「夫のちんぽが入らない」というシリアスな作品のレビューが熱い
サイバーパンクを見続けて疲れると、今度は「転生系」のアニメに移る。中世ヨーロッパを背景とした魔法使いと可愛らしいキャラクターの世界観を(別の意味で)魔法使いになった中年男性たちが観て喜ぶような内容。この気楽さがいい。しかし、そのホーム画面にNetflixがお勧めとして投げ込んできたのがタイトル通りの実写ドラマ。
タイトルだけで驚いた。男性器の隠語とはいえ、まあ人々の成長段階で速やかに理解するので隠語にさえなっていない言葉。それは分かる。
だからといって、心身共に疲弊する浦安住まいの毎日において、ようやく確保したリラックスタイムだ。なぜに他の夫婦の営みについて考えねばならないのか。入らない? そんなことは知らん、バイアグラで何とかせよと。
Netflixに登録する際には年齢や性別等も入力するので、その世代に合わせた作品を提案するというシステムは理解しうる。
しかし、作品名とはいえ「ちんぽ」だとか「入らない」だとか、五十路が近くなって衰えてきたオッサンに対してデリカシーに欠けていると感じはする。ああそうなの大変だよね、バイアグラで以下略。
いや、その考えは早計かもしれない。入らない理由が夫の不能であって、必ずバイアグラで解決すると私は思い込んでいないか。
もしくは、夫婦共働きの子育てを始めてからレスが続いて2周目の魔法使いになっている私と、転生系のハーレムアニメを望む生粋の魔法使いの中年男性たちにおいて、生命体として何の違いがあるのかという哲学的な命題をNetflixが投げ込んできたということか。それにしては変化球の落差が大きい。
あるいは、レスに悩んでいる五十路近くの夫たちがこの作品を観ることが多く、その傾向を察したAIが私に提案してきたということか。動画のサムネイルやプレビューは、コメディー系あるいはピンク系ではありえないシリアス調の提示がなされている。
この作品は、原作の小説を元にNetflixのオリジナルドラマとして制作されたらしい。小説やドラマの存在について私が気付いていなかったのはどうしてだろう。小説が発刊されたのは2017年。
往復3時間の通勤地獄に加えて、共働きの子育てで妻が家庭内で暴れ、義実家からのストレスも加わり、私がバーンアウトを起こしたのが2016年から2018年。
当時はうつ病に進行しかけていた、というか、今から振り返るとうつ病だったわけで、2017年頃は離婚するか踏み留まるか、それどころか自分が生きるか死ぬかという判断に迫られていた。ちんぽどころの話ではない。
そして、この作品がドラマ化されたのは2019年。バーンアウトからの回復の兆しが見えて、そこにコロナ禍がやってきた。ネットニュースで見かけたことがあったのだろうか。あまり記憶が残っていない。
確実に時を刻んでいたけれど、私自身の記憶があまり残っていない2016年から2018年という3年間。その期間に何があったのかを紐解くことは、最近の楽しみになっていたりもする。
最初から最後までこの作品を観た感想としては、ダイレクトなタイトルを越えたところにある残酷さを感じた。
私なりに要約すると、夫と妻の生殖器のミスマッチによって夫婦の営みに至らず、夫が風俗に通い続けて家庭の預金を枯渇させ、妻はネットで知り合った多くの男性と日に数回も性交渉を重ね、実家を巻き込んで子供をつくることを諦め、それでも夫婦として生きるという内容だった。
しかし、その背景には夫婦ならば子供を授かって当たり前という昭和の不文律があったり、夫婦ともに公立学校の教員という昨今では「ブラックな職場」を否定しえない仕事がある。それらはこの夫婦に限らず、社会全体に広がっている深刻な問題でもある。
これだけの重いテーマを扱いながら、メランコリックに偏重せずに仕上げたのは制作サイドの力量か、あるいは俳優たちのキャラクターや演技力によるものか。
非常にシリアスな内容に加えて、なぜに残酷だと感じたか。その主たる理由は、この作品の原作が全くのフィクションではなく、作者の経験に基づいていることだ。昭和の時代には、このようなジャンルは「私小説」と呼ばれていた。
芥川龍之介の「歯車」という作品は私小説の典型で、自死に至るまでの頭の中を文章として書き出している。その精神力と残酷な内容に私は驚愕した。人が死のうとする時に、頭の中で何が見えていて、何を考えているのか。その世界に入った者にしか分からない感覚や思考が巧みに表現されている。
しかし、人間には多様性がある。私小説どころか文章を読むことさえ面倒な人もいることだろう。せいぜいハッピーな毎日を送ればいい。終焉は必ず訪れる。
私小説だけでなく、一般のネットユーザーが残しているブログについても感じることがある。第三者から見れば「救いようがある」という内容でありながらも、本人としては「救いようがない」と考え、苦しみながら懸命に生きているという内容は心に刻まれる。
SF作品によくある巨大隕石がやってきて地球が木っ端微塵になったとか、まあそういった誰が見ても救いようがない内容よりも、第三者から見て「救いようがある」と感じられる内容は残酷だ。
第三者だからこそ客観的に物事を捉えることができて、本人だからこそ論理から外れた枠に囚われる。全て理詰めに生きることなんて不可能で、そこには様々な都合が絡んでくる。
先ほどの作品は、ネット上で「おとちん」という略称で呼ばれることがあるらしい。何となくそうだろうなという推察の下で作品名を検索してみると、やはりそうだろうなという勢いで無数のレビューがヒットした。
様々な作品を必要以上に紹介してしまう行為は「ネタバレ」と言われている。それはわざとネタをバラしているという狡猾な行いに該当する。
しかし、おとちんのレビューの場合には、それぞれの人たちがあまりに熱く作品を語ってしまうがために、ネタバレを意図していなくても作品の内容が分かってしまうという奇妙な事態に発展している。
この作品に含まれている「救いようがある残酷さ」には多面性がある。それを受け取った人たちはそれぞれの境遇に照らし合わせて衝撃を受け、色々と考える。
医学の心得がある人であれば、この夫婦は外科的な処置によって救われる可能性があったと考えることだろう。実際のネット上のレビューでも同じような意見が散見される。
私には腕の良い産婦人科医の友人がいる。このような悩みを持っている知り合いの夫婦がいたならば、すぐに紹介して診てもらって問題は解決し、夫が風俗通いで財産を使い果たすことも、妻が行きずりの男から無料の風俗嬢と揶揄されることもなかったことだろう。
しかし、そのことを言い出すことができるだろうか。最強の矛と最強の盾のミスマッチなんて、他者から見れば最強の組み合わせだが、実際は最強ではなかったわけだ。
生殖器のミスマッチだけではなくて、夫婦のミスマッチについて共感し、それでも生き抜く夫婦像に感銘を受けたという既婚者からのレビューも多数認められる。
おとちんの場合には器質的なミスマッチであり、精神的にはマッチしていたために夫婦を続けられたのだろう。
しかし、精神的もしくは心理的なミスマッチを含めると、レスに至るパターンは膨大だ。世界の中でも日本のレス率は非常に高いことが知られている。
おとちんに対するネット上の多数のレビューは、それぞれの夫婦をテーマとした「私小説」の様相を呈している。他の夫婦の辛さを知り、「実はうちも...」という形で内面が投影されるのだろう。
それらの短編の私小説は内容が実に物々しくもあり、興味深くもある。勉強になったりもするし、「ああ、他の夫婦もそうなんだな」と妙に安堵したりもする。
役所に紙を出せば婚姻関係になるが、他人同士が同居して一緒に生活するわけだから、様々な違和感やトラブルがありうる。それらを含めて夫婦だと人は言うけれど、現実は想像以上に残酷だ。
思わずクスッと笑いが出たのが、「第二子が生まれた後、妻が夜の営みに関心を持たなくなりまして、それからはずっとレスが続いています。夜の営みは子供をつくるための手段だったのでしょう。このような夫婦関係は心底厳しいです。しかし、私は風俗に行きたくありません。倫理的に許されないと思うからです」というレビュー。まさに模範解答だ。よくあるパターンなのだろう。
それでも円満です的なアピールをしている夫婦だって、潜在的にはたくさんいるはずなんだ。所帯持ちの生活が長く続けば、他の夫婦の雰囲気を眺めるだけで分かる。ああ、この夫婦はすでに以下略。
そういえば、うちの妻が子供たちを叱る時、「それは、手段でしょ!? 目的と手段が逆になってるのよ! 目的は何なの!?」と怒鳴ることがよくある。
妻としては夜の営みが「手段」だったわけだ。では、その「目的」は何か。夫婦の繋がりの確認ではなくて、生殖という生物学的な意義に他ならない。生殖が終わったのだから夜の営みは必要ないというロジックだ。
夫婦共働きだとか、中学受験だとか、注力すべきテーマは他にたくさんあるという思考なのだろう。
目的と手段という話は分かりやすいようで難解な表現で、それをもって人を諭そうとする人は往々にして思慮が浅い。なぜなら、同じ手段であっても人によって目的が異なる場合が多いからだ。
他者から見れば意味がないと考える目的であっても、本人にとっては大切な目的になっていることもあるわけだ。この解離が夫婦のレスにも関係しているはずだ。
まあその辺りは適当に諦めるか、適当にやり過ごすしかないのだろう。
子づくりが終わったから夜の営みも終了というのは非情だということで、風俗やパパ活どころか不倫に突き進む夫の感情を否定しえない。パパ活や不倫は明確に民法に反しているが、微妙なのが風俗だな。
夫の風俗通いが精神的な苦痛に感じる場合には離婚の根拠になるが、1~2回であれば許される的な訳の分からない法的解釈があったりもして、白黒付けろよと思ったりもする。
道路交通法において1~2回であれば赤信号を無視しても構わないとか、警察官が怒らなければ問題がないとか、そういった話になりはしないか。
とはいえ、私の場合には倫理的というか費用というか、そういったことよりも感染症が気になる。HIVや梅毒だけでなく、性交渉で感染する病原体はたくさんある。ワクチンがないことも多い。そこまでして欲求を発散したいという気持ちがないし、自転車に乗ってペダルを漕ぐと忘れる。
さらに、おとちんに対するレビューの中で、「生殖器のミスマッチがあったにも関わらず、どうして結婚したのか、どうして離婚しないのか」という辛辣なコメントも見受けられる。
「知らんがな、結婚したいから結婚したんだろ」と私は思ったりする。性格のミスマッチがあったにも関わらず結婚した夫婦はたくさんいるだろうし、それがあっても連れ添っている夫婦はたくさんいる。
第三者から見れば、我が家の場合にも子育てに入って妻が暴力を振るった時点で離婚すれば展開が変わっていたわけだ。子離れできず突撃を繰り返す義母に私が悩まされ続けることもなかった。
妻と性格が合わないとか、望ましくない義母がセットになっているとか、そういったことは結婚する時に分からなかったし、引き返すポイントはいくつもあった。「救いようがある残酷さ」に該当するのだろう。
ということで、おとちんは夫婦関係について示唆に富む視点を提供してくれる。また、この作品のレビューによって紹介される多数の人間模様はとても勉強になる。