2022/09/20

蛙の子が蛙のまま中学受験へ

上の子供の中学受験はまだ今年のことだったのかと、時間の流れがやけに遅く感じる。第一志望校に合格した上の子供は難関中学で深海魚になることもなく、かといってトップクラスのエリートたちと競り合うこともなく、中間層を自由に泳ぎながら毎日が楽しいと満足して学校に通っている。

中学校の宿題や小テストが多いからなのか、上の子供は親が勉強しろと言わなくても机で勉強している機会が増えた。しかし、我が家が現状に安堵するはずもなく、次は下の子供の中学受験の準備だ。とはいえ、上の子供のやり方が下の子供で通用するはずもなく、港から船出してすぐに座礁しているような感覚がある。


下の子供が学習塾で期待通りとは言えない成績を取ってくると、妻は感情的になって憤慨し、下の子供を執拗に大声で叱る。その姿はブラック企業のパワハラ上司のようだ。

私は子供の頃から試験勉強が得意で、受験という関門で不合格になったことが一度もない。とはいえ、模試では当然のごとく成績に波があった。

中学受験の学力偏差値は大きく分けて三種類のランキングがあり、四谷大塚、サピックス、首都圏模試センターが算出する各学校の入試の学力偏差値はそれぞれ異なる。この相違は模試を受験する母集団の学力分布に基づく。

昔の大学受験の偏差値ランキングで例えると、四谷大塚が河合塾、サピックスが駿台、首都圏模試が進研模試のような感じ。

他の塾でも参考値として使われることが多い四谷大塚の偏差値の場合、それらに5ポイントを足すと高校受験や大学受験の学力偏差値の難易度と同じくらいになる。

四谷大塚偏差値70の開成中学と河合塾偏差値70の東京大学では5ポイントの差がないではないかという突っ込みがあるかもしれない。統計学を学べばその理由が分かる。我が子たちには関係のない話だ。

もとい、中学入試で偏差値50の学校の難易度は、高校入試や大学入試で例えると偏差値55と同程度。大学受験の場合には河合塾の偏差値ランキングで学部を選ばなければ国公立大学がターゲットゾーンに入る。

不思議なことに、偏差値50の中高一貫校に入学した生徒のほとんどが国公立大学に合格するわけではない。マーチの合格率はそれなりに高かったりもするが、中学入試における小学生の学力が必ずしも大学受験に反映されるわけでもないらしい。ただし、超難関校を除く。

それが分かっていても、偏差値50が遠く感じる。受験で無敗だった自分の子供の偏差値が40台。現実は重い。

下の子供の成績が芳しくないのはなぜか、それはきちんと予習・復習を続けないからだ、真面目に勉強しないからだ、すぐにサボって遊ぶからだと妻は子供を叱る。

確かにその通りだ。しかし、下の子供にはこの状況に至る性質や背景がある。それらを妻は考慮していない。

また、自分の責任を全否定し、他者を批判するのは妻の悪い癖。どのようなパーソナリティなのか私は理解しがたいのだが、強烈な自己肯定だ。

夫婦共働きのため、妻が子供に勉強を教える時間が少ない。それは子供の責任ではなくて親の責任だ。

しかし、その状況に至ったのは夫である私が努力しないからだと妻は不満を溜める。

私としては往復3時間の浦安からの通勤地獄に加えて激務があり、相応の収入を得ている。子供の中学受験に付き合っている余裕があるはずもない。そもそも、子供に中学入試を受けさせるという方針は妻が決めたことだ。

中学受験は親の受験と言われたりもするが、中学受験に関心がない公立志向の保護者から見ると、その姿はスポーツ根性物のドラマのように見えるかもしれない。金と時間をかけ、そこまで親が熱くなる必要があるのかと。

確かにその通りだ。狂気を感じる。

しかし、受験に勝利した場合には相応の価値が生まれる。敗北した場合には価値は生まれない。なので親が熱くなる。

さらに、一部のトップエリートを除くと、中学受験というイベントは「筋トレ」に近い。受験本番は競技に相当するが、それまでの「頭の筋力」で乗り切るような感がある。

トレーナーが用意したスケジュールに従って地道にメニューをこなし、現状の筋力を理解し、とにかく地道にトレーニングを積み重ねる。しかし、実際の筋トレと違って、中学受験の学力はとても短い期間で変動する。なので親がさらに熱くなる。

しかし、筋トレにしても受験勉強にしても、誰かから叱咤激励されてモチベーションが上がるという話ではない。とりわけ、他者から批判されたり否定され続けてやる気が上がるはずはない。

妻は、その点についての理解が欠けている。

下の子供が高い偏差値を出せないのはなぜなのか。自分なりの考えとしては、私が妻と(生物学的に)交配して生まれた子供だからだ。

私の学力が高くても、妻の学力は高くない。自分がアスリートでもないのに、子供にアスリートであることを要求しても仕方がない。勉強が不得手であるのなら、他の能力でどうやって生きていくか、それを親は考える必要がある。

独身時代の私は、「妻をめとらば 才たけて みめうるわしく 情けある」という言葉を真に受けて婚活に挑んだ。

その際、交際する女性の「才たけて」という部分、具体的には知性を第一に考えた。その理由はとても明白であり、自分の出自や生き方に基づく。

私の実父は代々が職人の家系であって、先祖は石工だったり、大工だったり、土建屋だったり、まあそういった物作りで生計を立ててきた。現在でも父方の親戚には職人が多く、自分の弟でさえも職人だったりする。

職人としての生来の性質は私自身にも受け継がれていて、現在の仕事においても新しい技術やシステムを立ち上げる時には重宝している。手先が器用であるということに加えて、机上の学力だけでは計ることができない創造性、さらには理論化することが難しい「職人のこだわり」は親から子に伝わるらしい。

職人あるあるではあるけれど、職人の男性が結婚する時には、同業者の娘と縁談になって所帯を持つことが多かったりする。すなわち、職人の性質を持つ人たち同士で遺伝子が濃縮されてしまったりするわけだ。

そして、職人には気難しい人が多いという話は本当で、実父の場合にも喜怒哀楽のポイントがよく分からない。しかし、誰が見ても精緻で、丈夫で、美しい成果物を世に出した時には、仲が悪くても互いに認めたりもする。職人のこだわりは国の境界を越え、「メイド・イン・ジャパン」という言葉が世界で認知された背景でもあるのだろう。

ところが、職人の能力はストライクゾーンがとても狭かったりもするわけだ。とりわけ、学校の入学試験という物差しが通用しなかったりする。

例えば、機械を使った切削加工の職人は数学や物理といった分野を理解していないと仕事にならない。その他、板金は物性、塗装は有機化学、土建は地質学など、関連する学問を学ぶことは必須事項だ。手に職をつけるとは言うが、頭も必要になる。

職人の場合、仕事に必要な学識については研究者レベル、あるいはそれ以上に詳しかったりもするが、仕事に関係のない内容は全く関心がなかったりする。

高校入試や大学入試の場合にはどうなのかというと、様々な科目で高い点数を獲得した人たちが選抜される。とどのつまり、このようなタイプの勉強が苦手な人が職人には多いというわけだ。

日本のメーカーにおいては、工業高校や高等専門学校の卒業生の就職率がとても高く、実際に現場で活躍することが多いという話を耳にする。

私の実父の場合にも例に漏れず学校の勉強が苦手で、祖母の話では学生時代の勉強机の上は常に綺麗だったらしい。職人気質で散らかったことを嫌うという性質に加えて、そもそも勉強しなかったので机を使わなかったそうだ。

そして、高専を卒業した若き日の実父は郷里から離れた企業に就職し、職人として働いた。彼は偶然、自動車の給油のために訪れたガソリンスタンドにおいて、経理の仕事をこなしている女性従業員を見かけた。

その仕事ぶりを眺めていた彼は、デスクの両サイドに2つの電卓を置いて両手で打ち込んで計算している女性に見入ってしまった。1台の電卓で主計算を進め、もう1台の電卓で同時に検算をやっていたらしい。

パソコンなんてものがない時代。余程に頭の回転が速い聡明な女性なのだろうと感心した彼は、この女性を妻にめとらねばと思い、足繁くガソリンスタンドに立ち寄り、交際を経て結婚した。その女性が私の実母。

確かに実母の頭の回転の速さは優れていて、一瞬で物事を分析して結論に至る時がある。このままでは嫁のもらい手がなくなると心配した祖父の考えも分かる。

その後、実母は子育てに入った途端にペルソナが外れて荒々しい性格が剥き出しになった。中年になった実父は「結婚記念日がやってきた。今年も耐えることができた」と毎年のように私にメールを送ってきたりもした。

当時は自己責任だと思ったが、まさか独身時代の私が実父の生き方をトレースするとは思っていなかった。

若き日の実母は資産家の娘だったので、そもそも働く必要がなかった。彼女は高い学力を有していたそうだが、「女が高学歴になると、嫁のもらい手がなくなる」という戦前生まれの祖父の方針により、大学に進むことができなかったらしい。現在では信じられない話だが、昭和の頃はよくあった。

つまり、実母がガソリンスタンドで働いていたというのは社会学習のようなもので、実母の妹のように資産家の子息と結婚し、多額の不労所得がある中で生活するという未来があったりもしたわけだ。

そして、実父と実母の奇妙な出会いが、私の遺伝子群や形質に影響を与えた。

実母の家系には頭の回転が速い高学歴な人たちが認められ、実際に赤門をくぐって学校に通った人もいる。運が良かったから資産家になったというよりも、戦前戦後の動乱の中で資産を築くだけの頭脳があったということなのだろう。

職人の家系に生まれた実父の遺伝子と、頭の回転が速い家系の実母の遺伝子が混ざり、私が存在することになった。

実父が実母と(生物学的に)交配していなければ、私が銀杏の紋章を授けられることはなかっただろう。しかし、父方から受け継いだ職人としての能力がなかったならば、凄まじい頭脳を持った人たちの集団の中で生き残ることは不可能だったはずだ。

なるほどそうかと私は思った。

自分が結婚する時において、子供の性質がどのように発現するのかを計算しておかねばならないと思った私は、とにかく勉強が得意で頭の回転が速い女性を伴侶として探すことにした。

しかし、なかなか婚活が捗らなかった。出会った女性たちは確かに優秀だったけれど、子供が嫌いだったり、家庭的ではなかったり。このまま世帯を構えることができるのかと私は思案した。

また、結婚を考えている女性を連れて両親に会うと、実父や実母は常に不満そうな表情になった。

銀杏の紋章を持っていたり、難易度の高い国家資格を持った女性を連れてくると、大学に通ったこともない両親はドン引きし、蔑まれないように無意味に構えていたような感じがあった。

今から振り返ると、結果論として私自身が家庭的ではなかったのだから、気難しい両親の感想なんて無視して結婚すれば良かったわけだ。

このままではずっと独身だと危惧した私は、「妻をめとらば 才たけて みめうるわしく 情けある」というフレーズの「情けある」という部分に着目し、家庭的で礼儀正しくて性格が良くて優しい女性と交際することにした。

容姿は時間とともに変化するが、性格は変化しないだろうと。我ながら論理的な考えだ。

彼女を連れて実家に行くと、両親は大歓迎。普段から笑顔がない実母は街にパンダがやってきたかのような歓待ぶりで、気難しい職人の実父は挨拶の後で式場の場所だけを指定してきた。そして、この勢いのまま結婚に至った。

その女性が現在の妻だ。

皮肉でもブラックジョークでもない。真夜中にUFOがやってきて宇宙人と遭遇したというようなオカルトでもなく、途中でパラレルワールドに迷い込んだというSFでもない。

女性の性格は変化しないと考えていた私のロジックは間違っていた。そもそも女性はペルソナを被って振る舞うことが多いので、結婚して豹変するかどうかはロシアン・ルーレットの引き金を引くようなものだ。

ただし、妻が豹変する確率は6発中5発に実弾が入っているくらいだろうか。本物のロシアン・ルーレットよりもスリルがある。ヒットすれば長く続く一本道だ。

実母と同じく、妻は子育てに入って性格が豹変してしまった。おそらく、このパターンに引っかかった実父が相変わらずの思考回路で引っかかり、そのパターンが当然だと思っている実母は妻に同じ空気を感じて気に入ったらしい。

それはともかく、当時の私は妻に求める要素として、頭の回転の速さや勉強の得手を考慮しなかったわけだ。

したがって、(生物学的に)交配して生まれるF1は当然だが私と妻の遺伝子が混ざり、学力偏差値での競争に長けていないというケースが生じうる。

銀杏の紋章を持っていたり、難易度の高い国家資格を持った女性と結婚して幸いにも子供を授かった場合、その子供は受験で無双になっていたかもしれない。蛙の子は蛙だ。

だが、当時の私は優しい女性との穏やかな生き方を求めた。途中で鉄幹師匠のフレーズに当てはまらない状態になり、修験道にも似た精神鍛錬にふさわしい生き方となり、その先には生死さえ達観するような涅槃の境地があった。今でもすぐに死んだ方が楽なのではないかと思う時がある。

もとい、下の子供が中学受験の準備に入り、上の子供と同じく大手学習塾に通い始めたわけだが、現状としては思わしくない。繰り返しになるが、偏差値50という数字が遠い。

その状況に対して妻が不満を溜めて、下の子供を大声で怒鳴って叱る。下の子供はプライドが高いので、さらにやる気をなくす。

これでは有名中学は難しいという成績表を持って帰ってくる下の子供を叱りつける妻の声を耳栓越しに聞きながら、私は心の中で妻に突っ込む。

「君だって、受験勉強が得意じゃなかったよね」と。それを口に出すと、「私はもっと真面目に勉強したわよ」と妻は反論することだろう。

「下の子供の学力を低下させてしまっているのは、その自己肯定の強さだ」と論破すると妻が暴れるので言葉を飲み込む。

下の子供は地頭が悪くて勉強ができないという話ではなくて、そもそも勉強という行為が好きではない。

中学入試というイベントでは、地頭が良い子供であっても勉強をしないと良い成績は望めない。

裏を返すと、地頭の良し悪しに関わらず、短期間であっても学習内容を頭に詰め込むことで成績が上がったりもする。「中学受験は親の受験」と言われる背景には、親が子供の学習をコントロールすることで偏差値を上げることが可能という側面がある。

上の子供の場合には、受験シーズンが始まってもやる気が出ず、第一志望校の偏差値には届いていなかった。しかし、直前になって禁術魔法を発動するかのように捲り上げて受験を突破した。

ところが、下の子供はその姿を見て学んでしまった感がある。「ああ、この程度で中学受験はクリアできるのか」と。

受験本番で精霊を召喚して巨人の首を狙う展開は、上の子供が中二病をこじらせているからこそ可能だったわけで、下の子供が同じことをすると全落ちする。

しかしながら、思考がマニアックでコミュニケーション能力が偏っている上の子供と比較して、下の子供にはとても高い対人能力が認められる。少なくとも私の家系にこのような人物は生まれていない。

おそらくだが、このような「相手の心情を察して、空気を読む」という能力は義父の遺伝子によるものだと思われる。そういえば、義父は机上の勉強や偏差値競争があまり得意ではなくて、W大学に行きたかったのだがマーチに進むことになったそうだ。

マーチであっても立派だと思うけれど、日本どころか世界中の猛者たちがサバイバルレースを繰り広げる外資系の大手金融企業において、義父は定年まで生き抜いた。義父よりも偏差値競争で上位にいた同僚たちであっても、朝に出社してその場で解雇通告を受けて去ったこともあったらしい。そもそも学歴なんてものが無意味な実力社会だったのだろう。

システムエンジニアに古文漢文の能力が求められるのか、営業職に微分積分のスキルが求められるのか。あればあったで使えるかもしれないが、答えは否だ。しかし、受験という平たい物差しでは職業人としての能力を比較することは難しい。

他方、いくら受験勉強が得意でも、手先が不器用でピーラーでしかリンゴの皮を剥くことができない外科医に自分の心臓や脳のオペを担当してほしくない。命に関わる。

では、こだわりがとても強くて、「嫌なものは嫌だ」と受験勉強を拒否する下の子供の性格はどこから来たのかというと、私から遺伝したようにも思えるし、妻から遺伝したようにも思える。

「妻の家系は勉強が得意ではない、だから下の子供の学習姿勢は妻からの遺伝だ」という考えは短絡的過ぎる。学習能力に影響する遺伝子は無数にあるわけで、机上の受験勉強という活動への関心を促す遺伝子の組み合わせも膨大なことだろう。

「私の子供の頃は真面目に勉強した」という妻の反論も短絡的過ぎる。それは遺伝学の原則をまるで理解していない。隔世遺伝という教科書的な話ではなくて、勉強が得意ではなくてこだわりが強い義母の形質が妻を経由して下の子供で発現している可能性はある。

最も懸念されるパターンとしては、こだわりとプライドが強い下の子供の性格が私の父方の家系からの遺伝であった場合。

職人の家系は、目の前にある対象をそのまま受け取らず、自分なりに考えてカスタムしてしまうという性質がある。私が自転車の完成車を手に入れて、すぐに解体してフレームから組み直すこともその性質の発露なのだろう。

下の子供としては、上の子供が通っていた学習塾に通い、そこで与えられた資料や学習内容などを自分なりにカスタムしようとしているのかもしれない。学習塾のカリキュラムは至適化されていて、その必要がないにも関わらず。

私自身の生き方を振り返ると、この点が理解しがたい。下の子供が学習内容をカスタムする際、何を指標としてカスタムしているのだろう。自分の場合には、深く悩むこともなく点数によって達成度を把握していた。達成度に関係なく勉強のスタイルを自分で決めるという考えであれば、それは私からの遺伝とは思えない。

併せて、下の子供としては、学習塾で与えられる内容と自分のスタイルにミスマッチがあると感じてモチベーションが上がらず、勉強せずに遊んでしまい、結果として成績が上がらず、妻から叱られ、さらにモチベーションが下がってしまうというループに落ち込んでいることは分かる。

だとすれば、学習塾のやり方が本人と合っていない可能性があるわけで、夫婦できちんと話し合い、子供を納得させて転塾する必要がある。

しかし、妻は唯我独尊+唯実家独尊の人なので、夫である私の意見なんて無視して義実家と一緒に子供の教育方針を決めてしまう。

この場合、妻が子供を叱るという行為は全くの逆効果だ。ただひたすら家庭の中で妻や子供の怒号が響き渡り、多くを諦めた私の頭の中で別居や離婚への願望が増大するだけ。子供が中学受験に挑むよりも、父親の心身の健康の方が大切だ。妻は分かっていない。父親がいなくなれば中学受験どころではない。

そういえば、上の子供が中学受験を終え、下の子供が中学受験の準備を始めて感じることがある。

あくまで私感だが、子供を保育園に通わせる時のパターンと、学習塾に通わせる時のパターンが似ている。

夫婦共働きで子供が中学入試を受験するという一部の組合せになってしまうけれど、朝に子供を起こして朝食をとらせ、自転車の後部座席に乗せて保育園に向かい、保育園に子供を預けるという日常は世帯によって異なる。

親が起こすとすぐに起きて朝食をとり、雨が降っていてもグズることなく保育園に向かい、先生や友達を見かけたら嬉しそうに親元を離れて歩いていく子供がいる。このようなタイプの子供は中学受験で苦労しないように思える。

他方、朝に起こそうとすると癇癪を起こし、朝食を食べろと言っても気分次第で食べようとせず、晴れていてもグズり、雨が降っていたらさらにグズり、保育園に到着した後でも機嫌が悪いとずっと泣いて怒るような子供もいる。下の子供はこのタイプだった。

妻も癇癪持ちなので下の子供も癇癪持ちなのだろうと当時は思っていたが、中学受験というステージまで引き続いている。本人の頭の中でどのような思考が展開されているのか、父親である私には理解しえない。

妻は「私が子供の頃は真面目に勉強した」と言い張るけれど、気に入らないことがあると「嫌なものは嫌だ」と拒否して思考停止するというパターンは下の子供と酷似している。

自己肯定が強く、批判されると癇癪を起こして怒鳴るところも同じだ。となると、妻は下の子供を介して自分の遺伝子群と戦っているという理解になる。

父親としての私としては、ここまで揉めるのであれば中学受験を止めて公立中学に進めばいいと考えている。子供が行きたいという私立中学があり、その中学に入るために努力して受験勉強に励むというスキームが正しい。

下の子供の場合、私立の中高一貫に進ませたいという妻の方針が前提にあり、本人もそれがいいと考え、しかし勉強せずに遊んでしまい、その姿に妻が怒り、私が疲れている。

そもそも、複数の子供を私立中学に入学させるだけの経済力は、私が身を磨り減らしながら働いているからこそ可能になっている。私が倒れたら中学受験どころではない。

加えて、勉強せずに遊ぶような子供は、それ相応の責任を自分の生き方で背負えばいいと私は考えている。

私自身は実家に金がなくて学ぶことが難しく、とても苦労して学校に通った。そのような辛さを自分の子供に味わわせたくないと思って努力してきたが、連れ添った妻や生まれてきた子供がこの状態。

経済的な豊かさを実感していれば、中学受験やその後の通学でどれだけ金がかかるのかを理解するはずだ。それらを理解せず、勉強せず、遊ぶような子供にまで親が機会を与える必要はない。

厳しい言い方かもしれないが、中学受験ごときでモチベーションだなんだと言っている子供は、大学受験や就職試験といったさらなる難関を突破することができないだろう。親が課金してゲタを履かせてもたかが知れている。

多くの親子が学力競争に向かう理由は簡単だ。職業人としての個別の適性や能力といった物差しよりも、偏差値という平たい物差しの方が潰しが利き、分かりやすいからだ。

後者を望まないのであれば、ターゲットゾーンが極めて小さくても前者を伸ばすしかあるまい。中学受験が全てではないし、途中から自分のスタイルを構築して方向が変わることもあることだろう。

むしろ、子育ての時期に母親である妻が怒鳴り続け、下の子供が反論して大騒ぎし、穏やかさの欠片もない家庭が続くのであれば中学受験なんて止めればいい。

一体、この狂想曲は誰のため、何のために演奏しているのか。