2022/08/25

老いに伴う人生観の初期化が待ち遠しい

相変わらず変化に弱い私は、季節の変わり目の気持ち悪さと浦安住まいの地獄、さらには夏休みのディズニー客の鬱陶しさによってストレスを蓄積し、浮動性の目眩に苦しんでいる。目眩を我慢していたところ、吐き気どころか首や肩まで痛くなってきた。自律神経に過度の負荷がかかっていることをここまで実感すると、むしろ面白くも感じる。

夏休みにディズニーを目指してキャリーバッグを引っ張って押し寄せる人波に罪はない。商業施設と住宅を混在させた街の行政と、その街に引っ越してきた自分が愚かだったというだけのこと。しかし、ここまで私が苦しんでいるにも関わらず、この苦しみを妻や子供たちが何ら理解していないことに絶望する。


さて、浦安のように人口密度の高い街で生活していると、とりわけツイッターで自分をより素晴らしい人物だとアピールしたい人のリアルな姿に出くわすことがある。

私は思うのだが、ツイッターは人類が生み出した技術の中で、この上ない素晴らしさがある。なぜに素晴らしいのかというと、人の外面と内面の解離を如実に浮かび上がらせることができるから。

積極的に暴露するつもりはないのだが、ネットとリアルの両面を照らし合わせてみると、ツイッタラーがいかに虚像を提示している人たちなのかが分かる。

自分はこんなに素晴らしいんだとツイッターでアピールしているが、リアルな生活においても違うことなく素晴らしい人に出会ったことがない。そこまでして自分をより良く魅せたいのだろうか。

ベクトルは違うけれど、自分が賢人だと知らしめたい人たちはヤフコメに張り付いたりもするのだろう。皆さん、元気だな。

膨大な数の人たちの内面がこの状態で、それらがペルソナから染み出して現実世界に広がるわけだから、疲れて当然だな。この世の理をようやく理解した。

往復3時間超の電車通勤で激しい目眩がやってくると、決して比喩ではない地獄を経験することになる。本当に吐き気を催したり、ベンチに座り込んで動けなくなったりもするし、結婚しなければよかったと後悔することさえある。それほどまでに厳しい。

心身を壊して職業人生を棒に振り、現在でも慢性的な不調に苦しんでいる。妻の実家がある浦安に住むべきではなかった。大きな間違いだった。

あまりに強い目眩に襲われて電車を降り、ベンチに座って吐き気を堪えている時に思った。

これだけの苦痛に耐え続けていたとしても、浦安という嫌な街から引っ越したならば、数年で地獄の日々を忘れるのだろう。

それは個人的な通勤の苦しみとか、嫌な街での生活という話ではなくて、自分が生きてきたことの記憶そのものが夢のように変換されるということなのかもしれない。

現時点で五十路に近くなり、あと10年もすれば職業人生のリタイアが近くなってくる。多くの人たちは自分が老人になるという現実について直視することができていないと思う。

だからこそ、自分が実際に老人になってから思考が真っ白になってしまったり、そこからの生き方について悩んだりもするのだろう。

その時に自分がいかに素晴らしい人物なのかをネットに投げ込んだところで、誰も相手にされない。

公民館でシニア向けのサークルを探し、仲間を増やそうとしても徒労に終わったりもする。友人関係とは長い時間をかけて構築するものだ。若い頃の記憶が存在しない友人関係は卵の殻のように脆い。話し相手くらいの価値だろうか。

職業人生をリタイアすれば、仕事を介した人間関係がなくなる。心の中で多くを占めていた存在が消え、自分という存在の小ささを知って茫然とし、ようやく次の生き方を考える。タイミングとしては遅い。

しかし、普通に生きていれば、自分は生き続ける必要があるのかとか、残りをどのように生きるのかといったテーマについて悩むことは少ないはずだ。常に「現在」という時間軸の中で生き、曖昧な未来については深く考えない。

ところが、生きる中で地獄を経験すると、不思議と時間軸が現在ではなくて未来に向かって進む。それは前向きな考え方というわけではなくて、終焉に近い状況を疑似体験するからなのか。

最近の私は、生活の中で何が必要で、何が不要なのかを意識するようになってきた。終活に入るのは早いかもしれないが、そろそろ自分の身の回りをシンプルにしたい。

他者との共通認識において生じる価値観なんて、気にしていると面倒になる。自分が必要ないと思えば、たぶん必要ない。

趣味や娯楽、外食、旅行など、不要なものを取り去っていって残ったもの。それらの中に自己アピールや他者からのレスポンスが含まれていないことに私は気が付いた。

同世代には他者へのアピールに囚われている人たちがたくさんいるが、他者のレスポンスを鏡として自分の存在を確かめて満足することが困難なステージが刻一刻と近づいている。

そのステージに差し掛かると、自分の存在を自分で確かめることになる。しかし、それは容易ではない。

同世代が五十路に近くなってきても、遠くない将来に自身の価値観がリセットされるという現実に気付いていない人は多い。いや、現実について曖昧に気付いてはいるが、それを認めたくないだけだ。

自分が働き盛りの時点で、なぜに老いた時のことを考えねばならないのか、それはナンセンスではないかと思うことだろう。

しかし、一度でも精神の井戸に落ちた人であれば、死を身近に感じることで、自分がなぜ生きているのかを考え、残りの時間をどのように生きるのかを考える。

自分を含めた同世代が職業人生を終えるまで、せいぜい頑張っても20年くらいだろうか。20年どころか10年も経てば終わりが見えてくる。

そのラインを越えると、長い経験で培った人生観がリセットされる。その時には他者を鏡として自分を確認することができなくなるだろうし、自分の存在を自分で確認する必要が生まれる。

多くの老人たちがそのトランジションに戸惑い、足掻き、絶望するわけだが、私はむしろその時の到来を歓迎しているような気持ちになる。

これだけ生きることに苦しみ続けてきたわけだから、そろそろリセットしたいなと思う。

浦安住まいの苦痛が続いているのは、私の判断の甘さと決断の弱さによるものだ。それらを後悔し続ける日々も終わる。ディズニーと義実家がある場所には住みたくない。この街は私にとって生き地獄だ。

人生観が変わった時、自分の傍に残っているのは何だろうか。予想外の展開なんてありえないだろうし、概して自分が漠然とイメージしていることが形になるだけだろうか。それでいい。