2022/09/08

分厚い雲の隙間から差し込んだ陽の光

8月中旬から生じた浮動性の目眩は、まるで頭部を吹き飛ばされるような感覚にまで発展し、生きる気力を確実に削り続けている。この浮動性の目眩の原因は、明らかに浦安住まいのストレスによるものだ。

息が詰まりそうなくらいに高い人口密度、妻と市内の義実家との共依存、短気で我の強い市民性、千葉都民の宿命である長時間の電車通勤。これらに加えて、夏休みに全国からこの街に押し寄せたディズニー客からのストレスが凄まじい。


「ディズニー客のストレス? なんだそれ? あはは」と知らない人たちは笑うだろう。現時点で、この街に押し寄せるディズニー客は、たった一日で10万人。こんな小さな街に10万人もの人たちがやってくる。

市の人口は16.4万人。この状態でも千葉県内で最も人口密度が高い。しかし、市内に宿泊するディズニー客を含めると20万人を超えるのではないか。混み合って当然だろう。人間の鮨詰めだ。

ディズニー産業に関わる人たちは、新浦安の住環境について配慮しているとは思えない。ハコモノを作って客を集め、その他は街の行政や市民が受け入れろと。この街に「人が住んでいる」ことを忘れていないか。

これだけ多くの客を集めて、街に住む人たちの生活を圧迫していると感じたことはないのか。ないだろうな。ディズニー産業に対して強く言えない街の行政も頼りない。

コロナ禍における入場者数の制限によって2020年から2021年はディズニー客がとても少なかった。

ディズニー客によるストレスがなかったとしても、それ以外の浦安住まいの要素だけで私は適応障害を生じている。それでも、ディズニー客によるストレスの大きさを実感した。

くどいようだが、入場制限が緩くなった現在では一日で10万人ものディズニー客が浦安に押し寄せている。ポップコーンの売上だけでも凄まじい収益だな。

全国からやってくるディズニー客のテンションは半端ない。コロナで遊べなかった鬱憤を晴らすかのようなテンションは狂気とも表現しうる。

彼ら彼女らにとって、新浦安の地域住民はゲームのモブキャラクターのような存在なのだろう。そこで住んでいる人たちのことなんて何ら気にしない。

頭にネズミの耳のオモチャを取り付け、皆が同じ派手なビニール袋を持ち、不思議な笑顔で歩き続ける。その光景には一種の宗教性さえ感じる。

ディズニーは宗教ではないが、信仰に似た脳の活動領域を刺激するのだろうか。だとすれば、ネズミのキャラクターに対する指向性や嗜好性が人によって違う理由も説明しうる。

キャリーバッグを引きながら道を塞ぎ、騒ぎ、立ち止まり、ひたすら自分の欲求に従って奇抜な格好で我が街を闊歩する群衆。このような人たちを地域住民が歓迎しているのだろうか。

ああ、もう嫌だ。この街に住みたくない。

朝に目を覚ますと、「ああ、今日も一日が始まるのか。あの嫌な街中に出て、嫌な駅に向かい、嫌な電車に乗るのか。一日で3時間も通勤に費やし、人生を無駄にする。こんな生活、何が幸せなんだ。妻の実家が浦安にあるなんて最大の不幸だ」と、絶望感が覆い被さる。

そして、ストレスで魂を削られながら職場にたどり着き、やっと調子が戻ったと思ったら再び長時間の最悪な帰宅通勤。

目眩や吐き気に耐えながら憔悴した状態で深夜に自宅に戻ると、私の苦労を気にしない妻や子供たち。

相変わらず家の中は散らかっていて、水回りも荒れている。片付けられない家族。

激しい目眩は、脳に過度な負荷がかかっていることを分かりやすく自分に伝えている。

動悸が激しくなったり、不眠になったり、文章を認識することができなくなったり、感情が枯渇したりと、ストレス障害が増悪した場合の流れはよく分かる。すでに経験したことがあるからだ。浦安という街に住んだから、このような悲劇が生じた。

自分の状態をモニターするために数編の録を記してみたのだが、地獄の中でブログを書いているかのように憎悪や憤怒に充ちた文章になった。もはや、ネットで公開して他者が読むレベルを超えてしまっているので非公開に設定した。

妻や子供たちの言動については怒りや悲しみという感情さえ干上がってしまい、もはや自分は必要ないという諦観の境地に至っている。

子供たちが成人すれば私だけ別居するというイメージはこれまで曖昧だった。心の中で可能であれば回避したいという気持ちがあったからだろう。今は違う。

下の子供が市外の私立中学に入学すれば、この地獄のような浦安住まいから解放されるはずだ。浦安からの脱出の日が近づいてくると、先が見えなかった頃と比べて現状が厳しく感じるのはなぜだろう。今すぐに転出したいという気持ちが強くなるからだろうか。

妻や義実家は浦安が住みやすいと信じ込んでいる。その価値観は家庭という空間において濃縮された原始的な宗教のように感じられる。信じる信じないは人の自由だが、妻や義実家はその価値観を私にまで押しつける。

価値観の共有なんてできるはずがないだろ。私は感情まで枯渇して死にかけ、慢性的なストレス障害に苦しんでいる。住みやすい街ならば、どうしてこんなに疲れ果てているんだ。

夫の悲惨な状態を無視する妻の思考は尋常だと思えない。妻は夫について考えること自体を放棄している。都合が悪いことについては無視を決め込んで、配偶者が苦しんでいても気にしない。妻はいつもそうだ。

家族は私の心の支えにならないし、疲れを癒やしてくれる存在でもない。脱浦までに自分の精神が崩壊しないように、自分で何とかするしかない。

浦安住まいのストレスによって脳が悲鳴を上げているような状態では、そのストレスを緩和するための策はあまり残っていない。

住みたくもない街に引っ張り込まれて、義実家や妻から「さあ、この街は住みよいぞ」と意味不明な洗脳がやってきて、それを拒否したら異端視される。

私はこんなに鬱陶しくてストレスを抱える街に住みたくない。今まで住んだ数々の街の中で最悪だ。

浦安住まいの苦しみから短時間でも逃げようと酒に走ると、ペースが上がりすぎて依存症になることだろう。

真面目にメンタルクリニックに通い、投薬治療を受けて薬漬けになるのも馬鹿らしい。

なぜなら、浦安という街に住んでいること自体がストレスの元凶だ。そのストレスを解決しないまま脳に作用する薬物を常用するなんて、全く理にかなっていない。

そもそも浦安市内のメンタルクリニックは大繁盛で予約を取ることさえ難しい。これだけストレスが多い住環境なのだから当然だろう。

となると、最も効果的なのは浦安から即時に転出するという手段だが、それはそれで義実家や妻が喧しくなるだろうし、下の子供が転校するとなるとこれまた喧しい。住む街や家が変わったところで、そこで生活する家族は変わらない。

パニック障害やうつ病に進行する危険性があるのならば、私だけが都内に引っ越して単身赴任のような形で生活を維持するしかない。無駄な金がかかる。

八方塞がりになってくるとさらに気持ちが沈んでしまう。苦しみを緩和する上で最も効果があることに取り組もう。それは、太陽の光を浴びながら、自転車に乗ってペダルを回すこと。

目眩が酷すぎて休日は寝込んでいることが多かったけれど、さすがに何とかしないと精神の井戸に落ちる。住んでいるだけで苦痛を感じる街から離れ、自分だけの時間を過ごそう。

できれば千葉県北西部の谷津道までサイクリングに出かけたかったのだが、目眩が生じる状態で一般道を走ることは危険だな。転倒すると自動車に轢かれる。高齢ドライバーによるミサイルを回避するだけの自信がない。

ということで、いつも通りに江戸川の左岸の河川敷を走ることにした。

左岸を走り続けていると、流山市クリーンセンターが見えてくる。ゴミ焼却施設の煙突だと言ってしまえばそれまでだが、白い塔が建っている光景が気に入っている。浦安からこの施設を往復すると60km程度の距離に相当し、ミニベロではなくロードバイクで走った場合には80km程度の疲労感や満足感が得られる。

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クリーンセンターの付近には稲田が広がっている。すでに稲刈りが終わったらしい。確実に時間が流れていることを感じて気が楽になる。

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カスタムを施したブルーノのミニベロの状態は相変わらずだ。ゴテゴテと様々なアクセサリーを取り付けてはいるものの、すでに慣れてしまった。

ブルーノ・スキッパーは乗って走っているだけで心地良い。ペダルを回せば素直に加速し、地面の感触も楽しい。両足に車輪を付けて走っているような小回りの良さがいい。

河川敷に生い茂った雑草は地域の自治体の取り計らいによって除去され、高校球児の頭部のように刈り上げられている。

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ペダルを回しながら素になって考えた。一体、自分は何に対して苦しみ、何に対して憤っているのだろう。その発端が妻との結婚にあることは間違いない。自分なりに最良の選択だと信じて前に進んだが、これで幸福になったのだろうか。

ため息をつきながら眠り、目覚めた瞬間に絶望がやってくるような毎日に。

この最悪な住環境から逃げようと思ったところで、子供がいると気楽に引っ越すこともできない。それが父親としてせめてもの責任だと思ったところで現実は厳しい。

しかも、燦々と降り注ぐ光を浴びて日焼けしたかったのだが、当日は分厚い雲が天を覆っている。晴れ渡ることのない自分の状態と重なって感じられた。

しかし、復路に入ったところで雲の隙間から日の光が差し込んできた。河川敷でジョギングや散歩を楽しんでいる人たちも立ち止まってその風景を眺めていた。

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直感的に感じたことではあるけれど、それを人の生き方に例えるならば、まさしくその通りだと思った。

「今日は晴れてほしい」と願ったところで、頭の上に分厚い雲が広がっていれば受け入れざるをえない。「どうして曇っているんだ」と怒ったところで何も始まらない。

そこに陽の光が差し込んだ時、「ああ、自分が感じていないだけで、雲の上には光があったんだ」と思ったりもするわけだが、現実的には目の前の光景が全てだ。

そのように小さなことで人は一喜一憂し、時間を消費し、やがて時の流れの重さを実感する。

この空の下では、期待通りの家庭に恵まれて幸せに生活している同世代がいて、私のように生きているだけで苦しんでいる人もいる。公平ではないと憤ったところで何も始まらない。

この世界において公平なんて現実は存在していない。

炎天下の江戸川河川敷は人が少なくて楽だったが、過ごしやすい季節になると地域住民がワラワラと集まり、快適にサイクリングを楽しんでいる余裕もない。

そろそろ河川敷のサイクリングは走り納めかもしれないな。