必要はあるのか。

仕事は激務を極め、どう考えても処理しきれないタスクを抱え、頭を吹き飛ばされるような目眩に耐えながら自宅に帰った。

上の子供は帰宅した父親に対して「お帰り」の挨拶さえ発しない。その時点で私の怒りのボルテージが上昇する。

そして、上の子供は、やってはいけない行動に出た。私の声がうるさい、あるいは「ウザい」と感じたのだろう。子供部屋のドアを乱暴に閉めて意思を表示した。

私は「そうだよな、自分は歩くATMなんだよな...」と自虐的になる父親ではない。

「おい。どういうつもりだ。お前は何様だ? ざけるな」と私は上の子供を詰問する。子供が思春期に入って引いてしまうから父親が無様になる。子供が思春期だろうが何だろうが関係ない。父親に対して敬意を払わない子供に対しては、妻を含めて家庭を丸ごと捨て去るくらいの勢いが父親には必要だ。

偏ったフェミニズムをこじらせた妻が横槍を入れてくる。やかましい。離婚せずに耐えているのは妻が大切だと考えているからではない。幼いながらも懸命に家庭を維持しようとする下の子供を気遣ったからだ。

住んでいるだけで目眩や吐き気が襲ってくる嫌な街に住んでいるのは、この街が妻の故郷だからだ。浦安が最も住みやすいと信じ込んでいる妻のこだわりに応えているにも関わらず、夫に対する配慮や気配りが全く足りない。

子供たちのことを考えて子供部屋を用意したのだが、結局は上の子供が子供部屋を占拠してしまい、下の子供の勉強机はリビングにある。ひとりで自分の部屋を独占しておきながら、さらには父親に対して無礼な態度をとるとは何事だ。

もはや、この家庭は自分が望んだ状態と解離してしまっている。

父親の心の中に様々な葛藤が蓄積することは別に珍しい話でもないことだろう。それぞれの家庭にはそれぞれの悩みがあって当然だ。子供が思春期に入ると、悩みがさらに増える。

しかしながら、思春期の子供に気を遣う必要はあるのだろうか。自分の子供の頃を比較対象にするのは親父の悪い癖かもしれないが、我が家の子供たちは随分と恵まれている。家庭の経済状況を気にする必要はなく、自分の進路についても父親がとやかく言わない。

妻についても同じことだ。アレがいい、コレがいいと自分の方針にこだわっているけれど、それらが可能なのは夫の稼ぎがあるからだ。自分がどれだけハイスペックな男性と結婚することができたのかを理解していないし、感謝もしていない。

このような女性に連れ添ってくれる希有な男性がいたから妻は家庭を持つことができた。私と巡り会っていなかったら、妻はずっと独身だったはずだ。妻は結果オーライでやり過ごしているが、その開き直りに腹が立つ。

まあこうやって不満を蓄積したところで何の解決にもならないし、下の子供の苦痛を無視して家庭を離散させるだけの覚悟が私にはなかったわけだ。結局は自分の業を自分で受け取るしかあるまい。

だがしかし、思春期だろうが何だろうが、子供が父親に敬意を払わないことは決して許すことができない。妻が横槍を入れるのであれば、離婚を覚悟した上で行動すべきだ。

私はずっと前から覚悟を決めている。うつ病の寸前まで追い込んできた妻に対して、どこまで我慢を続けるというのか。子供たちに対して父親を尊敬するように躾けないことは、妻として問題がある。この点について私はずっと我慢し続けている。

義実家の流儀と我が家の流儀は違う。実家依存をこじらせて、そのことにさえ気が付いていないのだろう。文句があるのなら、家計を自分で支えればいい。

上の子供が再び父親に対して横柄な態度を取ったら、ドアを乱暴に閉めることができないように子供部屋のドアを取り外すことにした。職人の家系を軽んじてはいけない。取り付けることができたものは、取り外すこともできる。簡単なことだ。

以前、篠原涼子さんが主演した「今日も嫌がらせ弁当」というシングルマザーのハートフルな映画を観た。その作中では、思春期の子供が自室のドアを乱暴に閉めたことに母親が怒り、そのドアを庭で燃やして焼き芋を作るというエピソードがあった。

当時は「なんだこれは」と思ったけれど、いざ実際に同様のシチュエーションを経験すると激しい共感を覚える。生意気な子供の部屋のドアなんて撤去すればいい。

この結婚も、この子育ても、全て失敗だったと嘆くことは容易なことだ。それらを軌道修正することは困難であり、嘆くことの方が容易だ。しかし、現状を憂うことにどのような意味があるのだろうか。

家庭が壊れることを恐れて自分を犠牲にする必要はない。私は十分に苦しんできて、今も苦しんでいる。残りの時間も短い。

父親は家庭を支えて当然だと子供が考えているから、父親に対する敬意が薄れる。内心では憎んでいたとしても、父親という存在を軽視するような家庭を私は望まない。それが義実家の流儀であるのならば、私は妻の考えを含めてその流儀を全否定する。

夫婦であっても、血が繋がった親子関係であっても、破綻する時は破綻するという心構えがあるからこそ配慮が生まれる。

その心構えがない家庭には配慮が生まれず、家庭が破綻し経済的に苦しむことで始めて実感するのだろう。

我が家に限った話ではないと思うが、今の社会は父親の扱いが軽すぎる。それが今の社会だと看過するから、さらに父親が追い詰まり、結婚に希望を持たない独身男性が増える。

頑固親父の何が悪い。